パンチの独り言

(2009年6月1日〜6月7日)
(語法、効率、付与、訃報、迷信、読書、未知)



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6月7日(日)−未知

 宇宙に実験室を建設するという計画が発表された時、専門家だけでなく、老若男女、様々な人がやってみたい実験に応募したそうだ。そんな中から、蛙が宇宙船の中を四肢を伸ばしながら漂い、メダカや植物の発生を調べる実験が行われた。特殊な環境での観察や実験の重要性は、生物に限らず種々の分野で認められた。
 初期には十分な設備が整っていない中で、準備不足や思慮不足などから、様々な障害が生じ、放送局から参加した人物が、計画者を罵る場面が放映されるなど、探究心とはかけ離れた世界での葛藤が巻き起こったが、それも整備が進むと笑い話として紹介されることとなった。逆に、初期のような盛り上がりは無くなり、複雑化する実験の内容に、理解が及ばぬことが多くなる。そんな中で、できるだけ分かり易い試みを、と考える人もいるのだろう。腕相撲や綱引きなどをやって見せ、その結果をさも意外そうに伝えていた。確かに、物理学で考えようとしたら、とても難しくて放棄するのだろうが、そんなに難しく考える必要はあるのかと、その映像を見ながらふと思う。無重力とは何かを理解しやすく、という配慮からの試みで、子供たちからの要望との話があったが、同じことを地上で試みることはできないのか、と思う。綱引きの映像からは、車輪付きの椅子に座った者同士が引っ張れば、同じようなことが起きるのを簡単に想像できるし、腕相撲も、同じような状況でもいいし、もっと大袈裟な装置を考えても良さそうに思えた。人は経験したことのないことを想像することは難しく、経験に基づけば理解がし易いと言われる。子供でも大人でも共通したことと思われるが、今回の放映から感じられたのは、やっぱり宇宙は不思議だと思わせることは無意味であり、自分たちの経験と結びつけることで宇宙の不思議さを改めて考えさせることの方が重要だということだ。その意味では、今回の試みは中途半端にしか見えなかった。

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6月6日(土)−読書

 ものを見る行為は、ごく当たり前のもので、見えるものを見ているだけと思う人が多い。しかし、ある研究によれば、見えるものという範疇が重要であり、そこに存在するものでも、見たことのないもの、あるいは見たいと思っていないものは見えないと言われる。怪しげな話に思えるが、どうもそうらしい。
 そのことに気づかされるのは、同じ画面を二度見た時に、何も言われずに見た時と、二度目に注意を受けて見た時で、見えるようになるものがあるからである。そんな経験のない人には、全く信じられない話だろうが、何かの機会に試してみれば、その違いに愕然とするだろう。視覚では、記憶にしまわれた定型模様と画像との合致から、そこにある物体を認識する仕組みがあると言われる。話は少し違うが、文章を読む時も、よく似た手順を追っていることがある。読書とは、そこに書かれたことを読み、理解することと思われているようだが、実際には少し違ったことが行われていると思う。つまり、そこに書かれたことを読むまでは同じとしても、理解するという作業が行われる前に、自ら持ち合わせている考えと比較しているのではないか。ただ鵜呑みにするのではなく、場合によっては批判的な目で、文章と接することとなる。だから、それまでに身に付けてきた知識と大きく異なる内容では、理解には程遠く、場合によっては拒絶が起きることとなる。文体の好悪を引き合いに出す人もいるが、鼻につくからといって、それがすぐに拒絶に繋がるのではなく、それより内容そのものへの違和感から、受け容れがたいという印象が生じ、拒否反応が引き起こされるのだろう。そんなに難しく考えなくても、本を読むくらいのことはできると思う人が多いだろうが、実際にどんな思考がその最中に起きているかは、とても重要なことだと思われる。それこそが、知識を得るために必要な過程の成り立ちを示しているからだ。

