パンチの独り言

(2009年6月29日〜7月5日)
(不通、論拠、蠢動、議論、有益、転換、無用)



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7月5日(日)−無用

 価値は誰が決めるのだろうか。人にしても、物にしても、その価値に見合った報酬や価格が決められる。しかし、絶対的な評価基準はなく、それぞれ雇う人、買う人が決めるものとされる。では、人それぞれの勝手な判断から来るものか、と言えば、そうとも言えないと思われる。世間の評判や人気の度合によるからだ。
 人の価値を計る話は、経済成長が限界に近づいた頃にしばしば語られた。歩合制とか、年俸制とか、そんな言葉が踊ったのも同じような時期である。その最たるものと言えば、プロスポーツの世界だろうが、これとて、どんな基準があるのかと見てみれば、大したものでないのが判る。成果主義と言われたものも、同じ程度にいい加減であり、その導入によって起きた混乱が、未だに解決していないようだ。一方、ものの価値も同じ時期に話題となった。競りにかけることが、価値を決める最良の手段と考えられ、その中で法外な値のつけられた美術品が輸入された。勢いがついた会場での異常な釣り上げの結果とは言え、その後の展開は誰の目にも明らかであり、価値判断が無意味なものであるとの結論さえ導かれた。流石に馬鹿騒ぎは暫くして収まったものの、価値に対する考え方は依然として強く残り、それが全てかの如くの論調も強まった。その結果、従前のものに対する判断は厳しくなるばかりで、何やら新しげな雰囲気の必要性が高まることとなり、仮想的な標的に照準を絞るという、何とも不可思議な風潮が際立ってきた。その典型は付加価値であり、本来の価値でなく、其処に付け加えられた価値を重視することとなった。この奇々怪々な動きは、留まるところを知らず、次々に付加のみを強調した価値判断の基準が設けられ、奇を衒ったものが市場に溢れることとなった。本来の機能が果たせないのに、其処に新たな機能を付け加える。更に言えば、新機能の大部分は不要なものであり、冷静に見れば、無駄以外の何物でもないという、何とも不思議な状態なわけだ。その後のことは言うまでもないだろう。

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7月4日(土)−転換

 経済が悪い状況にあることは確かなのだろう。そんな中で、社会全体の状況打開に、それぞれの国の政府は躍起になっている。思い切った政策を打ち出し、それによって国の経済の向かう方向を変えようとするわけで、補助金や新たな雇用発掘など、多様な手立てを講じる。ただ、効果のほどは明らかではないようだ。
 こういう状況でもっとも大きな要因は、政策そのものではなく、それに先立つものと言われる。どんなものでも、てこ入りしようとすれば、それに見合う予算を獲得する必要がある。しかし、世間は不況に陥り、更なる財源確保は困難に見える。仕方なく、先送り策を講じるわけだが、これとても、従来から積み上げてきたものへの反省から、すぐに実行できるとは限らない。八方塞に見える状況下では、予算を確保する代わりに、財源に頼らない新たな手法の開発が模索され、現場も合わせて、その方向への検討が繰り返される。でも、と思うことが多いのは、前提となる閉塞感にどれほども確実さがあるのか、出口での工夫ばかりに目が行き、入口に対して、何も工夫が施されないのは、なんとも不思議な状態ではないだろうか。確かに、家計が苦しいときに更なる出費を強いられるのは、誰しも賛成し難いものだろう。しかし、だからといって、この状況を眺めているだけでは、何も変わらないこともわかっている。そんな中で、なるべく多くの可能性を設定することは、最低限のことであり、全てのことを考えてみることなしに、安易に一部への圧迫に向かうのは、あまりにも偏った考え方があるようにしか見えない。一時期政権に加わった学者の論法は、学問と呼べないほど偏った代物であり、それに基づいて定められた構想は、いまや身動きが取れないほどの状況に陥っている。しかし、その際に大衆に植え付けられた極端な考え方だけは、いまだに打ち消すことができず、それが大きな足枷となっている。そろそろ、本来の見方を思い出すべきときなのではないか。

