安心できる時代だからこそか、不安を煽る話が数多聞かれる。普段から不安に苛まれる環境にあれば、取り立ててそれを問題にするまでもなく、皆それぞれに自身を守る手立てを講じる。その可能性が著しく減り、大概のことが大過なく過ぎることとなり、心配の種が無くなった時に、こんな心境に陥るのかも知れない。
しかし、見せかけの不安で塗り固めた時、核となる部分は一層緩み、何事にも疑わぬものになるらしい。冷静になって考えてみれば、凄まじく異常に思えることでも、渦中にある人々はそれを当然と受け容れる。そこに不思議な歪みが現れ、精神の不安定が増長される結果となり、社会の病が重さを増すこととなる。中でも異様さを呈するのは、全体としてみれば安定しているのに、一部の不安要素が強調されることであり、それに巻き込まれた人々を異常でなく、不幸な対象として扱うことにある。常軌を失った人々をそのように扱えば、別の集団が巻き込まれる可能性は殆ど無い。にも拘わらず、この手の病が次々に伝播するのは、それが正常の範囲内に留まるとする基準にあるのかも知れない。不安を抱くことが正常の証しとされ、何事にもそれを当てはめることで、別の意味の安心を手に入れる。それが異常への一歩であることを見失い、全てがこのように巡ることになれば、そこへと向かう勢いを増すだけのことだ。本当に不安を抱くべき対象を見出せず、安心を手に入れるための手段に異様なほどの恐怖を抱く。こんな図式は少し前の時代には描けなかったが、今はそれが標準かの如く振る舞われる。そこにこそ異常が存在するのに、それから目を逸らし、皆と同じように振る舞うことで、見かけの安心を手に入れる。それこそが、社会を根底から覆すものになることに気づかぬ大衆は、破滅への道程を確実に歩んでいるのかも知れない。
口車に乗せられてはいけない、騙されてはいけない、と何度も書いているが、その為に重要なことの一つに、様々な見方をすることがある。誰かが紹介した観点だけでなく、それとは正反対か少なくとも違う見方をすることで、自分なりの判断基準を設けるわけだが、どうもこれが難しいと思う人が多いようだ。
実際には鵜呑みにすることさえ無くせば、大抵のことは無難に進むようになる。ただ、それができない人の多さから、その難しさが理解できるのかも知れない。自分なりの、と言われた途端に、常識外れの見方を始める人も困ったものだが、何でも鵜呑みにする習慣のついている人は、もっと困り果ててしまうだろう。特に、自分に戻ってくる不利益が、ある水準を超えた途端に、全てのことが狂い始めるからだ。いざというときにできるように、とする向きもあるが、おそらくそんなことは通用しない。普段から、そんな癖をつけておかねば、大抵のことは失敗に終わるからだ。今の世の中は不況であることを強調する意見が大勢を占めているが、現実には人それぞれに感覚が違い、これを勝機と見る人さえ居るものだ。誰もが日々の生活に困っている時に、外出することは無駄な出費を伴うから、避けて通るのが当然だろう。しかし、そこに経費の多寡を問題視する声が出てくるのは、現実には本当の困窮に陥っていないことを示すのではないか。高速料金の値下げ然り、航空運賃の値下げ然り、どのみち出費が嵩むことには変わりがないのに、挙ってお出かけとなることは、何やら大きな矛盾を孕んでいそうだ。こんな些細なことをとってみても、見方一つで様相が一変することが判る。何も素直に騙される必要などありはしないのだ。自分なりに計画を定めて、行動に移しさえすれば、何とかなるもの、他人のことばかり気にして、自分のことが見えないのは愚の骨頂ということだ。
同じことをするにしても、捉え方によって随分と様相が異なる。そんなことはこれまでにもしばしば起きていたが、身近なことならばそれなりの判断が出来るけれども、遠い存在に対しては判断を誤ることも多い。特に、人との関わりとなれば、少しの間違いも取り返しのつかない結果を産み、後悔することになる。
