この時期、安定した天候が続くと思いがちだが、果たしてどうなのか。資料を見る以外には明らかにする方法がないだろう。しかし、それが事実だとしても、では今目の前で起きていることは、と考えると、話は更に複雑となる。確率などという言葉を耳にしても、現実に起きていることと結びつけるのは難しいのだ。
要するに、過去に起きたことを積み重ね、そこから傾向を導くために、確率なる考え方がある。これまでの経験からすれば、この位の割合でこんな事が起きる、というだけのものだが、それが恰も当たっているように信じるのは、別の回路が働いているせいかも知れない。本来は、割合を示しただけであり、一つ一つの事象については、当たるか外れるかの何れかになる。極端に言えば、ゼロかイチしかないわけだ。にも拘わらず、データはその間の数値を示す。これでは、理解せよと言うのが土台無理な話のように思えてくる。この違いは人により、感覚的な違いから生まれるようだが、日々の天気予報のように、外れても気にならない程度のものなら、忘れられるはずだが、全てがそうとは限らない。そんなこんなで、批判の声が浴びせられることとなるわけだ。一方、話は少し違うものの、割合と同様に言葉の使い方で、与える影響が異なることもある。当たる確率と外れる確率は、足してイチになるはずだが、どちらを表に出すかで、伝わる雰囲気が変わることもある。人間とは何といい加減なものか、と思うこともあるが、元々微妙な話だから、仕方が無いとも言える。表現についても、疑いがあるとするより、否定できない可能性があるとするのが、最近の流行のようだ。馬鹿げたものと思うが、真剣に考えた末のことらしい。同じように、ランクの下から何番目に変えるという表現も、正しいことを伝えているようで、ランクが総計幾つあるかや上から何番目かが分からないのだから、伝えた風を装っているだけのことで、意味を成さない。確率に始まり、言葉の問題まで、情報とは所詮そんなものと思った上で受け取る必要がある。
用意周到さを批判する人々がいる。最悪の事態を予想し、それに備えることは、危機管理の常道の筈だが、未然に防がずして、そこに至ること自体が間違いとするのだ。これほど呆れる例は稀としても、様々な場面で適切な対応を見せる人に対し、発端となった原因の追及に精を出し、批判を繰り返す人は多い。
確かに、同じ誤りを二度起こさぬためには、原因追及は重要な手段であり、それ自体を不要なものと言うつもりはない。しかし、今目の前で起きている混乱から目を逸らし、原因追及ばかりに目を向ける人には、解決に向けた姿勢が感じられないのだ。この手の人々は、根本解決への努力を強調するが、過ちを無くせない限り、混乱への対処は避けられない。全てがそうだというわけではないが、混沌の最中に将来のことを言い出す人の多くには、その場の責任を回避する雰囲気が漂う。如何にも万全の備えをするように見え、そこに蠢く思惑は、単に責任逃れに過ぎないのだ。これを情けないと評するのは簡単だが、それだけで放置すれば、野放しにするだけのことで、何の意味もない。利己的な目的を設定させず、全体による問題解決を図れば、戯言を並べる暇もなくなる筈で、その為の誘導手段が必要となる。用意周到とは、自分も含め組織全体が解決に向かうよう促すことであり、利己的な目的から来るものではない。そこに批判を集中させる人々は、実際には自らの責任回避を重視し、それが為に巻き込まれることを嫌っているのだろう。下らない人間を巻き込むことは、却って逆効果という向きもあるが、その姿勢が現状のような無責任体制を築いたとすれば、そろそろ別の展開を図る必要がある。批判を恐れず、正論を貫き、適切な対処をすることだけが、問題の解決に繋がり、ひいては将来への備えにもなることを、強く主張する以外に、ここまで腐りきった組織を立て直すことはできないのではないだろうか。
巷に警戒を呼びかける情報が流れている。そんな中で、逆方向の論調で話をすると、恰も治安を乱す行為のように受け取られる。しかし、どんな情報も、それがどれ程の根拠をもち、正しい判断に基づくものかを吟味せずに鵜呑みにすることが、過剰反応を招くなどの騒乱を導くことは、これまでの歴史が物語っている。
