朝が苦手だった子供の頃でも、週末だけは早起き、ということはなかったろうか。気分次第で生活の調子が変わるのは、子供だけでなく大人も同様と思うが、縛られているものが少なかった頃だからこそ、強く印象に残っているのだろう。急き立てられて、慌てて走り出す必要がない週末は、天国のような気分なのだ。
日曜日の朝、少し早起きをすると決まってある番組を見ていた。某局の長寿番組の一つだった「自然のアルバム」である。ごく普通に自然の事物を紹介するだけのもので、今時のものに比べると、押し付けがましいところや無駄な説明が無くて、安心して観ていられた。大人になってから思い返すと、その中にも意図的な編集があっただろうなと思い当たるところもあるが、それでも自然の中での四季の移り変わりに、普段見たことのないものを観る側にとっては、新鮮で感動的な番組の一つだったと思う。今でも、同じように見えるものが流れているが、最も大きな違いは、その中での人間の存在だろう。いつの間にか、その姿が大きくなり、画面の中心に捉えられるようになった。自然の中で生かされている、という気持ちは段々と薄くなり、自然を守るという気持ちが前面に出る。そんな時代の流れに沿うように、番組の編集方針も大きな転換を余儀なくされたのだろう。ある種の人々にとっては、より身近に感じられ、感動も高まったのだろうが、自然そのものを眺めていたい人々には、何処かに嘘が混じった、何とも不思議な感覚が訪れたのではあるまいか。人間の傲慢さを説く人々が居る一方で、それより何より、破壊そのものを止めることの大切さを説く人が居る。どちらが正論かなどと下らない議論をしても始まらないわけで、こんな番組の変遷もその渦中にある。ただ、一方的な勢いには、少しの違和感を覚えるだけのことなのだが。
子供たちになってもらいたい職業を、親に聞いてみると、昔との違いが際立つ。健康に育ってくれればいいと、問いとは異なる答えを返した親がいたのは昔のことで、今では理由まで付けた返答が来る。堅実さを第一と考えた時代は遠くに霞み、名誉よりも収入を第一に考えた答えが続出する。それも本人からでなく親から。
何が変わったのか判らないが、兎に角我が事のように考えるのが主流のようだ。自らの人生を顧み、できなかったことを実現しようとするのは、致し方のないこととする向きもあるが、どうなのだろう。自分が実現できなかった夢を、偶々子供が実現してくれたという受け身ならまだしも、此処ではそれに向かわせようと躍起になる姿が大きく映る。それも、仕事の価値よりも、それによって手に入れられる金額の多寡が第一となれば、その我が物顔に呆れるしかないわけだ。表面的には、子のためと称しているものの、実際のところはどんなものか。献身ぶりから評価されることも多いが、実際のところはよく見えない。唯一言えることがあるとすれば、成功こそが全てであり、結果が伴えば苦言を聞く必要もないということだ。様々な分野で活躍する人々に、こんな背景を聞いてみたところで何の役にも立たないだろう。本当の被害者は、その舞台から消え去り、何処かでひっそり暮らしているだけなのだろうから。場合によっては、親の戯言や言い訳を聞かされ続けている人がいるかも知れない。親子の関係である以上、これを避けることもできず、まだまだ厳しい道程が待つこととなる。誘導することの大切さを否定するつもりはないが、導くことが無理強いすることに変わった瞬間に、何かが起き始めるのではないか。放任主義も評価しにくいが、干渉も強すぎては、無益となる可能性が大きい。
仕事より家庭を優先する、と答える人が増え始めたのはいつ頃だろうか。それがいつの間にか、家庭を築くより自分の楽しみを優先するとなり、個人主義の極まりと受け取る向きも出てきた。ただ、そこに少子化の問題が重ねられると、個々の考え方を尊重することのツケが回ってきたように感じる人もいるのではないか。