仲間内だけの集まりであれば、些細な誤解から崩壊し始めた人間関係でも、周囲の人々の口添えで徐々に修復できることがある。しかし、偶然知り合った者同士の場合、一時的に密な関係を結べたとしても、ほんの些細なきっかけで崩れてしまうことが多い。特に、生まれ育った環境の違いが歴然とする場合、文化の違いから生じる誤解は、修復の余地を殆ど残さない。そんな境遇の人間が多数集まる所で、話題になるのは多数の文化の間での互いの理解となるわけだが、これも解釈の仕方によっては、単に二つの文化の間の理解が基本であり、それが多数へと変化するかどうかの問題に過ぎないとなる。見方の違いと片付けることも出来るが、現実には、立場を変える必要があるとの解釈もあり、この辺りは簡単には片付けられない問題とも言われる。それにしても、互いを理解することの難しさは、たとえ同じ境遇にある人々の間にも存在するのに、生まれも育ちも違う場合に、どれほどの高さの壁が築かれているのだろう。具体的な例は無数にあるには違いないが、経験した者でなければ理解できないことも多く、事前に準備することは難しいと言われる。例えば、宗教の違いはその典型であり、これまでにも様々な問題が取沙汰されているだけに、違いを実感することは容易であろう。その一方で、違いが理解できても、互いの理解を進めることは困難であり、結局他のことと同様に、違いのみが表に出るだけで終わる。これは捉え方の違いにはよらず、一対多数か、一対一かの違いだけで、何も変わらないと見た方がいいのかもしれない。それにしても、望むかどうかに関わらず、こんなことを気にしなければならない時代になったのだろうか。
高齢化が進むに従い、労働人口の減少が危惧され、それを補う意味での外国人労働者の移入が進められた。そのまま全てのことが順調に進めば、大した問題も生じなかったのだろうが、世界経済の停滞が際立ち、緊縮体制がとられることとなった結果、内外を問わず、雇用が社会問題となり、厳しい情勢が続く。
こうなってくると、一時の振興策は影を潜め、根本的な問題解決が優先されることになり、外国人への風当たりは強くなるばかりだ。優先順位は論じるまでもなく決まっており、それに従って行動計画が練られれば、一部の問題が先送りされるのは致し方ない。しかし、自国に暮らす人々と違い、不安定な境遇にある人々にとって、このような状況に陥ることは、たとえ予想していたとしても、耐えられるものではない。この手の方策において、最も重要なことは、順調に施策を進めることより、障害が起きたときの対応策を十分に練ることであり、今回の成り行きも、冷静に振り返ってみれば、此処彼処に穴があいた状態での実行によって生じた、多くの問題の山積が大元にあるように見える。確かに、予想外の展開だったとする分析はあるものの、些細な問題が生じたときの対応の拙さが、次々に起きる事例への遅れに繋がり、結局は救いようの無い状態を招く結果となった。そこに至ってもまだ、具体策が講じられることは無く、ただ単に帰国の斡旋をするに留まっている状態は、無策を露呈したと言うしか無いだろう。同じように、他国の労働力に頼る国は世界各地にあり、それぞれに、今回の問題への対処を進めているようだが、総じて不手際が目立つようだ。世界を繋ぐ仕組みの構築が、大々的に進められ、それが恰も夢の実現に繋がるような雰囲気さえ漂っていたものが、此処へ来て、自国の利益のみを守ることが優先され、使い捨ての論理が罷り通るようになった。何らかの改善が図られるかもしれないが、所詮この程度となれば、次は困難が増すことは必至である。どうなるのやら。
常識の通じない時代になった、としばしば書いてきたが、これが若い世代に限られたものならば、昔から見られた現象であり、心配する必要は無いだろう。しかし、現状は正反対であり、これまでの暴挙を繰り返すだけの、破壊世代による野蛮な行為だけに、何処まで堕ちるのかという心配が頭をもたげる。
特に、このところの傾向を見ると、自らの思いを遂げるためだけに、あらゆるものを排除し、持論を展開する形が横行している。それによって、自分の思い通りに事が運ぶと信じていて、他への悪影響など気にならないらしい。最も大きな問題の一つは、個人の利益追求が第一となり、組織全体の利益が蔑ろにされていることであり、それが回り回って自分のところに戻ることにまで、考えが及ばないほど無能な人々が増えたことであろう。それによって、次々と繰り出される方策は、行き場を失いつつ、破壊的な方に向かうしかなくなり、結果として不毛な状況へと落ち込む。その原因を探れば、すぐに思い当たるところがある筈なのに、どうにも無理難題を押し通す人々ばかりが力を握り、そちらへ向かうことを妨げている。