脇目もふらずに働き続け、やっと自分たちの時間が取れるようになったからと、各地に出かける人が増えている。微笑ましい姿とも見えるが、場所によってはとてもそうとは思えない。何をどう間違えたのか、場違いな服装や装備で出かける姿には、何の危険もないとの確信が見えるが、根拠がある筈もないからだ。
剣が峰の下に続く長蛇の列、行楽の季節に流されるいつもの光景だが、それらの人々が滞在するための場所はあるのかと不思議に思う。夏場の山は比較的天候に恵まれ、危険が少ないものとして知られているものの、一番の高さを誇る山でも、この時期に遭難者が出た。安全には絶対のものはない、ということを承知の上で出かけるなら、まだ何かしらの対応もあるだろうが、そんなことを考えたことのない人たちには、本当に何もないのかも知れない。投資の世界で使い古された自己責任が、こんな所で引き合いに出されるとは、と思った人も居ただろうが、そんなことが思い浮かぶほど悲惨な遭難事故が北の方で起きた。装備の問題が取り沙汰され、業者に対して非難の声が飛んでいるようだが、その一方で、参加者たちの意見には、別の問題が多く含まれている。自分たちの問題とする向きもあり、生存者の言葉として重く受け止める必要があるように思える。注意されなかったからと、まるで無垢な子供たちのような意見を吐く人もいるが、非常識と言われることを覚悟せねばならない。一方、案内人たちの行動には、かなり厳しい意見が浴びせられているが、こちらについては、まだ手ぬるさが目立つように思える。究極の決断と見るところもあるが、現実には、職業とする以上は、それ以前の判断の誤りこそが問題となる。無理な参加を拒絶するのも当然とするべきだし、責任の負い方を考えておくことこそが、職業人の務めだからだ。
似非弱者が声高に権利を訴える陰で、本当の弱者は目立たぬままに、騒動に巻き込まれる。偽の平等主義が世の中に蔓延り、制度の欠陥に乗じて、権利や金を掠め取る輩が踊り回る。何とも不条理極まりない時代となったと思うのも、一部の良識を持つ人々に限られ、多くは暴走列車に乗り込もうと躍起になる。大衆の貧しい心が原因と見なされているが、現実にはそれを増長する社会制度の責任の方が重い。
レコードが店頭から消え去り、針の製造が止まった時、一つの時代が終わったとされた。しかし、それ以前でも回転数の変化から、宝の持ち腐れとなった話もあり、技術革新の大波を受けて、涙を流す人は必ず出るものだ。全く事情が異なるとは言え、方式の統一の陰で、折角手に入れた最新機器の将来を悲観するしか無くなり、現実にソフト供給という一時の措置は、あっという間に忘れ去られてしまった。時代の変遷や業界の都合といった、ある意味で仕方のない流れに巻き込まれた人々は、結局は仕方ないと諦めるのが精々だったが、今度の事態はどうだろうか。数年前に決定した後、変更に向けてあの手この手を駆使していたが、二年後と言われるとすぐ其処のように感じられる。しかし、この変革はあくまでも行政主体のものであり、多くの消費者にとって、従来のような諦めが起こりにくいのも事実だ。始めは頭を下げていた公告も、無理強いの感が満ち溢れるようになり、そろそろ一気呵成に畳み掛ける雰囲気となった。何しろ予行演習と称して、一部地域で放送休止の措置がとられるほどだ。この辺りの流れは、現代社会が抱える問題を如実に表しており、人の考え方の浅ましさを映しているように思える。ここでも真の弱者は蚊帳の外に追いやられ、ある日突然の強権発動に驚くばかりとなる。誠意を尽くしたとなるだろう連中に、その気持ちがわかるはずもあるまい。
同じものを作り続ける。伝統工芸の基本と思われることだが、伝統となっていないものについては、全く逆の考えが適用されると見なされている。次々に新しいものを編み出し、それを世に出すことが当然のように言われる。伝統になれば同じで良いが、そうでなければ駄目というのは、分かったようで分からない話ではないか。