個人主義と括ると、そこに確固たる主義主張があるように感じられる。しかし、上で取り上げた調査の結果も、他の項目を眺めてみれば、時流に乗ろうとする思惑のみが現れ、個々人の考えがそれぞれに出たものでないことが判る。となれば、主義などと呼ぶのも憚られ、単に人の顔色を見ながら生きる、自らの考えのない人々が台頭してきた、という解釈の方が合致しているように思う。賢く生きるとか、巧くやるといった表現で、成功者を称える動きが強まり、その裏にあるはずの各人の努力には目を向けない。人の成功の秘訣を盗むという行為も、こんな時代には話題になることもなく、秘訣集とも言うべき書物が書店に山積みになり、それを鵜呑みにした人々が、上手く運ぶ筈のない筋書きをなぞろうとする。単なる真似事であることに気づかず、次々に台本を替え、誰の人生なのか判らなくなった頃、全てが手遅れとなった自分を見つけるのだろうか。安易な道を選ぼうとすれば、真似をし続ければいいだけで、下手くそな芝居も、何処かの成功者の複写と思えば、その気になれるのかも知れぬ。何事も真似から入るのは当然なのだが、その一部のみを抜き書きしたものに従い、自分の目と耳で感じたものが入らない状況では、不完全になるのは当たり前だ。そんなことにも気づかず、複写の人生を過ごすことに、抵抗を感じない人が増えたことに驚かされる。自信を持つには、自らの考えを信じるだけのことで、大したことでない筈なのに。
人から頼まれたことを忘れてしまった時、どんな思いが過ぎるだろう。悔やんでも悔やみきれない、と思う人がいる一方で、まあいいかと、それさえ忘れようとする人がいる。犯してしまった間違いを取り戻す手立てがないことは確かだが、それに学んで、二度と繰り返さないような工夫を施すことは大切でないのか。
気になることがあるが、臨席できないから誰かに依頼する。ごく当たり前のことだが、こんな気配りも頼まれた相手が事を成して、初めて意味をもつこととなる。後日、経過を確認してみると、すっかり忘れていたと謝られる。当人は失敗を詫びているつもりだろうが、殆ど意味のないことだろう。多忙を極めて失念していたと言い訳が並んでも、それを承知で引き受けた頼み事なら、それ相応の備えをすべきと思う。こういうところが、仕事の出来不出来を左右するわけだが、最近、特にこの辺りの緩みが世の中全体に蔓延しているように感じられる。何が原因なのか、平和な世の中が続いていることを指摘する向きもあるが、これという絶対的な答えは見出せない。全体がその方へ向かい始めると、余程の力をかけない限り、勢いを止めることは難しい。ただ、全体に対する働きかけは難しいものの、自分自身への戒めはそれ程の困難は伴わない。自ら考え、何かしらの方策を講じさえすれば、大した労力もかけずに、それなりの成果を導き出すことはできる。個人の範囲ではこんなものだけに、お願いした相手がその能力さえ備えていなかったことに、呆れてしまい、情けなくなる。中でも、組織がそういう人物にさえ、責任を伴う仕事を割り当てねばならない状況に、大きな不安を覚えるわけだ。最近の傾向として、有能な人への仕事の集中度の異常な高まりがあるが、この危険性はかなりなものだろう。他人任せの体質を改善する手立てはなく、おそらくこのまま世の中は荒廃していくのではないだろうか。
凄惨な事件が起きた小学校で、安全教育を施す時間が設けられたという。ほんの一二回の授業内容だけで、全体の詳しい内容については述べられていないが、どんなことを行うのか、期待よりは不安の方が大きい。自衛手段には様々な形態があり、一概に言えるものでないが、それを教え授けるとは、どんな形でなのか。
常軌を逸した人々の狂気の沙汰に対して、身を護ることは言うほど簡単ではない。まさかと表現されるように、常識の範囲を遙かに逸脱した行動には、通常の備えでは対応できる筈もないわけだ。流石に、あの事件のことを念頭に置いた内容を示すとは思わないが、それにしても、どんなことを対象として取り上げるのか、人それぞれの見解の違いがある部分だけに、実施する側も選別は難しいだろう。天災のように、外から来る不可抗力に対しては、一般化した答えを得ることは難しくないが、人災と呼ばれる、人が関与する災害に関しては、人を対象とした備えを身に付ける必要があり、それによって生じる疑心暗鬼などをどう処理するか、答えを出すのは容易ではない。特に、様々なことに疑いを挟むことの重要性は、ある程度の年齢に達した後には明らかだが、小学校に通う子供たちに、それがどんな影響を及ぼすのか、どの程度の検証が必要なのだろう。現実には、大人たちでも様々な事件に巻き込まれるわけで、年齢による違いよりも、人それぞれの違いの方が遙かに大きいように思える。特に、詐欺事件の内容を見る限り、常識的な判断力さえ失いつつある人々が増えていることが明らかであり、年嵩の大小など、ここでは大きな要因とは考えにくい。その意味では、ごく普通の常識を身に付ける機会さえ失った人の数に、驚かされるわけだが、その点こそが重要な標的ではないのだろうか。
