パンチの独り言

(2009年7月6日〜7月12日)
(藁、基準、不変、上げ膳、評判、見極め、未登録)



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7月12日(日)−未登録

 収入が増えるどころか減る時代になり、誰しも出費を抑えることに頑張りを見せ始めた。同じ商品ならば、少しでも安いところを探し、その手間を惜しまぬ人が増えるばかりであり、更には、類似商品へと流れていく。偽を承知で買い込む人に、罪の意識がないのは当然として、責任感も欠けるとなれば、どうなるのやら。
 たとえ偽物だとしても、日用品程度のものであれば、使えればいいのだからと納得するが、では、食品や医薬品の話となるとどうだろう。利己主義の塊のような隣国では、乳製品への薬品の混入で大きな騒ぎが起きたが、乳幼児の被害はまだ続いているようだ。食品の偽装では、その程度により影響は様々だが、極端な場合には死者を出すわけで、安いから良いという価値判断は通用しない。倫理や道徳に頼る仕組みでは、結局この類の犯罪を防ぐことはできず、そこに無知が重なると、被害が更に拡大することが恐ろしい。医薬品に関しては、医療保険制度という複雑なものの存在により、事情は更に難しくなる。そんな中で、公的資金の枯渇という恐怖から逃れるために、医薬品にかかる経費の削減が急務とされてきた。そこから生まれたのが、特許切れ後のより安価な薬の製造という仕組みだが、これも通常のものと同様の厳しい規制の下に行われないと、偽装が蔓延することとなり、被害者が出ることは必至となる。ただ、世の中は既にそちらに向かい始めているから、今更それを止めることもできず、良心に訴えなくとも何とかなる仕組みを考えるしかない。しかし、現実には、ネットを使った違法販売が横行する状況にあり、規制の網は広がるばかりで、被害の急増はすぐ其処まで来ているのかも知れない。こんな状況でどんな方策が講じられるのか、期待薄な気配だが、そうなれば自分で自分の身を護るしかないとなるのだろうか。

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7月11日(土)−見極め

 仲良くしなければならない。この考え方自体が間違っているとは思わないが、世の中ではここから大いなる誤解が生まれていることも事実だろう。仲良くするとは、あくまでも互いの理解の上で、という点が含まれるべきで、仲間意識がそこから生まれることを意味する。理解のための衝突は、あって然るべきなのだ。
 そこでの誤解で最も危険なものは、理解無いままでの受容だろう。互いの考えを交換することもなく、ただ、仲間外れにされることを恐れることから、枠の中に留まろうとする。日常的に築き上げてきたこんな関係は、一見確かなものに見えるが、あまりにも危うく、少しの揺動で脆くも崩れ去る。崩壊への恐怖は、どんな小さな揺れにも敏感であり、その排除に躍起となる。その結果、保たれている筈の関係は、形骸化の一途を辿り、周囲に瓦礫の積まれた遺跡のようなものが並ぶこととなる。それでも、形だけでも整えようとする人々は、中身のない関係を続けることに意義を見出し、崩れかけたものでも安心の対象とする。人間関係におけるこのような問題は、現実には、様々なところへ波及する。例えば、人の意見の吟味を避け、批判を口にしない習慣から、あらゆるものに対する理解度が著しく低下し、それが極まれば、自らの考えをも同じ病に冒される。常識的な考え方がこれほどの危機感を持たれたのは初めてかも知れないが、今の世の中に蔓延するこの手の病は、次々に犠牲者を出していくのに対し、その保因者と思われる人々は、自らの運命に気づく気配もない。目の前の刹那的な関係の構築に目を奪われ、そこにあるべき筈の重要な要件の欠如に気づかない。この能力の欠如の例として気になるのは、活字の盲信であり、鵜呑みの恐ろしさに気づかぬ傾向だ。新興宗教にも似た動きが目撃されるのも、そんな世情から来ているのかも知れない。

