パンチの独り言

(2009年5月25日〜5月31日)
(物言い、検定、貪る、不備、血縁、放棄、交流)



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5月31日(日)−交流

 安定した時代、親は自分にないものを子に与えようとする。一昔前であれば、大学に行かせることもその一つだったが、今は当たり前となり圏外に去ったが、当時、自ら経験していないものに、的確な判断がつかず、子の言いなりになる親も多かった。無い物ねだりが代を重ねると、そんな状況が生まれるということか。
 事情は違うとはいえ、依然として教育の場にはそんな思いが持ち込まれる。国際化が叫ばれ、他の国の人々との交わりがごく当然となると、そこではたと困ることが出てくる。互いの意思疎通の手段が不十分で、うっかりすると誤解を生じることだ。失敗を重ねた人にとって、外国語の習得は重要に見え、自分が受けた教育が不十分となれば、それを整えたくなるのも致し方ないことか。それにしても、幼児の英語教育や小学校での英語という、そんな人々の要望に応えたかの如くの政策には、根強い反対意見がある。単なる道具を与えるだけで、中身を整えないのは教育ではない、との主張だ。無いものに困った人々には、それを有るものに変える手段は魅力的に見えるようだが、もしそれによって何かが失われるとしたら、どうだろうか。この辺りの浅慮は近年の施策の特徴となっているが、流行に流される大衆への迎合の現れと言われる。長い年月をかけて築かれてきた仕組みには、一見無駄としか思えない要素が含まれるが、それを承知で多様性を保つことが肝要と認識されていた。その認識の能力が欠如し、ただ闇雲に流行を追い、道具を与えるだけに堕ちた教育には、期待が膨らむどころか、失われて行くのみとの指摘もある。他国の人々との交わりにおいても、上辺しか追えない人々には、道具の有無が肝心との理解しか起きないのだろうが、本来ならば、心と心の交わりがその前にあるべきなのだ。道具に走る人々には、別の思惑があるのだろうが、核心を捉えぬままにそんなものに興味が向かうのは、何時までも上達しないゴルファーと同じことなのではないか。

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5月30日(土)−放棄

 家族の有り様を考えさせられる話が続々寄せられる。横暴ぶりに手を焼いた子を預けた先で悲劇が起こり、直接の責任はさておき、預けた本人の気持ちの変化に驚かされる。それなら、もっと早く理解すべきとの批判は、この国では馴染まず、被害者には温かい眼差しを向けるしかない。何かがずれているように思う。
 この事件では、組織の長の責任を問う声が高まり、内情が暴露されるに従い、罪の重さが増すばかりだ。しかし、一人で全てができたわけでなく、直接間接に関わった人間がいて、様々な歪みが蓄積してきた。命令に逆らうかという問題とは別に、人間としてあるまじき行為と評されるものをした人間が、命令の為というだけで許されることには、違和感を覚えざるを得ない。責任を負うべき人間がいるのは事実で、それにより報酬を得ているとなれば、果たすべきものは更に大きくなる。だが、それ以外の人間に責任がないのかと言われたら、賛同する気にはならない。企業経営においても、役員報酬を得る人々が、その地位を利用して様々な利益を獲得するのは、組織そのものに損害を与えなければ問題とはならない。だが、この所の経営不振に陥った企業の役員たちの行状を眺めるに、組織より個人を重視する姿勢が明白で、責任感の欠如が際立っている。負うべき責任を逃れ、自らの利益のみを追求する人が町に溢れたのは、何故なのか理由は明らかでないが、その一方で、奉仕活動を主宰し、無報酬で走り回った人々が、何かをきっかけに責任を問われる事件に触れると、憤りを感じる。報酬と交換したはずの責任を投げ出す人がいる一方で、何も手に入れないままに押し付けられた責任に潰される人がいる。何とも不条理な社会が成立したものと思う。自由と責任の一体化も重要な課題だが、責任に対する認識を真面目に考える必要が出ているのではないだろうか。社会を皆で支えるという考えからは、別の見方が出てくるはずなのだが。