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7月3日(金)−有益

 役に立つかどうかが問題なのだと聞く。特に、教育の現場でこの基準が立てられ、それを前面に打ち出したプログラムが実施されているようだ。有用かどうかは、確かに重要な要素なのだろうが、そうなるかどうかは、将来を見てみなければわからない。今、適用されている基準は、今、通用する話に過ぎないのではないか。
 知識はその使い方で役に立つかどうかが決まると言われる。もし、そうだとしたら、それは人それぞれに違い、結果としても、全く正反対のものを生じる可能性が大きい。そんな中で、基準を設けて、教えることを決めたとしたら、期待通りに運ぶのは一部になってしまう。普通に考えれば、この程度のことのはずだが、国全体で調整をかけている仕組みの中では、根本のところでの決まりごとが全てに適用されるから、かなり極端な流れを作り出すこととなる。そうは言っても、所詮は一人一人の能力によるものだから、との解釈が出てきそうだが、押し付けは押し付けであり、それが適切かどうかはやはり重要な事柄だろう。少し前のことを考えると、そんなことは殆ど言われておらず、ただ闇雲に覚えろといった形の強制が横行していた。そのやり方に対する反省からか、始めに触れた事柄を重視する形式が導入され、それが次々に強化される方に向かい始めた。それからでも、教育の成果は上がっているのだろうから、このやり方が必ずしも間違いではないとの反論も出るだろう。しかし、全体として見た時に、何か予想外のことが起きているとする話もある。つまり、役立つかどうかが全ての基本との理解から、それ以外のものを一切排除する姿勢が強まり、単純な事柄しか行えない人が増えているというのだ。事実かどうかは別として、知識を授ける段階から、有用かどうかを吟味する必要があるかは、疑問とする声も多いのではないか。

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7月2日(木)−議論

 会議とは議論をする時間と場を提供するものの筈だが、さて、実態はどうなのだろう。ただ集まるのは無駄、といった観点を押しだし、人が集まる会議を廃止し、時流に乗せた形での電子メールや電子掲示板を代用する所もあるらしい。どれ程の違いがあるのか知らないが、議論が高まらなければ、どちらにしても、だろう。
 会議無用論を展開する人の多くは、時間の無駄が最大要因のように主張するが、現実には、何の話し合いも起きないことこそが、最大の問題なのではないだろうか。下らない議論が横行するのも考えものだが、提案に対して何の反応も起きず、結果が出てから文句を並べる人が増えたのは、社会の無責任を如実に表すものとして、しばしば引き合いに出される。いつの間にかそんな時代になったと考えるしかないのかも知れないが、物事を考える習慣のない人が、世の中に溢れてきたのが原因なのではないか。そんなことはない、との反論もあるだろうが、日頃から様々なことを考える必要性の話ではなく、ただその場限りにしても、必要なことを考える気持ちさえないのは、如何なものかという話である。そうなれば、更に反論は高まりそうだが、会議の時間にうとうとする人や心此処にあらずを露わにする人を見る限り、意欲の欠片も感じられず、ただ義務的に其処に座っているだけのことなのだ。それくらいなら、その気のある人だけを集めれば、という合理的な考えが出てくるだろうが、問題のすり替えを行うだけで、この場での問題を脇に追い遣るだけのことだ。まさに、この延長線上にあるのが、電子媒体の利用なのだが、それによって変わったことは殆ど無く、却って、現実の遣り取りから遠ざかった、罵声の飛ばし合いに至るだけのことだろう。結局は、基本的に構成員の気持ちから変えない限り、ということだけなのだけれども。

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7月1日(水)−蠢動

 本当に炭酸ガスが悪者なのか。本来ならば多様な意見が聞かれてもいい筈が、何故か分からぬままに、凝り固まった見解のみが取り上げられる。ちょっと昔の温室効果という考え方に、賛否両論が寄せられていた時代には、とても考えられなかったほどの断定的な筋書き、正しいかどうかを吟味する暇はないらしい。
 無駄遣いを避ける事を批判するつもりもないし、これまでの浪費癖を修正しようとする動きは、歓迎すべきものだろう。しかし、その目標値が設定された時、実現の可能性を考える必要はありそうだ。そんなところに、基盤となる考えの脆弱さを指摘する声が上がれば、お芝居の結末は悲惨なものになる。だからかどうかはわからぬが、兎に角、世界的な気運の高まりに乗り遅れるのはいけないとばかりに、慌てて走り回るのはどうかと思う。原因と結果の繋がりも怪しいが、それにも増して怪しげなのは、この運動から生まれた商取引の仕組みだろう。金を回すための仕掛けを探す人々にとって、恰好の標的となった運動は、財界の後押しを得て、強気の勢いを増すばかりとなる。しかし、現実に計算上の誤魔化しが暴かれれば、どんなことになるのか、誰にもわからない。次々に編み出される戦略に、振り回されるのは一般大衆であり、そこに金が絡むこととなれば、更なる誤魔化しが横行するだろう。絶対的な売り文句を纏った新商品の開発や、その効用を読み解く企画の発表など、賑やかな業界だが、表面だけの化粧では、すぐに鍍金が剥がれてしまいそうだ。製品での効果だけでなく、それを製造する段階での効果をも含めた形での議論が出てこないのは、何故なのか。そんなところからも、この話の裏に蠢く魑魅魍魎の姿が、ちらりと目に入ってくる。

