何故、そこまでして観光地に出かけるのか、本人たちにも判らない時もあるらしい。大渋滞に巻き込まれ、やっと辿り着いた目的地で、更なる混雑を目の当たりにし、帰りを急ぐ車の群れに再度翻弄される。座る席もなく、這々の体で到着した駅で、出口を塞ぐ長蛇の列に、呆れるのを通り越し、諦めの境地に浸る。
これだけ多くの人が週末を休みとし、その間に季節の移り変わりを楽しもうとすれば、有名な観光地はごった返すしかない。芋を洗う海水浴場ほどではないにしても、擦れ違うのがやっとの狭い道を、行き来する人々の群れは、何処を目指していたのか忘れるほどの疲労感に包まれる。それを覚悟の上で出かけたのだから、仕方がないと諦めるのも一手だが、にしてもこの喧騒ぶりは如何なものか。自分が参加者の一人であることを忘れ、つい愚痴の一つも言いたくなるのではないか。花の季節は特に激烈な混雑となり、その一瞬を見逃さぬように、人々は殺到する。季節の移り変わりを愛でる気持ちの表れ、とも受け取れるのだが、そんな心の余裕があるのか、だらだらと歩く人々の表情から、読み取ることはできない。何時の頃からか、有名な場所を求める人の数が増えた。手近な場所に、同じ花が数は少なくとも、咲き誇っているにも拘わらず、報道で取り上げられた場所に引き寄せられる。人と同じことをせねば気が済まない、という輩もいるだろうが、それにしても、まるでブランド品をぶら下げている連中と同じように、観光地に殺到する姿には、何やら不思議な感覚を覚える。近所を散策するだけでも、新しい発見や季節の移ろいに触れることは可能だが、何処かに大きな違いがあるに違いない。そんな心情を理解できぬ人間には、思いもよらぬ理由がきっと。
食品添加物と聞くと、必ず安全性を思い浮かべる人も多いだろう。その昔、大好評だった即席ジュースには甘味料として「チクロ」と呼ばれるものが入っていたが、使用禁止となって砂糖に切り替わった途端に、袋の容積が5倍くらい増えた記憶がある。甘さにも変化があり、暫くしたら見かけなくなってしまった。
この話から判ることは、消費者は甘さといった一般的な感覚を求めていたのではなく、あの独特の甘さを求めていた、ということだろう。同時期に、「サッカリン」という甘味料がやり玉に挙げられ、海を挟んだ彼我の国で扱いが異なるのが話題となった。記憶が定かではないが、当時公害問題が拡大し、自然回帰の気分と合わさり、人工的なものへの恐怖が高まったような気がする。そんな雰囲気の中で、次に話題になったのは豆腐に入れられていた保存料で、確か、「AF2」と呼ばれていたように思う。その後も、次々と合成された化学物質の危険性が指摘され、禁止添加物に指定されていった。世論に後押しされていたという事情もあるが、科学的な分析に基づく結果に、反論することの難しさはかなりのものだった。ただ、内容を精査してみれば、尋常でない量の摂取に基づく副作用や人体とは直接無関係な生物での試験など、疑問の残るものも少なくない。少しでも危険であれば、という思いからすれば、理解できる結論だが、考えさせられることもある。もう一つ大きな事は、合成物は駄目だが天然物なら、といった考え方が台頭したことで、化合物として考えれば、必ずしも正しい判断でないことはすぐに判る。この類のもので、最近の話題は広告でも紹介される、パンの添加物だろう。「イーストフード」と呼ばれる混合物の添加、無添加を製造者が取り上げるのは、注目されるからだろう。無機化合物が主体だけに、気にしない人もいるようだが、気分的に避ける人もいる。添加後の加工による変化もあり、簡単には判断できないのかも知れないが。
社会全体が病んでいるように見え、それを心配する声が上がる。確かに、無差別犯罪が起きた時に、その被害者となる確率は零とは言えず、心配を募らせる気持ちもわからなくもない。だが、その一方で、心配して何が変わるのか、という思いもある。でも、大切なのは、同じ病に見舞われないようにすることなのでは。