名前が確立したものについては、経済活動とは別の世界へと分けられる。それを維持することが第一であり、収益のみを追求することは少なくなるからだろう。伝統と呼ばれるものの多くは、こんな分け方が適用される。それに対して、現代技術が表現される製品の多くは、その質のみが話題となり、買い手の満足を得るために、進化させることが当然と思われている。それが経済活動と直接に結びつくとされるので、そこに更なる縛りが加わり、利益追求が第一と見られ、その為には市場の要求に応える必要があると言われる。確かに、この手の話は全てが当然の論理のように見えるものだが、基礎の部分での前提に問題があれば、全体の論理は脆くも崩れる。市場の要求、消費者の要求などという形で表現されるものの多くは、技術革新を進める為の力として表現され、それに従って新しいものが作られてきたことは事実だが、近年になり、要求そのものが明確な形で示されず、疑心暗鬼も含めて、様々な想像に基づいた話ばかりが前面に出ることとなった。そんな中で、無駄を覚悟の開発が続けられ、それが疲弊に繋がったことから、そろそろ反省の声も聞かれるようになっている。本当に求められているか、といったことを考え直してみると、よくわからなくなる訳で、その中で何をすべきかをじっくり考えたのかもしれない。伝統工芸と同じやり方があっても良い筈、と思えば、何とかなるのかもしれない。不安が伴うものの、疲れるだけよりは良いのではないか。
新製品が発売され、長蛇の列が作られる。昔からよく見かけた光景だが、最近は状況も変わったのではないか。誰もが手に入れたいと思う製品は少なくなり、一部の熱狂者が群がるものが増えた。結果として、行軍のような形で繰り返される列も、その出現頻度はかなり低下したように思われる。
それでも、新しいものを愛でる人は無くならないから、それを手にして歓喜の表情を見せる人々が画面に登場する。だが、製品にもよるのだろうが、電子機器の場合、其処に備えられた機能全てを使いこなす人が居るのだろうか。開発者が全てを把握するのは当然だが、使用者が必要に迫られてでも全ての機能を使うことは、殆ど無いように思う。にも拘わらず、多機能であることが望まれ、新たな機能の開発が責務のような空気がある。この乖離は何処から来るのか、色々な解釈があるとは思うが、多くは経済縮小の元凶とも言われる市場原理と同じ起源と思える部分がある。つまり、市場からの要求により、新たな製品の開発が進められ、それが登場するやいなや、次期機種の開発を急ぐという図式だ。ここでの市場とは当然使用者のことだが、さて、使いもしない機能の開発を待望する消費者の存在とは、一体全体何のことだろうか。同じ機械を次々に買い換える一部の熱狂的な人々は別として、一般大衆の多くは、そんなことなど気にも留めず、ほんの一欠片の機能で満足して、持ち続ける。こんな状況では、製造する側の思惑は当たる筈もなく、無駄な開発の継続により、全体的に疲弊が広がるばかりだろう。だが、こんな時にも、違う解釈がなされるらしく、物足りない新機能でなく、衝撃的なものを追い求めることとなる。確かに、一部にはその効果も現れるが、一時的なものに過ぎず、すぐに萎むのを見れば、何かを大きく誤解していることに気づく筈だ。そろそろそんな時期ではないか。
豊かさとはどんなことを指しているのだろう。金銭的な豊かさを思い浮かべる人が多いのはやむを得ないことだが、それだけかと問い返された時、別の表現に辿り着く人は少なくはない。ただ、求めるべきものとなると、中々に目標を定めることが難しい。そんなところから、金銭を追い求める人が多いのだろうか。
子供の頃と比べれば、ものに溢れた今の世の中は、豊かなものと言わざるを得ない。にも拘わらず、これほどまでに不安を膨らませ、貧しさへの恐怖を抱くのは何故だろう。資産を持つことが幸福に繋がるという解釈は、なるほど分かり易いものだが、其処に至らない人が全て不幸かというと、そんな筈もない。何が違うのかと言えば、社会全体に行き渡った概念が外れているだけのことだ。拝金主義とはいかぬまでも、金を中心に物事を考える癖のついた人々にとって、金銭的な価値で測る以外に、方法がないように思える。しかし、日々の暮らしに追われている人々でも、分相応な生活を続けること自体が、幸福に繋がるわけだし、そんな人々の集まりでは、互いの理解こそが第一となる。