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5月29日(金)−血縁

 ある業界の世襲制が問題化されている。何を今更と思う向きもあろうが、世襲の悪を説く人々の弁には、結論ありきの論理が根幹となり、違和感を覚える向きもあるのではないか。実力を第一と考えることに異論を唱えるつもりはないが、実力とは何かの議論なしに考えるのは無理と思い、現時点の議論の大欠陥と見る。
 世襲が常識となる世界もあり、その中でも様々な議論が沸き起こってきたわけだが、最近はそれ程のこともない。何がどう変わったのかは、部外者には理解が及ばぬ所だが、何を問題とするかに変化が起きたのかも知れない。一方、職人の世界では、ある時期、根拠もないままに低く見る傾向があり、それまで続いた継承の道が途絶えたことがあった。彼らが模索した道は、安定した定期収入を得るものであり、生活の安定との結びつきからも、優先選択が為されたものと思われる。しかし、その後の展開を眺めると正反対の事象が起きていることが分かる。つまり、世襲が復活しただけでなく、一度別世界に船出した人々が、親の跡を継ぐために舞い戻ったのだ。それぞれに理由は異なるのだろうが、現実に世襲が成立したことは確かであり、結果としてはそんな制度が力を取り戻したわけだ。こんな例があるのに対し、実力という指標が明確でなく、またその獲得への道もはっきりしない世界では、その後も跡継ぎ問題が度々噴出し、物議を醸し出してきた。企業経営がその一つであろうし、政治の道も同じようなものだろう。そこにある財産を誰が継ぎ、その役を引き継ぐのかといった時、誰もが賛同できる答えは少なく、それぞれに利害が入り組んで、複雑な様相を呈する。そんな中で、どんなに考えても一様の答えを導くことは難しく、個別に判断を下す状況に変化は起こせない。にも拘わらず、この所の議論の沸騰は、別の目論見しか見えてこず、相変わらずの浅慮を暴露しているだけに思える。為すべきことは明白に思えるのだが。

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5月28日(木)−不備

 官僚は目の敵とされ、状況の悪化の原因を全て彼らの責任とする声は大きい。確かに、政策を定める上で、判断の誤りや強引な手法が問題となり、本来の役割を果たさぬ状態にある人も多い。無用の長物と見る向きからすれば、余計なものは切り捨てるのが最善となるのだろうが、その代わりを為すものはあるのだろうか。
 いつ頃から始まったのか思い出せないが、国会の答弁を質問者と担当大臣の間で行うことが当たり前となった。中継を熱心に眺めたことはないが、そんな状況の変化に、質疑応答の質が低下したとの声もある。的確な答えを出せず立ち往生する姿に、能力を疑う声が上がるのは当然として、本来、質問の意義は何処にあるべきか、それさえも忘れ去られる事態には、全てが無用のものとなったとしか思えない。この原因を何処に求めるかは、一部の人々に自明と見えても、合理的なやり方を強行してきた人には、何も見えてこないようだ。裏方はその役割に徹するべきという考えが間違っているとは思わないが、この流れからして、質疑応答の真の意義が正確な答えを導き出すためとするならば、現状は明らかにその枠から外れている。舞台から下ろされた人々は、もう一つの重要な役割をも果たせ無くなりつつあり、これはこれで別の問題として捉えられている。議論に必要な案件をほぼ完全な形で提出することは、円滑な議事に必須と言われるが、その水準が下がり始めたとされるのだ。官僚無用論からすれば、議員自身がその役を負うべきだろうが、海の向こうの仕組みと異なり、こちらにはその能力を備えた人間は余りにも少ない。この不均衡が暫く続けば、無用の議論と無駄な時間ばかりが増え、本来の役割を果たせぬ組織が出来上がる。国政における問題は、現実にはそのまま社会にも及び、様々なところで、中途半端な材料で不十分な議論を重ねることとなっている。備えとか段取りとか、そんなことに注目する声が上がるのも、こんな事情によるものか。

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5月27日(水)−貪る

 外からの圧力に負けて、様々な制限が撤廃され、自由化と呼ばれる変化が巻き起こった。末端消費者の利益優先という謳い文句が喧伝され、淡い期待を抱いた人もいたが、現実には一部の輩が莫大な利益を吸っただけのようだ。これを過去のこととできないのは、今でも上辺の飾り言葉を操りながら、同じことを繰り返すからだ。
 主な圧力をかけた国では、果物の写真のついた洗剤を間違って飲む人や、注意書きにある薬量を無視して重態に陥る人が沢山いるらしく、保身のためも含め、読めもしない注意で裏面を埋め尽くす商品が溢れている。訴訟騒ぎが日常と化した社会では、生産側も消費側も、自らの身を守る手立てを持つ必要があり、自由と表裏一体の何かの存在を実感する。それでも、表に出る事例は却って少なく、殆どが闇から闇へと葬られる。だから、統計に残る数字は小さく、社会問題化していないように映るが、現実にはその病巣は深く社会に浸透している。そんな事情を知ってか知らずか、自由化絶対論者は次々と規制緩和を強行し、その悪影響には目もくれず、一部の利益の追求に躍起となっている。消費者の利益という言葉の連呼には、別の思惑が明瞭に現れ、金儲けに走る亡者たちの行進に思えてくる。都合のいい解釈を並べ、不幸な人々の苦情を吸い上げることで、社会への貢献を演じるわけだが、どうにも別の目論見が膨張し続ける。制度や仕組みに直接関係のない人々による分析が、もし万が一同じ結論に達するのであれば理解できるが、明らかにそれによる利益を享受する人々の意見は、表向き慈愛に溢れるものと見えても、裏には腹黒い悪人の姿が蠢く。いつから、こんな輩に発言の機会が与えられたのか、いつから、こんな連中が社会の中枢を操るようになったのか、そんなことを考えると、そこには自由化の波という、遠くの震源地から届く津波のようなものの存在がはっきりと見えてくる。

