パンチの独り言

(2009年5月18日〜5月24日)
(首長選、正鵠、訓練、応変、迷案、呼称、季節外れ)



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5月24日(日)−季節外れ

 季節の変わり目に、体調を崩す人が多い。特に気温の上下が激しくなる時、適応しきれずに風邪を引くこととなる。それでも暖かくなる方が、と思う人がいるようだが、現実には春から夏にかけての変化でも、変調を来すことがある。本来なら、過ごしやすい時季の筈が、うっかりすると床に伏せることとなる。
 気温は天気予報で報じられるように、毎日のように伝えられる。しかし、どうにも解せないこともあり、体が感じるものと機械が測定するものとに、大きな違いを感ずることがある。おそらく、上下の激しい季節に、特に顕著に表れる現象であり、体が変化に適応できないことによるのであろう。そんな時、予報ではいつ頃の気温かを伝えてくれるが、何か的外れな指摘に思えて、納得できない。体感温度と測定温度の違いは、それまでの変化の影響と考えられるだけに、測定された平均気温から、いつ頃の気温と報じられても、全く違った感覚でしかない。数値は嘘をついていないのだが、体が正直すぎる反応を示し、間違ったものと解釈していると言うべきだろうか。こんな比較にも、人間の感じるものと実際の数値との間に大きな乖離があり、それに個人差が加わるわけだから、まともな指標を示すことは不可能だろう。そこに更に体調の違いが加わるとすると、同じ個人でも同じ反応を示すとは限らなくなる。指標を示す立場からすれば、万人に通ずるものを第一に考えるのだろうが、こんな所にはそれだけでは済まぬ状況があるのではないか。だからといって、別のことを考えろとか、そんな無駄なことは止めてしまえとか、そんな思いがあるわけではない。こうやって何かを示すことで、恰も正確な情報を供給していると思いこんでいるとしたら、それは大きな間違いかも知れない、というだけのことだ。ただ、この話は受け手の裁量で何とでもなることであり、振り回される方が余程問題という指摘こそが当たっているのかも知れぬ。

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5月23日(土)−呼称

 新聞の見出しは、一言で内容を連想させるものである。おそらく編集長の役目なのだろうが、これの出来不出来で売り上げが左右されることもあるらしい。有名なのはスポーツ紙で、的確とはとても言えないようなものでも、関心を惹きつけるものが採用される。時に、誤解を産むだけのものとなるが、それでもいいらしい。
 どんな言語でも事情は同じのようで、新聞自体を読む機会は殆どないが、最近はテレビやネットで紹介され、そこで垣間見ることとなる。面白いと思うのは、同じニュースが国ごとに全く違った形で伝えられることで、この所、この国では異常なほどの時間を割いている話題も、他の国々では大した関心を呼んでいないようだ。興味深いと思ったのは、そこで用いられている呼称で、「新型」という呼び名をこちらでは使っているのに対し、海の向こうは「swine」という言葉が付けられている。辞書によれば成る程と思える名前も、そういえば当初使われていたと思い当たり、何故変更されたのかと訝しく思えてくる。一部には風評被害の訴えから、変更が強いられたと言われるが、無知から来る誤解をどう扱うかは難しいものだ。「swine」とするだけで、「pork」という同じ対象を想起させないようにできれば、それで十分と言うことかも知れないが、現実にはどちらも正確な表現とはなっていない。権威ある機関のサイトには、「新型」と思しき名称が使われているが、それに続く名称を、国内での通称にあてはめると「新型Aソ連型」という意味にしかならない。元々、この病気の研究者たちが強調していたものは、「avian」と名付けられたものであり、分類上はH5N1と呼ばれる。それに対し、今話題になっているのはH1N1であり、覚えにくいものとは言え、随分違うと見なせないこともない。風評を気にする態度からは、他の要素を排除する姿勢が見え隠れし、情けない気持ちばかりが強くなる。説明責任という流行言葉からすれば、十分な説明も必要なのではないか。