「風が吹けば桶屋が」とは落語の話だが、論理的な繋がりも時にこじつけに過ぎないことを表す。多くの人は論理を嫌う傾向にあり、科学の説明を面倒と避けるのも、そこに受け入れざるを得ない論理が並ぶからだろう。特に物理や数学は、論理だけが通用する世界で、その積み重ねが立ちはだかるように見える。
自然に存在するものは、そこに始めから有るのであり、存在のための論理を必要とはしない。にも拘わらず、人間が論理を展開するのは、自らの理解を進めるためであり、それは結局便利な道具の一つに過ぎないこととなる。たとえこじつけだと判っていても、説明が必要な場面はあり、便利な道具が活躍することとなる。科学の世界は、実生活からは遠いものと思うこともできるから、忌避することも可能となるが、生活に直接役立つものとなると、そうもいかないだろう。人によっては経済活動がその一つとなり、日々の生活を確かにするために関わることとなる。あまり意識されていないようだが、経済という分野は論理を基盤としており、それを利用した説明が日々繰り返されている。科学の解説を聞き流す人々が、こちらになると耳を傾けるのには、強い違和感を覚えるが、金稼ぎのために重要との理解から来るのだろう。そんな中には、多くの桶屋の話が散見され、その根拠の薄弱さに呆れることも多い。経済の一端として、食糧自給率の問題が時々取り上げられるが、ここでも論理の羅列が披瀝される。特に、稲作の減反政策は古くからの問題であり、補助金の問題と絡み複雑な様相を呈している。確かに、自給率との絡みは視点の転換と思う向きもあろうが、本質から遠ざかる動きとしか思えない。経済の観点からすれば、補助金は大問題である筈で、避けて通れないものだろう。その意味で、自らの予算確保に躍起となる監督官庁の動きは、自給率とは無関係に議論すべき問題なのではないか。
早朝に鳥の声が聞こえてくる。何とも表現し難いものもあるが、よく知られたものは、成る程と思いながら聞き耳を立てる。最近耳にしたのは郭公で、これまた書いた通りの声に聞こえる。抱卵せず、托卵で他の種に次世代を委ねるという、何とも不思議な性質をもった鳥として有名だが、姿を見たことはない。
声はすれども姿は見えず、というのは野鳥には良くある話で、そんなところから誤解が生まれることも多い。代表的なのは仏法僧だろう。まさにその通りの声でなく鳥を、昔の人は探し求めて、一つの鳥にその名を付けた。しかし、実際には、その鳥はそんな声を出さず、ただギャーギャーと鳴くのみで、全く別の鳥が音源であることが、後に分かったという話は有名だ。ただ、一度付いてしまった名前は変えることもできず、そのまま現在に至っているというわけ、まあこの話が有名になったから、今誤解する人はいないと思う。これとは違うが、春先に綺麗な声を響かせる鶯も、その姿が誤解されるものの一つとなっている。色の名前にまでなっているのだが、その割にはそれ程の鮮やかさが見えず、もし姿を見かけた人がいたら、首を傾げたに違いない。おそらく、同じ時期に町に降りてくる鳥と混同したからで、そのお相手は目白と言われている。こちらは、その鮮やかな羽色からも目立つ鳥の一つで、目立つ声の主と目立つ姿の主を一緒にしてしまったらしい。こちらは気づかぬ人もいて、目白を識別できるが、鶯がそれと似ていると思う人は多い。元々、野鳥は警戒心の強いものが多く、人間のように目立つ動物が現れれば、一斉に警戒態勢にはいる。余程注意深く観察しないといけないものが、そんなに簡単に姿を現すはずがないわけだ。しかし、こんな所でも思い込みの力は絶大で、それに頼る人々の勢いに押された結果がこんな誤解となったのだろう。