パンチの独り言

(2009年6月8日〜6月14日)
(品質、障害、救済、判断、拝金、待球、仲間)



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6月14日(日)−仲間

 仲間がいるかいないかで、人の価値が決まると考える人もいる。そんな指標もありかな、と思うところもあるが、その一方で、仲間とはどんなものか、定義せずに話を進めるのはどうかと思う。仲のよい友人、という括りで十分と思うのかもしれないが、考え方や職業が同じかどうかで、かなり違ってくる気もする。
 仲間意識というものは、逆に見れば仲間でない人との区別ということになる。これが重要と思う人の多くは、自分の意見に同調してくれる人や同じ考えを持っている人のことを、仲間と呼ぶようだ。場合によっては、細かなことを説明しなくても、互いに理解し合えることが重要であり、それこそが条件となると思う人もいる。しかし、何でもかんでも賛成してくれる人が、本当に良い友人と言えるのだろうか。自分の足りないところ、間違っているところを指摘してくれなければ、自ら犯した誤りを正す機会は失われる。そんな間違いはしないと断言できれば、友人関係などどんな形でもかまわないだろう。しかし、殆ど全ての人は必ず間違いを犯す。また、一つの考えに執着して、全体のことが見えなくなることも多い。そんな時、一言厳しい意見を言ってもらえば、随分と様子が変わるのではないだろうか。齢を重ねるに従って、重い責任を負わされることとなる。そこでは、判断の誤りは大きな損失を生むことになるだろう。そんな時、様々な意見を出してくれる人がいれば、失敗を未然に防ぐことも可能となる。そんな仲間の捉え方は、若い年代には難しいのかもしれない。生き難いと思っているとき、味方についてくれる人の存在は有難い。ただ、それがどんな結果を導くかとなると、少し話が違ってくるように思える。そんな状況で、どんな感覚を持つかが、現実には、その先の展開を決めることになるだろう。心地よい響きだけが仲間の条件だとしたら、何かが間違っていると思うのは、やはり年のせいだろうか。

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6月13日(土)−待球

 騒々しさばかりが目立ち、いつもの耳目集めの三文芝居かと思ったが、あっという間の急展開となった。どちらも気短で、火がつくと収まらなくなるという意味では、共通性を持った人物だが、果たして互いに有利な方に働いたのか、暫く時間が必要だろう。それより、老獪さで世渡りする経営者は涼しい顔なのだろうか。
 元々、一人の人間の思い込みから始まった大改革は、その後の展開から綻びが目立ち始めたどころか、その基礎から崩れ始めているようだ。目的が不鮮明なまま、叫びに似た訴えを、恰も天の声のように受け止めた人々は、今頃何を思うのだろうか。おそらく、そんな昔のことは忘れ、別の拠り所を探して、不満や文句を垂れる毎日を送っているのだろう。その程度の人間共を味方に付け、勢いのみで走り続けた数年は、回復の期間と見なされるようだが、現実には別の問題を根付かせただけなのではないか。それが此処に来て、件の公社だけでなく、他のことでも噴出し、混乱に陥っているようだ。退いた指導者には、全く責任がないらしく、その片棒を担いだ人間も、象牙の塔の中で涼しい顔をする。施政者たる者、その気構えでなくては、思い切った政策を実行することはできない、とする向きもあろうが、ここまで人為的なしわ寄せが明らかになると、大衆は涼しい顔ではいられない。あれ以来、二度目の回復期を迎えようとしているが、片棒担ぎの人間が盲信した仕組みは、信頼を失墜してしまったから、これからまた別の信仰の対象が必要となる。信じる者が救われるのは、ただ右肩上がりを続けている時代だけであり、それがある限界に達すれば、厳しい転落が待っているとなると、馬鹿げた騒ぎを嫌う風潮も高まる。その一方で、金儲けを企む人間には、騒ぎにつけ込むしか手立てはなく、そこへ導くための教義に似た代物を作る必要がある。さて、どんな球が投げ込まれるか、待つことにしよう。