貧しかった時代には、隣近所の助け合いが当たり前だったと言われるが、最近の状況は正反対にあると言える。個々人の生活を如何に守り、保つか、ということが第一となり、赤の他人でもなく、毎日顔を合わせる人々に対しても、興味を抱くというか、目を向けることが無くなった。自分大事という考えと言われるが、実際には自分を大切にすれば、他人にもという考え方もある。孤立したいなら兎も角、いくら個人を重視すると言っても、集団の中での個々を際立たせることこそが、重要なのである。そんな気を持てば、何となく豊かさも違う形で見えてくるのではないだろうか。
狂気に満ちた世界に、冷水が浴びせられ、皆が夢から覚めたと思ったのも束の間、一度味を占めた人々は、まるで麻薬中毒者の如く、次の夢へと突き進み始めた。自らの利益を増すためには、其処に継続的な金の流れが欠かせず、誘いの言葉には理論の裏付けが必要とばかり、再び奇っ怪な数式の登場となるのか。
経済活動の多くは、一部の業界の騒ぎでは収まらず、各所に影響を及ぼすこととなる。それでも、適用範囲が限定されていれば、たとえ甚大としても、一部の被害で収束してきた。ところが、夢追い人が急増し、莫大な利益を上げるに至ってからは、其処にあるべき制動力は悉く失われ、振り子の振れ幅は広がるばかりとなった。ついには勢い余って、何処かへ飛んでいってしまった錘は、そのまま消滅するかに見えたが、結局のところ、一度確立された欲望の勢いを止めることはできないようだ。この惨劇のあと、学者たちは自己批判に入る姿勢さえ見せたが、一部を除けば、また勢いを回復するに違いない。一度味わった快楽の蜜は、忘れることのできないものとなり、その香りがしただけで、次々に引き寄せられていく。反省の弁が聞かれたとしても、ほんの一部の欠片に過ぎず、ましてや、言い訳を続ける人々には、何の学習効果も期待できない。再び、狂乱の時代が始まったとしても、其処から生じるものは、大衆にとって悪影響を及ぼすだけで、利益は一切期待できない。にも拘わらず、こんなことが繰り返されるのは、この活動自体が社会を支える上で、必要不可欠とする見解があるからで、その基本概念を打ち崩すしか、この馬鹿げた騒ぎを止める手立てはない。さて、次なる展開は如何に。欲望の限りなさを実感させられることになるだけか。
経済発展に終点はない、ということなのか、兎に角無限に続く成長・拡大に、過大とも思える期待を抱き、其処から漏れ出た利益に人々が群がる。誰もがより良い生活を望み、誰もが豊かな社会の成立を目指す。ごく当たり前に思える考えとする人も居るだろうが、この考え方は本当に現実的なものか、訝る向きもある。
ここ60年ほどの経済成長を見る限り、安定した右肩上がりの展開がなされ、限界の存在を信じる必要など無いように思えた。それでも、この国に舞い降りた異常な事態は、20年ほど前から、様々な方面に影響を及ぼし、人々の心に癒えぬ傷跡を残した。その一方で、相も変わらぬ成長論が展開され、世界中を繋ぐ仕組みの構築が、その実現に向けての唯一の方策のように見なされ、狂ったかの如くの騒ぎが続いていた。あれほどの下落に見舞われた人々でさえ、次こそはとの希望的観測から、再び悲劇に巻き込まれたのは、結局のところ人間の業というべきもののためか。これらの一連の流れの中で、間違った解釈に基づく「魅力的な」資産増大の仕組みは、一部から全ての責任を負わされる形となっているものの、一方で関係者たちの無反省から、同じ過ちが繰り返される可能性は十分にありそうだ。異常な神経に基づく考え方は、理論と呼ばれる味方をつけて、異常なほどの成長を見せたが、結局は破滅に繋がった。それと同時期に、これとは別の異常な論理が罷り通っていたことに、未だに気づかぬ人が居ることに、不安を覚えるのはほんの一握りだろうか。製造業に携わる人々が、恰も消費者の要求かのように、新製品の開発に追われ、次々に新たな機能を備えた製品を世に出したことは、成長期に見られる現象と受け止められるが、それが停滞期に起きればどうなるか。今回の破滅は、其処にも起きていたように思えるが、そんな話はとんと聞かない。