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5月26日(火)−検定

 一時の狂騒ぶりは何処へ行ったか。難解な文字を読み解く力を測る試みは、人々の心に深く入り込んだように見えたが、一つの綻びから風向きはがらりと変わってしまった。綻びと言っても、今の所その大きさは分からず、どんな不正が行われたのかも、全貌は明らかとなっていない。驚異的な数字が見え隠れするだけだ。
 誰の妙案なのか、目の付け所の鋭さを指摘する声もあった。試み自体にはそんな解釈が施されたが、そこにばかり目を奪われて、運営などの実態には誰も注目しなかったらしい。検定という仕組みでも、余程大きな組織でない限り、莫大な利益は上げられない筈だが、この場合はそこから更なる波及効果が湧き出て、驚くべき収益を上げていたらしい。金の集まるところには、と昔から言われるように、この場合も人々が一攫千金を夢見て群がったようだが、現時点で伝わってくるのは、中心人物の関与と彼らへの不透明な金の流れのみである。既に、危険を察知した人々は、防護壁の構築に精を出しているだろうが、何処まで攻め込むことができるのか、少数の人間による隠蔽では、説明しきれないほどの額の流れだけに、疑惑の輪は広がりそうに思える。それにしても、熱狂的な人々の思いに水を差した事件は、この先どんな展開をするのだろう。検定とは無関係に、話題を取り上げる番組も人気を博していたようだが、今の所全面撤退といった空気は感じられない。印象の悪さのみで反応する業界にしては、えらく鈍い反応のように見えるが、果たしてどんなことが水面下で起きているのか、外の人間には何も見えてこない。一方、検定そのものとの関わりは、徐々に厳しい状況になりつつあり、案じた通りの展開が進んでいる。そのものの質とは無関係な事件とはいえ、自分たちの投資が不正に繋がっていたのでは気持ちが良くないのだろう。流行とは所詮この程度のものと受け取る向きもあるが、その辺り、どう考えられているのだろうか。

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5月25日(月)−物言い

 配慮に溢れる丁寧な言葉遣い、と思う人がいても、それを受けた人が別の印象を持つことがある。その一方で、乱暴な物言いで無礼な雰囲気、と思う人がいるのに、受け手はにこやかに対応する。言葉とは表面的なものでなく、心が伝わるものという話を思い浮かべる光景だ。だが、何が違うのだろうか。
 その場に居合わせた人には理解できないのに、互いの間では理解できるものとは、その場限りのものではなく、それまでに築き上げられたものによることだ。丁寧な言葉遣いには、一見十分な心遣いが含まれているように思えるが、現実には、相手を馬鹿にするからこそとか、無理強いを断らせないようにという思惑が潜む。慇懃無礼と称される物言いには、そんな雰囲気が満ち溢れ、理解できる人には胡散臭さのみが伝わることとなる。様々な場面で、そんな遣り取りを眺めていると、そこに滲み出る人間性に、成る程と納得させられることになる。遠慮深く近づくのに、何故か警戒されてしまう人や、丁寧に接するのに、ぞんざいな扱いを受ける人は、誤解されたことに文句を付けるが、現実にはそうなる原因が表に出ているだけのことなのだ。人格などと表現すると、何か形式張ったものに思えるが、人それぞれに持ち合わせている人を見る目からすると、そこには明らかな違いがある。ただ同時に、こういう人種には同類がいるわけで、彼らは互いに擦り寄り、思惑で動くことを了解した上で、徒党を組むこととなる。こんな図式は古今東西、何時何処でも見かけられるものであり、上手く運ぶこともあれば、謀議が暴かれることもある。言葉とは、本来真意を伝えるものであるにも拘わらず、何時の間にやら、表面的なものにだけ目を奪われる人が増え、甘言に乗せられることが多くなった。犯罪を起こす人が悪いのは確かだが、言葉の意味を読み取れぬ人にも落ち度があると見るべきでは無かろうか。

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