パンチの独り言

(2009年5月4日〜5月10日)
(野放図、保護、総体、救済、取捨、変幻、広視野)



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5月10日(日)−広視野

 様々な景気対策が実施されているが、その効果の程はまだ明らかではない。そんな状態で、副作用とも言うべき事が起きると、早速批判の声が上がる。どうも世の中は目の前のことしか見えない人ばかりで、何か起きるとすぐに反応する。策を講じる上で重要なことは、俯瞰的な評価であり、一つ一つの事柄ではないのだが。
 現金支給という直接的な施策も、関与する組織の規模により、必要となる時間が大きく違ってくる。既に全てが終わったところがある一方で、何も始まっていないというのは、いくら何でもと思えるが、当事者にとっては無理難題となっているのだろう。この調子では、効果の評価に至っては、永遠に導き出されないのかも知れず、政策の有効性を測ることは、期待できないかも知れない。既に、この機に乗じて暗躍する輩の姿が見え隠れし、それに対する警戒も広がっている。時間がかかればかかるほど、付け入る隙を与えるというごく常識的な判断からすれば、行政の鈍重さには更なる批判の矢が向けられそうだ。もう一つの対策であり、目玉の一つとして注目された通行料問題にも、近視眼的な批判が強まりつつある。恩恵に浴した人の反省の念を込めた批判には、呆れるしか反応の方法もないが、一方で、その範疇に入れなかった人からの批判にも、自己中心的な考えに基づく矛盾が感じられ、どうしたものかと思うこと頻りである。確かに、職業運転手の多くにとって、この措置は何の得にもならなかったばかりか、渋滞の発生や未熟運転の危険性など、害ばかりが目立つものとなっている。平等という考え方を都合良く適用するのが当然となっている時代には、こんな批判の声が上がるのも無理ないが、選ばれなかったからと言って闇雲に文句を言うのでは、何もするなということにしかならない。それより厚顔無恥ぶりをさらけ出したのは、恩恵に浴しながら、渋滞に文句を付け、何やら屁理屈を捏ね回す人々だ。近視眼、視野狭窄、そんな言葉がピタリと当てはまる気がする。

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5月9日(土)−変幻

 いよいよ事が起きたから、これまでのことは正しかった、と思う人がいるだろうか。それとも、これとそれとは話が別と思うだろうか。いずれにしても、疑いが晴れる代わりに、確実となることで何が起きるのかを知ることとなった。この騒ぎ、いつまで続くのかと不安に思う人もいるだろうが、本当の問題はそこではない。
 今回の報告も、水際作戦が功を奏したとの解釈から始まり、これで制御可能との自信を深めたに違いない。そこに心配があるというと、折角未然に防げたのに、水を差すようなことは、と言われそうである。しかし、少しずつ供給される肝心な情報からは、水際作戦は潜伏期には無効であることが見えてくる。丁度悪い時期に重なれば、網の目を潜り抜けることはあり得るわけだ。その意味で、患者数が増してくることは、単純に分母の数字を大きくするわけだから、分子の数字がゼロでなくなる可能性を増すことになる。一方、感染の広がりを評価する数字に関する議論も様々になされており、思惑が入り乱れての混沌を思わせる状態にある。確かに数値で示すことで明確になるものは大きいが、その設定における前提条件が、今回の事柄に当てはまるかどうかは不鮮明である。特に、以前から話題とされた鳥を起源とするものでの想定と比べ、死亡率の低さを問題視する人は多いが、それでも今後の展開では、状況が急変する可能性を排除できないとの補足がある。ところが、変化に関する議論は殆ど仮想的なものであり、今話題の中心となっているものに、何かが起きているかを論じる話はない。これもまた、最悪の場合を想定することの必要性からは、不要なものと思う人がいるだろうが、対処の厳密さからは、過剰反応の悪影響を危惧する必要があるだろう。世界機関による評価も、その点の想定を欠いたものであり、現時点での躊躇はそれによるものと思える。危機管理の一環として、こういう展開は想定しておくべきことなのだが。