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7月10日(金)−評判

 何事も始めが肝心、という考え方がある。何かが完成した時に、それを上手くまとめた人より、始めに方向性を定めた人の方が評価が高い、といったものだろうか。この考えが出てくる背景には、終わりを迎えた時にその場にいる人は、評価されやすくなるのに対し、始めにいただけで居なくなった人は、そうでないからだろう。
 この相反する考え方について、人それぞれに違った感想を持つようだ。しかし、こういったものを十把一絡げに扱うのは変で、始めから終わりまでの道筋がどうなっているかを加味しなければ、正当な評価をしたことにはならない。ある試みを見出した人の慧眼は、当然評価されるべきものだが、それが更なる紆余曲折を経て、完成に至ったとしたら、始めたことへの評価は、下げられて然るべきだろう。更に、その過程で新たな転換点を迎え、全く別の展開を必要としたら、始めの部分への評価は、かなり低くせざるを得ない。こうなれば、始めの頃とは全く違った状況となり、当時予想された展開は、的外れなものとしか映らなくなる。このように複数の人が関わる事業では、それぞれの段階での評価は、最終段階での評価と直結するわけではなく、正当とは思えぬ扱いも起きるわけで、それに対して不満を訴える人も多い。しかし、全体として何処に重点を置くかと見渡せば、そういった形での評価はごく当たり前のものと言えるのではないだろうか。当人たちの気持ちは汲むとしても、全体を俯瞰した上での最終評価は、その時々のものとは異なり、全ての関係者を満足させるものにはならない。肝心なことは、関わった人間が自らの貢献に関して、誇りを持つことであり、他人からの評価に一喜一憂しないことではないか。そちらに力を入れれば入れるほど、現実には確かな仕事が難しくなるだけで、無意味な動きが増すだけなのだから。

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7月9日(木)−上げ膳

 恵まれた時代には当然のことかも知れないが、何とも言えぬほど施しに溢れた世の中である。次から次へと、あれもこれもと、様々なものが差し出される。物質的な施しだけでなく、金銭的な施しもあり、何故そこまでせねばならぬか、首を傾げたくなるが、それを受ける人々は、ごく当然の顔をして受けているようだ。
 流石に施しといった言葉は聞かれないが、実態はそのものと思う人もいるだろう。社会全体に、必要なものを供給する体制が整えられ、その中で自らの努力なしに、ただ漫然と過ごす人々が居る。一方で、体制に含まれない例では、厳しい状況に追い込まれるわけで、その違いたるやかなり大きなものとなっている。問題は、対象による違いにもあるとは思うが、現実には、何もかもを整えてやる体制にあるのではないか。中でも、後の時代を担うべき世代に、重荷を背負わせることなく、なるべく順調な形で、役目を負わせようとする動きは、不可思議な思惑が蠢き、異様なほどの整備がなされている。特に、心理的な負担を軽くするための方策は盛んに立てられており、押しつけにならぬよう配慮された形となっている。世代を繋ぐ形の継承については、そんな形式をとらずとも、従来通りのやり方で十分に実現可能と思えるが、ある時代から、やって貰うという考えが台頭し始め、配慮に溢れる方式が導入された。結果は現時点を見ればすぐに判るが、やる気のない人間が増えただけで、まるで動く歩道に立つ人々のように、勝手に運ばれることを当然とする人種が目立ってしまった。確かに、やりやすくしてやることは重要だろうが、努力を省く方に向かうことは、ろくでもない結果しか生じない。そろそろ、その辺りへの認識を定め、軌道修正に入らないと困ったことになるのではないか。とは言っても、三十年周期では、それと無関係な風潮が出てくるのかも知れない。

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7月8日(水)−不変

 乱暴に分けると、人間には変化を好む人とそうでない人が居るようだ。変化には良い方向と悪い方向の二つがあるわけだから、どちらになるのかを重視したくなるだろうが、事前に見抜くことはできない。だから、ここでの好き嫌いは結果によるものとは言えないだろう。では、何が違うのだろうか。
 変化はどんなものにしても、変わり続けることを意味するだけに、不安定に感じることが多い。安定しないことが心の不安に繋がれば、それを嫌う人も出てくるわけで、そんなところが関係するとも考えられる。しかし、それなら何故、不安になる人とそうでない人が居るのだろうか。この辺りは、これという原因も無さそうで、同じ人でも時により正反対の反応をするようだから、簡単に結論づけることはできない。では、変化の有無という観点から、時代の流れを見てみるとどうだろう。明らかなのは、時が流れる中で不変のものは殆ど無く、例えば、彫像や絵画などが変化しなくとも、それを眺める人間の心持ちが変わることで、扱いが大きく変化することは度々ある。当然のものと扱われるべき変化に対し、それが起きないことを望む人間が居ることは、どうも腑に落ちない気がするが、当人にとっては受け容れ難いものとなるらしい。自ら活動の範囲を狭め、その中でじっとしていることが重要となれば、別種の人々から見れば、何とも変わった人間に見えるわけだが、不安に陥るよりはましということなのだろう。そこから更に、何故不安が起きるのか、と話を進めていくと、どんどん格差が広がるばかりとなる。心理的なものを重視する時代であるだけに、この辺りの扱いは難しくなるばかりだが、それにしても、当然のことを当然と見なせない人に、どんな対応をすればいいのか。遅れていく人々に差し延べた手が、はたき落とされた時、何をすればいいのやら。