毎日のように、不確かな情報が垂れ流され、それに振り回されていては、落ち着く暇はない。それが副作用のように、悪影響を産み出すことを知れば、もう少し違った対応ができる筈だ。更に、それを冷静に分析する姿勢を貫けば、裏に隠されている思惑や煽動的な動きを読み取ることができる。自らの生活を守る知恵とは、こんな所から始まるはずだが、そんなことに思い至る人間は殆どいないようだ。既に数回書いたことだが、流行性感冒の動向はそろそろ見飽きたのではないか。連日増加する数により、不安を煽る姿勢は依然として続いているが、数自体の問題を説く姿勢は見られない。毎年の同様の疾患の患者数は、国内だけでも数十万から百万程度のものであり、数週間のみとはいえ、全世界で数千という数との比較は、余りにも明確な意味を示す。更に、過去に起きた惨劇的な大流行による死者数は百万単位であり、そこから推測される患者数はその一桁上と見なせる。これもまた、今の騒ぎが抱える問題を如実に示している筈だが、誰もそんなことには目を向けない。数が全てとは言わないまでも、大流行と致死的な感染症の問題を論じているはずが、何の根拠もなく、様々な悲観的推測ばかりが暴走し、垂れ流されることで、これほどの社会問題を生じることを認識すべきだろう。直接関与させられた人々の被害は甚大であり、社会的な秩序を守るためとはいえ、それが過剰反応による判断の間違いだとしたら、余りにも馬鹿げたことではないか。そろそろ対処の見直しの検討が始まるようだが、そこにも根拠無き論理が罷り通るようでは、恥の上塗りという以外に言葉が浮かばない。
この国の言葉を習う上で、文字の問題が大きく立ちはだかる。たった26文字を覚えれば、後はその組合せだけ、という国から見れば、最も遠い存在であった国々で用いられている文字は、何とも表現し難いほど、膨大な数に及ぶ。出発点にある表音文字でさえ、50音と言われるくらいだから、既に許容量を超えている。
ただ、一線を越えてしまえば、表現力を自在に使えるようになり、微妙な描写が可能となるから、便利と言えるかも知れない。これはまるで古都と呼ばれる町が、余所者を排除する一方で、地元民と見なされるようになれば、全く違った扱いを受けることと似ているかも知れない。母国語としない人々の苦労もさることながら、その言葉を生まれてからずっと使っている人にとっても、多大な努力を必要とする作業であり、書き取りの反復によって、文字を覚え込むしかない状況にある。それがどれ程多くの努力を必要とするかは、26文字の人々が綴り方の試験を盛んに行うのと同様に、膨大な数の文字の組合せによる熟語などに関する試験が全国的に行われていることから、容易に想像できる。ただ、爆発的な流行を経て、組織の問題が取り沙汰されるようになり、試験制度自体の見直しが検討されており、今後どんな展開があるのか見えてこない。流石に、今更無くなることはないだろうが、流行は過去のものとなるかも知れない。しかし、文字そのものをどれだけ多く記憶するかを競うことは、必ずしもその言語の運用における向上に繋がるとは限らない。文字のみを知っていても、その意味を解せず、誤用を繰り返す人々がいて、物議を醸すことがある。知能程度の指標と見なされる語彙の多少は、本来は文字の記憶ばかりでなく、その意味を伴ってこそのものである。子供の頃に、新しい言葉を使ってみて、間違いに気づくのは必要な手順だが、いい大人が、誤解したままで、傲慢に言葉を操るのは、何とも情けないことではないか。
環境に優しい商品、という謳い文句で客を惹きつけるのは、競合商品との差が明確でない場合に、用いられる手段である。一見重要なことを訴えているようで、その実、何処がそうなのかがはっきりしない。差とならないものを差のように見なすわけで、匙加減を誤れば、詐欺紛いの行為となりかねない。
そんなことを思わせる告発がなされ、その商品を製造した企業は、それまでの低迷ぶりに加えて、更に苦しい立場に追い込まれた。賞の返還が即座に行われ、迅速な対応を思わせる雰囲気が漂ったが、その後すぐに音無の状態となった。すっかり忘れかけた頃、テレビからお詫びの文章が流れ始め、おや今更と思った人もいるだろう。何を目的としたものかは見えてこないが、兎に角、何かしらの働きかけが必要と判断したのではないか。ただ、手遅れの感が強く、原因追及の続報のないままで頭を下げても、失われたものは戻ってこない。ここ数年赤字に苦しむ企業にとって、今回の顛末は泣きっ面に蜂といった感じだが、重要なことは危機管理となるだろう。間違いを犯したことに対し、どのような対応をしたのかという問題から見れば、今回の流れは腑に落ちないことばかりであり、体制の整備が不十分だったと言わざるを得ない。