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6月5日(金)−迷信

 燕が渡ってきて盛んに飛び回っている。そろそろ子育ての時期だろうか、餌集めに精を出しているらしい。電線くらいの高さを飛ぶのが普通で、それなら何も危険を感じることもない。しかし、低く飛び回られると、流石にちょっと危なっかしい気がする。車を運転していても、避けてくれると思いつつ、ビクリとする。
 昔の知恵からは、燕が低く飛ぶ時は雨が降り出すと言われた。最近はとんと耳にしないが、猫の行動や鳥たちの行動から、天気を予想する話が一杯あったように思う。経験則であり、何の科学的根拠もない、というものもあるのかも知れないが、子供の頃に聴いた話の多くは、何かしらの根拠もついでに示されていた。子供心にはそれで十分であり、簡単に納得したように記憶している。ちなみに、燕が低く飛ぶ話は、虫たちが低いところにいて、それを捕まえるためとなっていた。では、虫たちは何故天気が悪い時には地上の近くに漂うのか、その解説はなかった。科学としては不十分でも、一つの繋がりを紹介することで、何となく合点がいく。それは思考力が十分に備わっていないからとする向きもあろうが、現実には相手の程度に合わせることの方が大切なのではないだろうか。そこであれこれと詳しい話を聴かせても、理解力が備わっていない子供たちには、嫌な思いが残るだけだろう。加減を弁えた話には、それなりの力が備わっていて、相手の心に強く残る。年相応な内容こそが大切なのであり、正確無比なものが絶対とは言えないのだろう。それより、印象に残すことで、知恵として身に付けることができ、将来にそれが少しでも役立てば、話を聴かせた意味があるというものだ。同じように、年相応な理解力、思考力を持って、何かを考えさせることも重要となる。道筋を付けることの大切さを説く時、この考えを持つ人たちにはよく理解できるところだろう。それに対して、全てを提示するしか能のない人々は、結局何の役にも立たぬこととなる。

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6月4日(木)−訃報

 ある新聞のメールマガジンに、新聞の読み方なるコラムがある。著名人がその新聞を読む時の作法というか、人それぞれの読み方を紹介するもので、編集者の意図としては、おそらく若い世代向けの情報といった位置づけなのではないだろうか。本来は千差万別、それぞれに独自の要領を獲得しただけだろうから。
 制作者の意図では、一面と呼ばれる誌面が最も重要で、旬な情報を示していると言われる。現実に、届いた新聞を開く時には、まずその面に目が向く筈で、どんな人でも一瞥くらいはするだろう。しかし、その後の展開は人それぞれとなり、反対の面に進む人もいれば、順めくりの形で進む人もいる。この辺は、その人がどんな情報を欲しているのかという点と、それまでに培った習慣のようなものの混合といった感じだろう。実は、新聞により全体の編集方針が異なり、誌面構成も一面を除けば大きく異なっている。だから、見慣れぬ新聞を読む時、一々戸惑うことがあり、気持ちとして落ち着かなくなってしまう。それでも、内容は同じ情報を構成し直したものに過ぎず、全てに目を通せばどの新聞でも多少の違いしか残らなくなる。それ程の時間をかける暇がない、という人の場合は、おそらく習慣的に選別を繰り返し、要所と思うところを飛び回るように読んでいくだろう。中には、訃報を欠かさず点検する人がいて、友人知人のみならず、何かの機会に出遭った人や見聞きした人の名前を見つけ出して、感慨に耽ることがある。ラジオから流れる落ち着いた声が一時期途切れてしまい、心配した人もいたようだが、数ヶ月前復帰を果たした人物がいた。音楽番組の紹介でかなりの人気を博していたようだが、大病を患っていたようだ。この手の業界では、多くの人が長命で、数十年もの間番組を持ち続けるのも珍しくない。その中で、70を越えたばかりでの死は、少し違和感を覚えた。あの声ももう聴かれないということなのだ。

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6月3日(水)−付与

 機会均等とは平等な社会が掲げる目標の一つであり、殆ど全ての人が歓迎する制度だろう。ただ、対象によってはその必要性を吟味しないままに、闇雲に実施することに疑問を投げかけるべきであり、全てを同じ水準にという根本理念を適用すべきかどうかの議論の必要性が出てくる。悪平等の危険性も含めた上で。
 選挙権などの権利は、誰もが持つものとの解釈もあるが、納税義務との繋がりからすれば、外国人の参政権などの問題が残っていると言われる。公務員の資格と共に、国籍の問題は障害と見なされることが多いが、果たしてそうなのか、根本から考えてみるべきだろう。一部の人にしか適用されない権利の場合、これほど話題になることもない。一方で、教育は全ての人に関係するだけに、機会均等の議論が様々な段階で行われている。義務教育は既に整備が終わっているので、あまり問題とはならないようだが、最近は自由化の波が押し寄せ、ここでも異常事態が生じ始めている。差を際立たせる方策は、一見効率化を目指すものと受け取られるが、現実には歪みが大きくなるばかりで、殆ど正の効果を持たないものである。そんなことに気づかぬふりをして、競争原理を導入し、差別化を推進する人々に、全体の向上を目指す気持ちは微塵もない。これと機会均等との関係は、単に水と油にしかならず、義務教育の場に導入すべきものでないことは明らかである。一方、義務教育を終えた後の教育では、競争が導入されるのはやむを得ない。この段階で、機会均等を訴える人々も多くいるが、果たしてその必要があるのか怪しいところではないか。社会的な地位を獲得するために必要不可欠なものだから、といった論調も散見されるが、義務教育と同等だからという主張と共に、機会均等とは馴染まぬ論理と思う。補助金の形での要求も、手っ取り早さばかりが目に付き、どうにも不可思議に思える。もしその必要性があるのなら、増税などの措置が先に来るべきだろう。