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5月22日(金)−迷案

 業績不振に陥ってからでは遅すぎる、とばかりに、合理化に励んだ企業は多い。私企業だけでなく、税金の無駄遣いと批判され、人員削減や組織の再編に走った役所もある。両者には大きな違いがあるが、組織改革を断行したという意味では、類似する部分も多い。そして、その後の展開での歪みも似ているように見える。
 様々な問題が生じたことから、改革の気運が高まるというのは、どの組織にもあることだ。しかし、改変したからといって、全ての問題が片付くわけではなく、山のように積み上がったものが、少し低くなる程度でしかない。更に、新たな仕組みから生じる歪みは、別の山となって積み上がり、終わりの見えない改革に疲労感は増すばかりとなる。確かに、どんな組織も一長一短があり、完璧なものは存在しないと言われる。しかし、改革推進派にとって重要なのは、現状の打破であり、その為の変化としか思われていない。結果として起こるのは、別の問題の発生であり、付け焼き刃的な対処であればあるほど、迷路に迷い込んだ子供のような感覚に陥る。大袈裟な改革を目指した時に限って、その効果と悪影響の比率が悪くなり、かけた手間ほどの期待は持てない。結果として、無意味な変更が遺され、口先だけの改革に批判の声が集中する。人員削減も、当初は業務の合理化で達成可能と説明されるが、現実には絵に描いた餅に過ぎず、様々な綻びが表沙汰となり、新たな雇用を模索するしか無くなる。紙の上での理想的な展開は、所詮非現実的な世迷い言に過ぎず、真っ直ぐな一本道は、社会の何処にも存在しない。備えが不十分な形では、様々な変化への対処ができず、更なる手間が湧き出して、結果的に以前より多くの手の必要が生じる。合理化や再編による悪影響の殆どは、このような展開から生じ、後始末に負われる人々からは、嘆声が漏れることとなる。推進した人間の傲慢さを批判しても、何も変わらないから始末に負えない。

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5月21日(木)−応変

 「みんぱく」が休館になったそうだ。その地域で開催されるはずだった会合も開催中止となり、様々な方面への影響が心配されている。感染拡大を防止する観点から、という意見を無視するわけではないが、状況の変化を見極めず、想定された対策を断行する役所のやり方に、違和感を覚える人は少なくない。
 何事にも誤りを正し、修正を加えた上で、正しい方向に導くことは重要である。特に、国の政策において、関係する人の数が膨大になるものほど、そういった姿勢が肝要となる。しかし、現在巷の騒ぎを見る限り、そのようなことは微塵も感じられず、想定通りに進めることで、自らの判断責任を回避するかのようなことが行われている。複雑な呼称は混乱を招くとばかりに、「新型」という一括りの言葉を編み出した人は、確かに優れた知性を持ち合わせていただろう。しかし、それが一度世の中に流布されると、理解力の乏しい大衆により、勝手な誤解が産み出され、連鎖反応へと繋がる。分かり易いことは重要に違いないが、誤解を産むことは避けるべきであろう。というのも、このままの流れで行けば、無知蒙昧な連中が身勝手な行動を始めることは明らかであり、それが悪影響を及ぼしかねないからだ。「新型」というブランドに乗せた、恐怖の筋書きが、主人公が変わったにも拘わらず、依然として演じ続けられる。誤解を生じたとすれば、それを解くべきなのが、専門家の役割だが、自らの力不足を棚に上げるために、いまだに暴走列車に乗り続けているのを見ると、彼らの知性を疑いたくなる。人々がそれぞれに理解力を高める必要はあるが、一方で、注目の的となる専門家が、これほどまでに非論理的な話を続けることは、予想だにしなかった。社会全体に、知が失われつつあると言われても、象牙の塔には及ばない、と信じて疑わなかった人々には、まだ鵜呑みにするしか方法は浮かばない。

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5月20日(水)−訓練

 災害に際して、予行演習やらの訓練をしておいたことが功を奏したと報じられることがある。準備だけでなく気構えなどについても、大きな影響をもつからだろう。喧騒の中で、冷静な判断を下すためには、少しでも多くの知識を身に付けた方が良いし、少なくとも知っているという気持ちだけで随分違うようだ。
 下らないと思いながら、訓練に参加するという人が多い。それでも、何度も繰り返すことで、少しずつでも知識が増え、以前と違った状態になるのなら良いだろう。一方で、訓練ばかりに慣れてしまい、本番に一切役に立たなかったという人もいる。熱心に参加していた人でもそうなるのは、やはり冷静さが一番大切ということだ。天変地異に対する備えも、火災などの災害に対する備えも、要するに冷静な分析と行動が生死を分けるわけで、それだけと言ってしまうと、演習の意味があるかどうかは怪しくなる。それでも、少しでも多くの人に体験させることで、状況が変われば効果があるわけで、何もしないよりはいい。今、巷で起きている騒動も、一部の人々はそろそろ訓練の一環と見なし始めた。これ自体を変だとは思わないが、現状を見る限り、様々な綻びが目立ち、本番を想定したものと呼べない代物であることは否めない。どちらかと言えば、対策の不備を暴くためのものであり、それに関わる人間には有り難い存在なのだろうが、一般大衆にとっては、ただ振り回されているだけで、現場の混乱に対する不安や、煽動的な情報伝達に対する不信感ばかりが募る結果となっている。もし、これが次に起こる本番へ向けての訓練として評価されることがあったなら、それは、それぞれの人々が自らの心構えを適正なものに変換した場合だけだろう。対策については、不備が多すぎて、不安は払拭できないし、情報は、垂れ流しを止めることはない。となれば、自分を守るのは自分であるとしか言えないわけで、冷静な対処のみが有効となる。