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6月30日(火)−論拠

 世論が、というお題目で、自らの提案を押し切る。国政で使われる常套手段だが、実際には、前半でなく後半にしか目が向けられていない。何かを実現するために、手段を選ばぬといった姿勢の表れだが、何故か何度も使われている。懲りない連中のことも問題だろうが、現実にはそれを何度も呑んでいる社会に問題がある。
 同じような手法はより小さな組織でも使われ、地方政治から企業経営、更に組織を小さくしても日常的に見られる。おそらく、根拠とすべき論理に弱点があり、それを前面に押し出しても、押し切れないという危惧があり、全体の流れに沿ったという形をとるしかないのだろう。しかし、大きな流れならまだしも、個々の案件に関する流れは、比較的容易に制御できるから、そんなことを唯一の根拠とするのは、最も危険な決断と言えそうだ。多くのものが、実施後にその弱点をさらし、続々と噴出する問題への対応に、苦慮する結果となったことから見ても、本来の根拠を重視する姿勢に戻ることが、やはり重要であることがわかる。だが、依然としてその姿勢に入れないのは、何かしら別の理由があるからだろう。例えば、多くの提案が思いつきに過ぎないことは、既に各所で知られるところだが、それ自体が根拠を薄弱とする理由になっていないことは明らかである。何故なら、たとえ思いつきでも、その後の理論構築に注力しさえすれば、基盤を築くことは難しくないからだ。それをも省いて、ただ暴走を繰り返す人々には、実現という夢しか見えず、提案の目的には目を向けられない。どんな組織でも、こんな暴挙の繰り返しによって疲弊した歴史があり、それに対する反省も繰り返されているが、どうも運営にあたる人々はそんな歴史を忘れてしまうらしい。

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6月29日(月)−不通

 インターネットがあれば、従来のマスメディアは必要ない、などと極論を吐く識者もいるようだが、現状はその域に達していないと見る向きの方が多い。紙媒体、電波媒体に載せる従来のものでは、殆どが一方通行なのに対し、ネットは双方向であり、その特長を活かすべく様々な工夫がなされているのだが。
 一番の問題は、電話の時と同じように、一時に予想以上の数の接続がなされると、正常な動作が不可能となることだろう。その為に、設備投資が不可欠との意見もあろうが、果たして実現可能なものか、怪しいところに思える。電波を介した同時中継の難しさは、器材の問題が最も大きく、その点、ネットであれば軽快な動きが可能となる。その利点を生かした伝搬が急増しているものの、一定以上の耳目を集めた途端に、折角の利点が一気に消え去り、仕組みの問題点が露呈する。特に、電波を介するものでは編集上の問題から、どうしても全てを時間通りに届けることは不可能となる。その点、幾つもの通信線が同時に使える仕組みは便利なものだから、ついつい皆が進出することとなり、結果として、過負荷の状態を招くこととなり、全体が動かなくなれば、甚大な被害を及ぼすこととなる。一過的なものとする見方もあるが、果たしてどうなのか。これまでの経過からも、次々に現れる新技術が、それまでの問題を一気に解決してきただけに、次も、という期待も大きい。ただ、そろそろ限界なのではという見方もあり、設備上の問題を無視しながら、急激に膨張する社会は果たしてどんな運命を迎えるのか。悲劇的な筋書きは誰もが歓迎しないだけに、何かしらの手当ての必要性を訴える人もいる。ただ、野放しにすることがその発展を支えてきただけに、今更何らかの制御が必要とは言いにくいのかも知れない。どうなることやら。

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