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6月2日(火)−効率

 単純な作業だけでなく、多様な作業が要求される時代と言われる。様々な才能を必要とするから、大変な時代との解釈もあるが、果たしてどうだろうか。現実には、どれもこれも囓っただけであり、肝心なことまでは理解が及ばず、結局何もかもが成就しない状態にあることが多く、単純も多様も無い状況なのでは。
 以前ならば、こんなことは敢えて言うまでもなかった、などという愚痴をしばしば耳にするが、これは単純な見方から来るものではない。例えば、与えられた仕事しかできない人間を目の当たりにした時、昔ならもう少し物事の本質を見抜こうとする意欲があり、そこからの成長が望めたのに、といった思いがある。一方、単純な仕事さえ十分にこなせず、あまりの非効率に呆れる場面では、同じことを繰り返すことさえできない人の存在に諦めの境地となる。こちらもよく考えれば、単純作業の中に工夫を採り入れる感覚の欠如が大きな問題となっている。仕事が増えたと愚痴をこぼす人々の多くに、こんな事件の加害者と被害者が含まれ、結果的に組織全体の効率を低下させることとなる。確かに、単純作業の中にも複雑な手順を必要とするものが現れ、思考なしで動けるものは少なくなった。しかし、余計なことさえ考えなければ、何とか無難にこなせる仕事も、注意力散漫や集中力不足などといった原因から、様々な誤りを起こしてしまう。人間性の問題と片付けるのが一番容易であり、失格の烙印を押してしまえば、後はどうでも良くなる。しかし、人材育成などの立場から見ると、ここまで極端なやり方を続けては、組織の存続そのものが怪しくなるから、おいそれと実行に移すわけにも行かない。褒めることの必要性も、散々言われ続けてきたが、どうも効果は今一つのようだ。教育の必要性を説く人々からすれば、即席の対応もあり得る筈だろうが、この所の流れはそれ程単純ではないらしい。準備の整っていない人を相手にするからだろうか。

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6月1日(月)−語法

 聞き慣れない言い回しと思っていても、いつの間にか市民権を得て、当然のもののように振る舞うようになる。言葉は生き物と言い表す人もいるが、生き物であれば、欠陥をもった突然変異は淘汰され消滅するものだ。それ程の寛容性をもつのは何故か、不思議な気がするけれど、全く分からない理由で広がるようだ。
 初めて聞いた時には違和感を覚えたが、最近はそのまま聞き流しているものに、「餌をあげる」という言い回しがある。何もおかしくない、と思う人がいたら、現代的な言葉の使い手と言えるのかも知れない。「あげる」とは「差し上げる」という意味だから使う相手が限定されるとは、公共放送の中である役者の扮した正しい言葉の使い手の説明である。目上の人間に対して使う言葉が、いつの間にか丁寧な言い回しのように誤解され、そのまま定着したというわけだ。これと同じものは、例えば、「子供にしてあげる」といったところにも現れ、既に一般化していることを示す。子供にも、猫にも、「やる」のであって、決して「あげる」のではない、というのが正確な表現だったはずだが、そんなことはお構いなしの状態となっている。更なる驚きは、物に対して同じ表現を使う人が増えていることで、例えば、「洗濯機に水を入れてあげる」などと来る。いやはや何とも、などと言っても始まりそうにもない。そんなことを気にしながら、テレビを見ていたら、「親に○○をしてあげる」と言っている人がいて、一瞬変な気がした。その言葉自体を気にするあまり、正しい表現でさえ違和感を覚えるようになったとしたら、これはこれで困ったことだ。便利だから、楽だからという理由は、如何にも現代的な感覚だろうが、意思の疎通が不確かになるのは如何かと思う。世代の断絶というのも、こんな現象の背景にあるのだろうが、継承すべきものと考えれば、何かが違っているような気もする。どうなることやら。

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