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7月7日(火)−基準

 価値に関する話を暫く続けているが、今日もその一つとなる。最近特に気になる点は、基準についてであり、本来人それぞれに違うはずのものが、恰も統一基準があるかのように振る舞い、それに振り回される人が増えていることだ。自分でなく、他人がどう思うかがより重要で、それに基づき判断する。どうなっているのやら。
 偏った考えから、一般に受け入れられない基準を作り出し、それに基づいて行動すれば、当然異常な結果を招く。其処まで極端になったものを、そのまま放置するのも問題であり、こちらはこちらで独自性を優遇する余りに、といった形で横行しているようだ。そんなことが目立ち始めたのは、実はその反対に、横並び的な行動をとる人が増えているためで、其処には自らの基準ではなく、何処の誰が決めたか分からぬままに、盲目的に他からの意見を重視する傾向が強まった結果だろう。個人主義などと言われても、こんなことが行われている中では、おそらく個別の感覚など出てくるはずもない。かといって、何もかも他人の意見に反対する姿勢では、何事も成立するはずもなく、議論も何も進みようがなくなる。この辺りの事情を聞く限り、驚くことに、両極端の存在しか取り沙汰されず、本来中庸で、最も感覚の鋭い集団に属する人が、激減しているように思える。いくら、振り子のぶれの大きさが動きを止めないために必要とは言っても、両極端にしか動けない人間の存在は、あまり大きな意味を持つとは思えない。価値判断においても、きちんとした基準を設け、それを他と比較することで、微妙な調整を続けることが、重要であることは明らかである。にも拘わらず、最近の世情はそうなっていないのは何故か。かなり不思議な状況だと思うのだが、どうも、世間的にはそう思われていないようだ。そんな世論に問うことは、どんな意味があるのやら。

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7月6日(月)−藁

 までもないと言いつつ、舌足らずだったのかも知れない。価値の決定要因については、様々なものがあり、これという絶対的なものはない。当然のことの割に、取っつきやすさからか、付加価値への傾倒が急となり、歪曲が極まることとなった。心底から信じる人には聞こえぬことだが、本来の姿を見極めないのは異常だろう。
 一方、価値に見合う価格といった感覚も、かなり的外れな方に動いている。法外な額を要求することで、築き上げた地位を保とうとするのも異常だが、その一方で、矢鱈に値下げを繰り返し、それが競い合いへと進み、崩壊に向かうのは愚の骨頂に思える。しかし、少しでも安いものを求める人々にとっては、これが当然のことであり、生きる術の一つとされている。残り物を安く、というのは損を減らす対策として、しばしば使われるが、微妙な戦術と扱われている。つまり、それを待つ客が居た時に、どう対処するかというわけだ。昔なら、安かろう悪かろうと言われただけの代物も、最近は、安くてもそれなりのといった扱いとなる。値に見合う価値といったところなのだろうが、物によっては通用しないことを理解すべきだろう。典型的なのは医薬品であり、特許切れの安価品が出回ることとなったが、それとは別の動きで、偽物が市場に溢れているのは、異常事態としか思えない。ある機能回復薬は、爆発的な売り上げを記録しているが、正常な経路を経ずに手に入れられるものの内、多くは偽物なのだという。効果は幾らかあるものの、純正品には存在しない化合物の副作用について、何の保証もない。その危険性をも上回るほどの必要性があるのかどうか、理解に苦しむところだが、異常な心理によるものと思えば、当然と言うべきか。これが更に、他の医薬品にまで及ぶとなれば、心配は膨らむ。その手の医薬品全般を疑うわけではないのだが。

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