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5月8日(金)−取捨

 情報の重要性を説く人々は多く、それに必要な手法やその為の設備について解説したものは多い。その一方で、玉石混淆の流れを憂慮し、そこに存在する無駄を批判する声もある。海の向こうの副大統領が高速通信の構築をぶち挙げたのは、既に20年前になろうとしているが、その後、何がどう変わったのだろうか。
 確かに、ネット環境は大きく変貌し、多くの人々はその恩恵に浴している。知りたいことがあれば、検索エンジンを利用して、ネット上の情報を手に入れ、問題を解決することができる。積極的な利用である限り、何も問題は生じないように見えるが、一方で、情報の垂れ流しを危惧する声は無くならない。情報提供において、消極的な人々に対して、有用な情報を流すことが重要と言われる。その為、受け手の興味をつかむような、魅力的な情報が大量にネット上を流れることとなる。ここに玉石混淆が問題化する原因が存在し、現実に大きな社会問題となりつつある。ただ、学習能力を有する人々にとっては、経験に基づく知恵の獲得から、徐々に振り回される機会が少なくなり、深刻な問題になることは少なくなる。一方、それとは別の所で、より深刻な問題が起きていることは、あまり知られていないのではないだろうか。このような仕組みが確立するよりずっと以前から、情報提供は多くのメディアによってなされていた。この場合に重要なことは、社会的な地位であり、ある程度の信頼を得てこそ、供給源としての役割を負うことができるということだろう。ところが、技術の進歩から、情報供給の時差が問題視され、精査よりも速度を重視する動きが高まった。結果として、不完全でいい加減な情報が、旧来のメディアにも流れることとなり、信頼が揺らぐこととなった。ただ、当事者はこのことを理解していないと思われ、このところも流行性感冒に関して、疑いの段階での垂れ流しが繰り返されている。信頼を保つために何が重要か、考えて欲しいものだ。

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5月7日(木)−救済

 何か困っているように見える人を見かけても、何となく通り過ぎていく。都会でよく見る光景だろう。人を助けるほど暇はないとか、自分の生活で精一杯とか、そんな言葉を口の中で呟きながら、通り過ぎる人もいれば、興味の対象として目に入らないという人もいる。いずれにしても、無視するだけのことだ。
 こんな話がある一方、こういう行為を厳しく糾弾する人もいる。人間の関わりとはもっと濃密なもので、互いに助け合う心があってこそ、社会が成立すると宣う。成る程と思う人もいるだろうが、そうかなと思う人もいて、一様でないことに安心するのは、少し距離を置きすぎているだろうか。助け合いの精神は重要としても、誰彼区別無く実行することは困難であり、また思わぬ障害を抱え込むことにもなる。その一方で、人道的な立場という言葉が使われ、様々な施しがなされているのを見ると、それに参加する気のない人は、どんな見方をされるのかと思うこともあるだろう。こう書くと、如何にも一通りの考え方しかないように思うかも知れないが、ここでも一様でないことは重要ではないか。人それぞれに違う意見を持ち、それに基づいて行動を決める。種々雑多な対応があればこそ、一点集中による弊害も起こらず、全体の均衡が保てるというわけだ。しかし、こういう考え方に反対する識者も多い。政策論争に躍起になる人がそれで、それによって大きく舵を取ることこそが、国の向かう道を決めると思いこんでいる。このところの不況と呼ばれる現象においても、職を失った人々に対する方策が取り沙汰され、極端な意見が続出している。現実には、その多くが無理難題でしか無く、特定の人々の救済しか考えていないことは、議論の中には現れない。正論が常に正しいとは言えないのだろうが、それにしても常識が通用しない人々を対象に、何をどう決めようとするのか、見えてこないことにこそ問題があるのではないか。

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5月6日(水)−総体

 何か思い違いをしているのではないか。そうとしか思えないことは、以前に比べて急増したように思う。義務と権利の話は散々書いてきたが、今回もそれに纏わる話だ。思い違いとは、権利主張のことで、それをする人、それを支える人、どちらも大きな過ちをしているように感じる。保証とは何か、ということも。
 社会制度の間違いを糾弾することは、最も簡単なこととされる。不幸な人を一人でも取り上げ、その原因を探れば、制度の欠陥が暴露されるからだ。ところが、そこに大いなる味方を見出したような論調が飛び込んできた。この国の人々が心の奥底で引っかかりを覚えている憲法に関することだ。つい先日も、記念日の恒例行事の一つとして、改正の是非を問う集会が開かれた。その時、数年前までは話題にも上らなかった条文が、旧知の物と並んでいることに驚いた人も多いだろう。理由はごく簡単で、困った人を救う端緒にしようと、思いついた人がいただけのことである。本来の目的は何処にあったのか、こんな所で議論されるはずもなく、ほぼ一つしかない思惑に則って、話は展開される。不幸に追いやられた人々に対する同情は、何処かしら人間性を示す指標と受け取られ、挙って賛成に回る人々が登場する。昔から改正の的にされてきた条文と一緒にしては、真剣に議論を続けてきた人々に失礼かも知れないが、話題性という意味で並べられた方は、それを単独で取り上げることに違和感を覚えざるを得ない。国民の権利と義務という括りで並べられている条文は、20ほどあるわけだが、その一つをここで取り沙汰にし、その保証が困窮する人々を放置することへの絶対的な威力を示すと思うのは何故か、こちらは簡単には理解できない。現状を把握し、それに対応することの必要性が高いことを否定するわけでなく、その為に根幹を成すものを揺るがせたり、一部を捉えて議論することに異常さを感じるだけのことだ。またか、と思うしかないのだが。