更に言えば、それが明らかになってからも、未だに不十分な状況を解消できず、苦しむ姿を曝しているように思える。何も起きなければ、と願っているばかりの経営者は、何の役にも立たないと言われるが、このところの不況と呼ばれる現象にも、そんな姿が見え隠れしている。右肩上がりの状況が続かないことは、誰の頭の中にも定着したはずだが、その変化の兆しを見極めることは難しい。ここで、経営者にとって重要な判断は、たとえ見極められずとも、その動きが明らかになったところで、的確な対応を進めることであり、その備えがあるかが危機管理に繋がる。どちらも、ごく普通のことだが、難しいと言われる。
責任感、という言葉の意味を考えさせられることがあった。成功は自らの功績、失敗は他人の責任、といった感覚を持つ人が社会に溢れていることは、火を見るよりも明らかなことだが、周囲の人間にそんな輩はいないと信じたい。そんな気持ちを踏みにじる言動がなされると、やはりここも社会の一部分かと思わされる。
間違いを犯した時、個人の責任を追及することは難しくない。多くの誤りは必ずそれを犯した人間に端を発するものであり、そこに最大の責任があることは明らかだからだ。しかし、多くの組織は間違いは起きるものと捉え、それを未然に防ぐために、点検の仕組みを導入している。その観点からすれば、その誤りを看過したことから、共同責任が生じるものと見るべきだろう。ところが、多くの組織でこの点があやふやに扱われている。最大の原因は、点検そのものに対する責任感であり、携わる各人が完璧を目指す気持ちがなければ、張りぼての仕組みにしかならない。ここで重要となるのは、こういった態度で業務を行う人に限って、過ちが起きた時に、責任を他に求めようとする傾向があることだ。忙しかったなどの時間の問題を取り上げる者、全てをこなすのは難しいと能力の問題を取り上げる者、どちらも何処かで見かけたものだが、自らの責任を棚上げする手段として利用される。しかし、現実にはどちらも自らの低能ぶりをさらけ出すだけであり、その業務の遂行能力の欠如は、失職に繋がることさえあり得るのだ。この辺りの非現実的で、自己中心的な分析は、特に最近巷で目立つ行動であり、全ての人間が持つべき責任感の欠如が、その背景にあるものと思われる。今回の事例では、それに加えて、ごく初期の時点での関わりから、全体責任よりも更に重い責任を負うべき人間が、他人事のような発言を繰り返したことが衝撃で、そんな人間と共同作業をしなければならない状況を憂うしかなかったわけだ。
指示待ち人間が増えたと言われたのも、随分昔となった。自らの判断より、指示を優先させる姿勢は、能力という点からは当然と思われるが、一方で、倫理観という点からは、危うさを思わせる。職業意識からも、様々なことが問題視されており、人間性を含めて、問題山積と思わざるを得ない状況にある。
このような傾向が強まった背景に、社会の成熟を挙げる人もいるが、それだけでなく、個人の問題とする向きもあるようだ。理系文系の区分を際立たせるものに、職業の区分があるわけだが、理系の人々の不満は、会社経営への評価の低さがあり、不公平感が大きな問題となる。ただ、その中でも技術系の職業意識の高さから、経営評価とは無関係な感覚が強く、それを誇りとする人々がいる。これは問題を深刻にする効果もあるが、それを脇に置き、職種を考える材料とされてきた。そんな中で、理系文系の区分の分水嶺となる大学進学に際して、どちらを選ぶべきかの議論がなされていた。卒業後の就職での有利不利が最優先となり、それだけを考えれば、実は理系の方が選択肢の広がりがあり、結論は容易に導き出せる。しかし、在学中の課題の多寡が一方の問題として取り上げられると、情勢は一変する。仕事だけでなく、勉学の場でも処理能力が問題化すると、優先順位に変動が見られるようになる。技術と知識、更には処理能力といった点で、理系有利の見方が出たわけだが、現実には、並行処理のできない人間が急増し、能力の狭隘化が際立つことで、単一の選択肢に絞り込むしか、方法がない状態となり、将来性を含めた見通しをあてはめられない状況となった。専門性の高さへの移行が可能であれば、問題は大きくならなかったのだろうが、この狭隘化が、現実には全体の能力低下によるものであるだけに、どうにも厳しくなり、専門性が微塵もない人々が世の中に溢れることとなった。どちらを選択するかを迷う前に、するべきことがありそうだ。