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6月12日(金)−拝金

 「金は天下の回りもの」とは、金が巡ることを指しているのであって、何かを牛耳るという意味で使うと間違いになる。しかし、大衆の理解は何故か一所に留まり、富めるものは更に、という図式に見えるから仕方ないのかも知れない。それより問題なのは、全てが金で片付くという考え方で、あまりのことに思える。
 次々に新産業が興されていた時代は、それを追いかけるだけで利益を得ることができた。まだ、その状態にあるとも言えるが、それにしても停滞期に入った部分もあり、標的を探すことに躍起になっている人々が居る。金を追い求める人たちにとって、儲けの元を見出すことは、最大関心事となっている。経済の仕組みの多くも、そういった人種によって築かれ、当然のことながら、上手くいけば必ず利益が出るように仕組まれている。それでも天下を回れば全体が豊かになるから、と言われた時代は良かったのだろうが、いつの間にか、他人から奪うための仕組みに変貌し、全体としても損失が大きくなる仕掛けが目立つようになった。百年に一度と称されたものも、現実には一部に起きた歪みが連鎖反応を引き起こし、構造欠陥を曝しながら崩れていっただけのことで、従来の恐慌とは全く違ったものとの意見もある。そんな中で、そろそろこれまでの流れを全面的に批判する声が出始めたのは、やっとその時期が来たとの安堵を誘い、極度に歪曲した組織に何らかの変革が訪れる気配を感じさせる。ただ、金の亡者たちにとって、そんな正論は雑音にしか思えず、邪魔なものを排除する動きが急になることも考えられる。儲け第一で考えれば、それを出し続けることが最良の結果を産む。そんな雰囲気が再び漂い始めた先物相場も、以前ほど思い通りには行かぬもので、新たな手立てが必要だろう。そんなことを思いつく人物が出たら、すぐさま破滅が舞い降りると言ったら、馬鹿にされてしまうだろうか。

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6月11日(木)−判断

 感染症の話にしろ、経済状況にしろ、報道の煽りが相変わらず続いているようだが、落ち着きが無く、知識の欠片もない話には、呆れるのを通り越した感がある。それぞれに思惑や目論見が見え隠れし、しゃしゃり出てくる専門家を自称する人々には、良識や倫理観といったものがまるで感じられない。どうなっているのか。
 様々な見方を示すことで、一人一人の判断の助けにすることが、報道の責務の一つと思うが、現実には偏向した情報を流し、世論を操縦しようとするだけで、自らの誤りを認めることもしない。偶に、正論が聞かれたと思うと、発言者は消し飛び、二度と画面に現れることがない。都合の悪い話に蓋をするのは、今の世の中の典型だけに、誰も文句を言わず、偽の情報や嘘に振り回されても、何も感じていないように見える。昔聞いた、レミングの話は、全くの嘘とされたようだが、以前信じられていた話のように、人間も何かに取り憑かれたような行動を始めるのかも知れない。これまでに何度も間違いを繰り返した歴史を振り返れば、常にそこに噂やデマの存在があったことは確かだ。それが原因でなく、単に変化の表れと見る向きもあるが、それにしても、現状はまさにその始まりと見える。判断材料の枯渇がここまで進んだこともあるし、それに気づかず走り回る人々の増加もそれを示すように思える。解説の多くは、偏った見方の羅列に過ぎず、根拠のない話が連発される。それを垂れ流す人々の責任は大きいが、それを選別できない大衆の無知さも大きな問題である。この状況が続けば、また混沌の時代が始まるだけのことで、歴史の繰り返しという相も変わらぬことかも知れぬ。そんな運命にあるにしても、自らの判断を放棄することは、自らの権利を全て失うことになることに気づくべきであり、どれ程酷い状況に陥ったにしても、それだけは失ってはならないのではないだろうか。

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6月10日(水)−救済

 弱肉強食、弱いものは常に弱い立場にあり、強いものがその上に立つ、といったことを表すのに使われる言葉である。ごく当たり前の状況だが、平等という観点からは、強弱を付けること自体が禁じられる。ところが、周囲を見渡してみると、正反対の状況が生まれていることに気づく。何がどう違ってしまったのか。
 弱きを助け、強きを挫く、正義の味方を表現する言葉だが、強弱が明確であれば、その立場を変えることなく、格差を縮める作用となる。しかし、最近の世の中の流れを眺めるに、強者の存在が薄れ、弱者ばかりに目が集まるようになっている。それでも強弱がある状況なら、大した変化は起きなかっただろう。いつの間にか、弱者ばかりの社会となり、弱者同士の戦いまでが起きようとするに至り、全体の構造に強い歪みが蓄積することとなった。こうなると、舵取りがとても難しくなる。強弱の区別をするだけなら、大した問題は生じないのに、弱者同士を比較し、どちらがより弱いかを判定することは容易ではない。全体を救済する措置がとれればいいのだろうが、総じてそんな余裕はなく、何らかの形で順位付けをする必要が生じる。その途端に、弱さの指標を示さねばならず、尺度が違うものを比較することは、殆ど不可能に近くなる。現状はまさにこんな所にあり、弱者救済に振り回される組織は、これといった定義を置く暇もなく、次々に現れる人々を捌くこととなる。それでも世の中には強いと見なせる人々がいる筈で、そこを頼りにすべきとする声もあるだろう。しかし、社会を互いに支える筈の人々が、次々に救われる側に回ったとしたら、社会自体が崩壊することに繋がらないだろうか。現在はそんな危惧を抱かせる状況にあり、何らかの措置が必要と思われる。心理的なものが大きく影響するだけに、一気に解決する手段は無さそうに見えるが、さて、どんな手立てを講じるべきか、難しい問題に思える。