どうも伝染病に襲われた社会のように、他人から病気をうつされるのではないかと思う人が居るようだが、そういった病気は必ず病原体が存在するのに対し、現代社会に巣くう病の方は、そんなものは存在しない。にも拘わらず、これほど恐れ戦くのは、全体の雰囲気に飲まれてしまうのでは、という心配が先に立つからだろう。こんな人々に心配するなと言っても、殆ど効果は望めない。抑え込もうとする力に、反発する勢いだけはあり、それが更なる悩みを増やすこととなる。結局、そんなことをするよりも、無駄な心配から目を逸らすことの方が重要で、元々の病自体が現実には狂気の一つから出たものであり、常識的な感覚から逸脱したものであることを自覚できるようにし向けることが大切なのだろう。ただ、世論は全く逆に進んでおり、社会の心配は膨らむばかりとなっている。中でも一大事と思われることは、それなりの対策が講じられるのに対し、些細なことには大した関心も呼び起こせず、そのまま無関心を装うことの方が圧倒的に多い。ネット社会にはそんな現象が溢れており、このサイトにも狂っているとしか思えぬ人々が役立たずのゴミをまき散らしにやってくる。この社会では、自浄効果のみが存在しており、あらゆる対策が無力化される運命にある。倫理、道徳が忘れられた実社会から、仮想世界に入った途端に、真っ当な人間に戻ることは有り得ず、元々狂気に満ちていた人格が、その姿を鮮明にするだけのことだ。何かを始める必要があると思うが、さて、何をどうしたら。
これまでもそうだったように、これからもそうありたい。そんな考え方が大勢を占めているのではないかと思える世の中だが、同じ環境をなるべく継続して欲しいと願うのは、どんな心理からなのだろう。安定した社会情勢では、無駄な変化を望むより、現状に如何に適応するかが肝心という意味なのだろうが、さて。
安定していると思いこんでいる人も多いが、現実には様々な問題が表出し、早めの手当てが必要と見る人もいる。堤防に開いた蟻の穴とする見方もあるが、それは既にかなり前のことであり、かなりの水が流れ込む状況となっている。にも拘わらず、それに見て見ぬふりをし、自分が関わる期間だけでも平穏に、と願う人間には利己的な考えしか存在しない。時に、急激な変更は痛みを伴うから、自分自身だけでなく他人にとっても重荷となると説く人もいるが、的確な修正を繰り返すだけなら、殆ど負荷はかからないのではないか。それより、大変革と称して、浅慮に基づく計画を断行することの方が、遙かに大問題を生じ、それに懲りた人々が、折角役に立つ変化を辞退するといった事態を招いたことは、悪政の副作用のようなものだろう。いずれにしても、あらゆる組織で従来の考え方を改め、新たな方向性を定める必要がある時に、その中心となる人物が、現状維持が精々で、酷い場合には退行的な考えしか出せないのは、何とも情けないばかりか、苛立ちを覚える話である。これが様々なところで起きていることから、人々の閉塞感は更に募ることとなり、社会の意欲の減退は更なる強まりを迎える。こんな情勢で、将来のことを見据えた考えを出すことは、一般大衆には難しく、そこに必要となるのは、真の意味での指導者だろう。ただ現実には、その出現を妨げる勢力の自らの権益を守る謀略が、蠢く事態となっているだけに、政治だけでなく、あらゆる場面で厳しい状況が続くと言わざるを得ないのではないか。
温暖化という警告に従い、省エネ、節電等々、次々と方策が紹介され、一般大衆にもその考え方が浸透してきた。依然として、仮想的な筋書きに過ぎないものだが、確定したかのように扱うことに対しては、些か不満が残るけれども、無駄遣いを戒める意味では重要な方針だろう。ただ、闇雲ぶりには少々不安を覚えるが。
無駄なものを省くことは、単純に環境への影響ばかりでなく、自らの生活への影響も大きいだけに、真剣に考える必要があるだろう。ただ、一度身に付いた使い捨ての習慣は、そう簡単には手放せそうにもない。使い捨てたものを再利用する手立てが考えられ、少しずつ社会全体の仕組みが変わりつつあるが、そう簡単に大転換を迎えられるわけではない。予想したより手間が掛かり、場合によっては節約には結びつかないだけに、何を優先させるのかが重要となる。一方、節電などの方策については、電化製品の改良に頼る部分もあるが、かなり進んでいると言って良さそうだ。努力の積み重ねは、様々な形で排出量削減にも繋がるのだろうが、此処まで来てみると、ふと何やら納得できない部分が頭をもたげてきた。節電によって、電気の使用量を減らすことは難しいとはいえ、直接的な結びつきが簡単に想像できる。多くの家庭が実施すれば、それによって節約できる分はかなりの電力量になるのだろう。ところが、そこで不思議になるのは、今まで使っていたものを使わずにおいて、余った分はどうなるのか、ということだ。発電量を減らすという直接的な措置は当然行われるとして、そこに至る間、徐々に増える余剰電力量は何処に行くのか。一時期、大型の蓄電設備の建設が検討されていたが、その後、何も起きていないところを見ると、何も行われていないのだろう。節約を連呼することで、成果が上がったとしても、無駄が増えるだけだとしたら、さてどんなものだろう。