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5月19日(火)−正鵠

 言葉を大切にしろ、と言いたくなる。その意味は、ぞんざいな使い方にあるだけでなく、誤解を招き、不安を煽る表現にある。広がる感染も、9割方がある年齢層に限定されているのに、幅広いとわざわざ強調する姿勢には、呆れるばかりであり、非常識の極みが公共電波を我が物顔で独占する時代を憂うしかない。
 専門知識のない人間が、誤解と思い込みに基づき、デマを飛ばしまくるのは、それだけ社会の自律が失われている証拠だろう。それを鵜呑みにする人間の存在は、いつの時代にもあるものだが、これほどの事態は極端すぎるかも知れぬ。だからこそと言うべきか、専門家の言動にも慎重さを欠くものが目立ち、この手の病の蔓延こそが、現代社会の抱える深刻な問題と思える。感染症への警告に腐心する余り、極端で煽動的な表現を使うこと自体も、反省すべきと思うが、それに加えて、現状把握を怠り、一つ覚えの警告を反復する姿勢には、専門家としての自負もなく、無知蒙昧の類にしか見えない。症状の重篤さは、感染症の扱いにおいて最優先の項目だが、準備段階から反復練習された言葉を捨てられず、警告の手を緩めることができない。言い訳じみた論理には、強毒化の可能性を掲げるが、それがどれ程の確率なのかを明言する気は毛頭無い。煽るのに不要な材料を与える必要はなく、ただ危険性の存在のみを訴えればいいからだ。しかし、明日変化するのと、一万年後に変化するのでは、扱いに大きな違いが現れる。それを知らせることこそが、専門家たる人間の責任と思うが、そんな空気は微塵も感じられない。やっと重い腰を上げたとしても、都合の悪い事柄には目を向けず、責任回避の方策に傾注するばかりだ。予測不能な展開への責任を負わせようとする輩の存在もさることながら、亡霊を恐れるばかりで煮え切らない人々が責任逃れに終止するのは何とも情けない。ここまでの展開が予想通りなだけに、彼らが何を恐れるのか見えてこない。

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5月18日(月)−首長選

 ふと気づいてみると、毎週のように首長の選挙が行われている。国政選挙がとんとご無沙汰だから、こちらにもっと注目が集まるかと思えば、やはり余所事でしかないからか、大した興味も向けられないようだ。それでも時勢に沿った話題が引き合いに出されれば、少しは注目されるようで、そんなものも散見される。
 税金の問題、福祉の問題、そんなものを取り上げていくと、今の世の中は問題山積であり、その解決の糸口も見えない状況に、各地住民は悲鳴を上げ、批判を口にしているようだ。そんな状況の中、主張の役割は重要と考えられるが、ここで何故だか民主主義なるものが立ちはだかる。企業においても、創立者兼経営者なら別として、取締役会の同意なしには何もできないし、最近では株主の声も聞かねばならない。選ばれし者という意味では、全権委任は言い過ぎとしても、かなりの決定権を持つはずの人々が、提案のみで議決権を持たぬのは、何処かに矛盾があるように思える。三権分立だから当然という声に対しても、対等でない立場の分立は無意味との声もある。確かに、一個人の暴走を防ぐ意味は大きいのだろうが、選挙という過程において、様々な方針を示している以上、そこに更なる関所を設けるのは如何なものか。それでは自らの責任が果たせぬと宣う人々も、党利党略の如きものに振り回されているようでは、自らとはとても言えぬ代物だろう。国と住民の板挟みに遭わされている首長が、更なる敵を目の前にして、となるのはどんなものだろう。始めに挙げた問題も、市町村の範囲だけで解決策を講じることは難しく、国などの理解を求める必要がある。保身に走る人々でごった返す国会を頼みにしてもどうにもならないとしたら、果たして何ができるというのだろう。地方自治という言葉だけは踊るものの、現実には様々な制限の下で、雁字搦めの状態にあるのでは、何ともならない。でも、投票してくれた人の期待には報いたいのだ。

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