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6月9日(火)−障害

 どんなに注意をしていても防げない事故はあるだろうが、多くの事故は注意を払うだけで未然に防げると言われる。数々の犯罪が報じられ、その悲惨な結果のみが強調されるが、その一方で、防止の観点からの話はあまり聞かれない。ちょっとした心掛けで済むものならば、皆で実行に移すべきなのではないか。
 列車が入ってくる時に、周囲を見回し、斜に構えるのはその一つだろう。後ろから押されて倒れるような体勢は、なるべく作らないようにする。おやと思う人もいるだろうが、多くはいつも通りの無視なのだから、何の異常も感じられない。交差点で横断歩道に飛び出して止める自転車や渡り始めようとする歩行者には、危険察知の心掛けは微塵も感じられない。もし万が一、という気持ちがあれば、少しは違った立ち位置を考えるだろう。一方的な事故を防ぐには、自分の身を守る心掛けしかない。一方、互いの過失が入り組む車同士の事故では、違った感覚も必要となる。周囲に注意を払い、動きを察知する感覚だが、これとて、普通の考えをする人を対象とするわけで、万能とは言えない。前の方で何やら蛇行する車を見つけてみると、直前に割り込んできた相手に腹を立て、煽っているつもりらしい。危険極まりない行為であることは歴然としているが、それが5キロほど続くとなると、何やら別の思いが過ぎる。そんな時ふと見たら、後ろのガラスの所に障害者マークが見え、その途端に、複雑な気持ちになった。ひょっとして、差別されたという思い込みから、そんな行為をしつこく繰り返したのだろうか。もし、そうだとしたら、何とも情けない心情である。障害を負った人々が全てこうだとは思わないし、そんな連中はごくごく一部に過ぎないことは分かっているつもりだが、こんな馬鹿げた行為が他人をも巻き込むとなると、嫌になる。要するに、この人間に限って言えば、規則を守る気なしに、自分だけが守られることを望む。そんなところかと思っていたら、抜け道に向かって無理矢理の右折をしていった。やれやれ。

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6月8日(月)−品質

 活字離れと言われて久しいが、状況に大きな変化はないようだ。相変わらず、その業界は厳しい状態にあり、漫画は読んでも活字は読まないという若者が、列車の中で目立つ存在となっている。これを一部の人々は、読み手の問題と分析しているようだが、長く続く不況は別の所へも影響を及ぼし始めているようだ。
 最近の出版事情は、以前と比べて大きく変貌しているらしい。印刷部数の問題はその最たるものであり、少部数のままで初版のみで消え去るものも珍しくない。質より量と言ってしまえばそれまでだろうが、人気を博すかどうかの期待度を測るより、玉石混淆を地でいくような販売方針が当たり前となっている。それでも、玉が存在していればまだましで、最近は書評に現れたものでも劣悪なものが目立ち、極端な私見、非論理性に満ちたものが、巷に溢れている。読み手の水準の低下が招いたとする向きもあるが、どちらが主体を為すかを考えれば、編集方針などが抱える病の深刻さに思いが至る。以前にも取り上げたことがあるが、ある出版社は独自の編集方針を貫き、それなりの人気を獲得していた。しかし、業績の悪化が伝えられる頃には、先に取り上げたような書籍の出版が相次ぎ、良識の喪失が危惧されるほどとなっていた。再建後の状況については、まだ確認するに至っていないが、何らかの変化が起きたものと期待している。書き手が万能であり、秀逸な文章に満ちた書籍が出版されていた時代でも、編集者の役割は大きいと言われていた。それが不況と言われる頃には、文章の良し悪しさえ峻別できず、内容の真偽を吟味する力さえない編集が目立つようになった。売りきりという制度が導入された背景には、自らの能力低下に目をつむり、ただ漫然と商品を流し続ける悪質業者の影が見え隠れする。こうなってみると、逆に読み手の力が問題になるように思えてくるから不思議だが、そちらに期待できるものか、はてさて。

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