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5月5日(火)−保護

 新聞の一面の雰囲気がいつもと違う。少し注意して眺めると、その理由は最下段にあることに気づいた。いつも通り、書籍の広告が並んでいるが、その内容は全て特別な日を意識したものとなっている。その日にちなんだ内容に統一するとは、面白い企画だと思ったが、その題名を眺めた途端に、顔をしかめることとなった。
 少子化が著しくなるに連れ、育て方に慎重になる親が増えているように思う。その傾向が際立ってから随分時が流れたが、子供の異常行動や子供を巻き込む事件の数は減ったようには見えない。変わらないとする人もいるが、逆に増えたとする人もおり、実際にはよく分からないというのが現状だろう。それにしても、広告までして売り込もうとする書籍の内容が、危機感に溢れたものということが気になる。確かに、子供を守るのが親の務めに違いないのだが、警戒心を露わにしつつ、それを実行することはどうかと思う。守ってくれている親に対する感謝を期待する声がある一方、神経質に構えている親に違和感を覚える声もある。同じことは、子供にも適用され、子供の精神の安定にどのような影響を与えるのか、危惧する意見もある。現実に、そんな社会がそこにあるのだからと、目の前の問題解決を最優先に考える人もいるだろうが、その為に、別の悪影響が及ぶことを考える必要もありそうだ。そんな中で、偶々目に触れたとはいえ、そんな内容の書籍が出版され、それを頼りに生きようとする人がいると思うと、基本的な考え方を見直す時期が来ているように思えてくる。子供を守るはずの親が、冷たく突き放す事件が起きたり、過剰防衛に走る親が、周囲を敵対視する話があったり、兎にも角にも、親子の関係をごく普通に成立させる術を持たない人が増えているのは、おそらく確実だろう。子供に選ぶ権利がないとなれば、親をどうにかせねばならず、その為に必要なことは何か。マニュアルではないと思うのだが。

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5月4日(月)−野放図

 皆が忙しくする時期、暇なのはこういうところかも知れない。にも拘わらず、せっせと邪魔をする輩がいるわけで、下らない掲示物を貼り回る。本来、様々な形で違法行為と断定されているが、特定の難しさや罰則の軽さなどから、迷惑行為を続ける人間の数は減らない。所詮、人間性の問題に過ぎないのだが。
 自分さえ良ければ、と考える人間が急に増えたとは考えにくいが、村八分のような疎外感を募らせるやり方が通用しなくなったことが、こんな行為が蔓延する原因となっているのではないか。確かに、先日発表された調査では、倫理性よりも指示を優先すると答えた新人が多かったそうだが、それとて、実感さえない人々への調査では、信用の価値は低いのかも知れない。現実に、様々な責任がのし掛かる状況で、判断を下さねばならない立場に置かれた時、どんな対応をするのかは、全く別の答えを生じるだろう。空想の世界を、他人事のように眺め、盲滅法に突き進もうとする人間に、実感が湧くはずもなく、基準もなければ、どうにもならない。それと共に、確かに責任の所在を明確にしないことが増え、自分さえ良ければと言う考え方が、そのまま通用するかの如く見えるのも、社会が歪曲した結果と言えるのかも知れない。拝金主義の影響も確かにあろうが、倫理観そのものについて考えれば、それとの交換の余地はなく、本質的に相容れないものと見るべきであり、同時に議論しようとする姿勢自体が、的外れと言わざるを得ない。他人の迷惑との関係を想像できない人々の多くは、自らへの迷惑には過剰反応し、徹底的に糾弾しようとする。自と他の区別がこれほど大きくなったのは、社会が崩壊している証左と見る向きもあり、そこから見直すべきとする考え方もある。生きる権利や人権や、権利主張も確かに重要だろうが、別の何かと均衡をとらねば、崩壊することも忘れてはならない。

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