降り続いた雨が上がった朝、立ち籠めた霧が晴れ始め、青空が覗いてくる。ホッとする瞬間かも知れないが、急激な気温の上昇が予報され、複雑な心境となる。どんよりとした雰囲気に比べれば、晴れ上がった空は気持ちの良い筈だが、その後の展開に思いを馳せると、流石に晴れ晴れとした気分にはなれないという感じ。
こんな天気の移り変わりを見ると、経済の動向にも多くの類似点を見つけることができる。沈んだ雰囲気に陥る原因は様々だが、この所の落ち込みは人為的な面を含めて、心理的な衝撃が大きかった。自然の成り行きに任せるしかない気候と異なり、人の手の関与が大きいだけに、自制的な展開を進めるべきだが、影響を与える人々と制限をかける人々が全く違う連中だけに、思い通りに事が運ぶ筈もない。それでも、行き詰まりが原因で、ある流れが留まることによって、沈下の勢いは弱まり、浮上の気配が浮かび上がる。そうなれば、正直に反応する舞台は、恰も回復のきっかけが明確になったかの如く振る舞い、一気に勢いを取り戻す。ただ、何の保証もないところでの反応だけに、長続きすることもなく、不安が過ぎり始めれば、また再び黒雲に覆われることとなる。現時点では、朝霧のようなものに塞がれていると見るべきだろうが、この後の展開への期待は、微妙な状況にあると言えるだろう。様々な方策が講じられ、実行に移されたとしても、即効性のあるものはすぐに勢いを失うのに対し、基盤から押し上げるものは遅効性しかもたないだけに、その組合せは複雑な様相を呈する。その時々に、違った反応が前に出てくるだけに、一喜一憂が繰り返されるわけだが、それでも回復に向かうかどうかは、何か別の要因が必要となるだろう。社会がその時代にもつ気分といった類のものに左右される動向は、気紛れな動きを見せるだけに、確固たる自信を取り戻せない限り、晴れ晴れといった気分にはなれない。
どんなものでも変化があるとすれば、それは三つの状態に分けられる。それは、上昇、安定、下降という状態で、変化するものであれば必ず、これらの中の一つの状態にある。何と単純なものかと思う人が居るだろうが、一方で、その単純な動きに惑わされ、右往左往してきた歴史を顧みると、情けない気もしてくる。
単純な変化と言っても、その多くは事前に予想することは難しく、状態の変化が急激で、頻繁なものでは、安易な予想は却って悪い結果を招く。それに比べれば、変化自体が安定している時期は、そのまま流れを信じればいいわけだから、ずっと気楽に構えられ、人々の心理も安定することとなる。それはたとえ下降期であっても、徐々に下がるようであれば、大した心配もせずに、その状態に対応できるわけだ。このような変化は、様々なことに当てはめられ、それぞれに細かな分析が為される。その中で、経済状況の変化は、最近では多くの人の関心を呼ぶものとなっている。ただ、この変化が繰り返し起きており、それがある周期に乗っかっているように見えるとしたら、どんな感じがするだろう。現実には、経済状況がその周期に乗っているように見えるのは、別の周期がそこにあり、経済はそれをなぞっているだけと思える。この周期は、大体30年をその基本としており、それが社会の状態全体を表していると考えると、様々なことに納得がいく。経済周期もその一つだろうが、社会全体の心理状態もそんな変遷を辿り、どちらが先というより、別の要因がその基盤にあると考えた方が良さそうだ。それは世代の違いによるものであり、年齢による違いとは異質のものである。三つの状態がそれぞれ10年ほどの期間をもち、全体で30年となれば、周期とピタリと合致する。その周期が、親から子へ伝えられるものとなれば、どうだろう。人の基質の遺伝には異論もあるが、環境の重層となれば、強まることになるのではないだろうか。