今の世の中の歪みの最たるものは、組織の長たる人物達が、こういう穴に落ち込んでいることであり、自分の中では整然とした論理が展開されているように見えるものが、外からは余りにねじ曲がった曲論の羅列になっていることだろう。こんな状態が暫く続けば、そこから生まれるものはまともである筈も無くなり、更なる歪曲が重なることで、修正不能に陥ることは確実と思われる。そんな中で、再び、動き始めた局面は予想通りに転がり始め、行き先の知れた破滅への筋書きに、さてどんな脚色がなされるのか、微塵の期待も感じられないが、国全体を巻き込んだ狂騒が続くとしか思えない。だが、一番の問題はそれを傍観したり、無視したりする人にこそあり、そこに気づかぬ限り、何も変わらないのかもしれない。
あと二週間弱で、日食が見られる。昔見た覚えがあるけれども、部分日食であり、皆既日食のような感激は無いようだ。それでも、不思議な現象であることには変わりなく、それを楽しみにする人も多い。と言っても、皆既日食は南の島でしか見られないから、結局は同じことかもしれない。何を楽しみにするか。
そんなことを思っていたら、やはり考える人は考えるものだ。単に、サングラスで眺めてみるという楽しみ方でなく、木漏れ日を使って見てみようとするもので、普段ならぼんやりと丸く映る筈が、それぞれが欠けた形になるのだという。俄には信じ難いものだが、要するに百聞は一見にしかず、という具合に、見てみないことにはわからない、というのが正直な反応だろう。光に関する不思議な現象は様々あり、それぞれに面白さがあるようだが、難しくわからないと思う人には、すぐに敬遠されてしまう。まずは試してみてから、という考え方の人には、理解し難いところだが、どうも食わず嫌いの如く、近づくことさえ憚られるという人もいる。そういう意味では、今回の楽しみ方は、それほど難しいことを考える必要も無く、更には、自分で何かを作らねばならないことも無いから、近づき易いものとなるのかもしれない。最近の傾向として、小難しいものへの憧れは急激に薄れ、それよりわかり易いものへの興味が強くなるばかりで、わからないものには近づかないという傾向が強まるばかりである。ごく当然のことと受け取る向きもあるが、現実には不思議な傾向であり、未知のものへの興味が薄れることへの危惧は高まるばかりである。面白さを伝える手段が複雑化したこともあるが、もう一方で、面白さを味わう感性が弱まったこともありそうだ。何故とか、どうしてとか、そんなことが簡単に問いかけられる環境の大切さを表しているのかもしれないが。
経済活動が盛んになり、それまで遅れていた開発が追いつくこととなる。発展途上の国で見られる現象の一つだが、それがある程度の期間続くと、また別の様相を呈するようになる。つまり、それまでの貧しい生活から、全く違ったことが起き、一部の人に限られるとはいえ、かなり大きな変化が起きるわけだ。
これは一見貧富の差を広げただけのことと映るかもしれない。しかし、最も大きな違いは中間層から下層にいる人々の生活水準の変化で、現実には伸びだけを見れば、富裕層と比べるべくも無いのに、生活が一変するという点では、かなり大きな影響を及ぼしている。それをどう見るかは、分析の仕方によるだろうし、何を論点とするかという取組み方にもよる。それによって、目立たぬままに放置される場合も多いが、徐々に成長期が長くなってくると、無視できない存在となることが多い。彼らの生活が大きく変わることは、恰も最終結果のように思う人がいるが、現実にはそこから更なる加速が起き、全く別の様相を呈するわけだから、明らかな誤認があるように感じられる。そんな時期が続き、更にそれが多くの国に波及するようになると、全体の成長は著しくなり、それに依存した波及効果も数多く見出される。どうしても富裕層の急成長にばかり目を奪われる人々は、こんな変化を無視する傾向にあるわけだが、現実には無視できないほどの変化が現れ、結果的に制御や調整の遅れが目立つこととなる。伸びるものを放置しても大したことは起きないと思う向きもあるが、現実には、それが急速であればあるほど、崩壊への道筋が明確となり、それを止めることは難しくなる。そんな点から、最も注意せねばならぬものなのに、多くの評論家はそれを直視しようとしない。それより、成長が続くことの重要性にばかり目を向け、足元の落とし穴に気づかぬわけだ。何たることやら。