パンチの独り言

(2009年7月27日〜8月2日)
(環視、珍説、優劣、老若、提案、貸借、解消)



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8月2日(日)−解消

 何処まで無駄を減らせるか。右肩上がりを続けた時代には、考えもつかなかった話が、最近はあらゆる組織で話題に上る。出費を減らす為も一つだが、経済性だけでなく、環境対策にまで話が及び、それはそれで重要と思うものの、その窮屈さに辟易とする人が増える。これで気持ちまで小さくなり、寛容さも無くなるか。
 それにしても無駄とは何だろうか。本当に無駄だとしたら、それまでの状況は何だったのか。そんなことを考えたくもなるくらい、馬鹿げたほどの緊縮策が講じられ、このままでは本来の姿さえ失われるのでは、と思うほどである。成長期には、先行投資などの言葉が踊り、ある程度の外れは致し方なしと片付ける風潮があった。それが首が回らなくなるに従い、確実性ばかりが重視されるようになり、小さな当たりが尊ばれるようになった。大当たりが望めなくなるに連れ、更に狭隘さが増し、減量作戦が繰り出される。はて、何が目的だったのかと思うほどに、減らすことだけに集中し、結局、肝心なものが産み出せない。あらゆる方面で、同じ傾向が現れているのは、まさに、ここに問題があるからと思えるが、皆世論とかいう怪物を恐れて、押し黙るしかない。金銭の流れはどうかと思うが、少なくとも、資源の流れはそれを細めても、殆ど意味を成さない。流れることにこそ意味があり、細めることが必ずしも削減に効果を現さないからだ。これに気づくのも、いつのことかと思うが、おそらく気づいても気づかぬふりを続けるしかないだろう。一方で、世の中には本当の無駄が溢れていて、そちらの方が余程重症に思える。ネット上の無駄は周知の如くだが、これを省くための労力を惜しむ声が大きい。しかし、人間の心理が蠢く無駄だけに、ここは一気呵成に厳罰に処すくらいのことが必要ではないか。無駄な人間とは呼びたくないが、まさにそうとしか見えない人々を消し去るために。

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8月1日(土)−貸借

 景気の回復に、様々な意見が出されている。この手の話の常として、後になってみないと判らないのだが、それでも誰よりも先に的確な分析を報告したいというのだろう。それにしても、両極端の意見が出るところを見ると、見方や立場による違いの方が大きく、データそのものが違いを産むとは言い難いようだ。
 所詮、感覚の問題であり、どのように感じるかは人それぞれ、と言ってしまえばそれだけのこと、同じ数値で違う解釈が出るのは当然だろう。ただ、データは歴然としたものがあり、それが示すものは確かな筈である。例えば、一時の投資対象となっていた不動産は、今や厳しい状況にあり、寝かせることもできない住宅の売買は冷え込んでいると言う。となれば、過剰供給の状態に陥るわけで、売り手は一掃する手段を編み出さねばならない。元々、住む気もなく買う連中がいたからこそ、過剰とも思える状態でも売買が成立したわけだが、これは個人による賃貸物件の管理という仕組みがあってこそである。この手の副業でかなりの利益を稼いだ人々がいるらしく、新たな参入も続いていたようだが、そろそろ限界に達したようだ。それに、この仕組みで一番儲けたのは個人ではなく、売買業者であり、本来なら需要のないところに、資産運用を持ち込むことで、新たな顧客を獲得し、販路を広げてきた。だが、もう限界は限界であり、まただぶつきが目立ち始めれば、一気に市場は冷え込むこととなる。転がすだけで利益を上げた仕組みが、転がらなくなれば何が起きるか、誰にでも見える話だが、その最中には気づきもしない。此処に来て、全体の均衡が崩れただけでなく、将来への不安が積み重なることで、八方塞がりの状況となる。現状の打破を政治に期待できるかは不鮮明なままだが、商売の形式自体に問題がある場合には、仕方のないところではないだろうか。彼らは次の標的を見つけるだけのことだが。

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7月31日(金)−提案

 人気取りのために、魅力の紹介に躍起となる。約束を守ったことのない人々に、公約という言葉は似合わず、その代わりの言葉が出てきたが、これとて化粧を施した何とかのように、真の姿は見えてこない。互いに魅力を訴えるが、相手のものは欠点ばかりを追求する。完璧なものなど無いことに気づかぬ不幸か。
 世間的には無い袖は振れぬとあるが、こんな訴えの中では、そんなことなどどうでもいいらしい。しかし、推進すべきものを並べることが提案であり、実施するためにどうすればいいのかは、この時点では問題にはならない。現実的でないとか、実施不可能だとか、そんな批判が飛び交うが、実際には実行する段になって問題とすべきで、この時点であれこれ悩んでも、何の意味もないだけだ。その意味では、今の状況を作り上げた元凶と見なされる人物は、将来の展望もなしに、言いたい放題言い続けた。結果は明白となったが、その場では批判の矢を放たれても、無視し続けたわけだ。その真の姿を見抜けなかったのは、投票行動をした人々の頭が悪かったからだけで、本人の主張は、こういう場ではごく当然のものなのである。当たり前と思えるものが、そうなっていないのが今の世の中の常だが、今回もそんな動きが目立っている。主義主張を押し通す精神力こそが、実行するための力に繋がるが、最近の人々は、批判に曝されることに不慣れで、安全策ばかりを提案する。思い切ったことの必要性は認識できても、その為に必要となる自らの決断力には気づかないようだ。無謀と思えることを繰り返し、歴史に悪名を残してでも、構わぬという気持ちこそが、こういう場面で必要となるのではないか。綺麗事ばかりを並べることに対する批判も、その多くは的外れなのだから。

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7月30日(木)−老若

 姉妹に見られることで喜ぶ、何とも不思議な感覚だが、一部の女親にある傾向らしい。大人になるかどうかを問題にするのではなく、ただいつまでも若くあることを願う。こんなことは当たり前の願望の一つだが、それが極まると不気味な様相を呈する。他人が何と言おうとも、本人は若作りに励むだけのことだが。
 ある年齢を超すと、急に若返りを願う人が増える。そういう人々に限って、十数年前には、早く大人になりたいと願っていたのだから、何とも身勝手な話である。しかし、こんな所での比較は個人の範疇であり、何処に線が引けるというものではない。それに対して、社会全体が見なす成人という括りは、明確な線を引くことが必要となる。個人差には目もくれず、ただ単に線を引くだけという作業に、疑問を抱かないのは何とも不可思議だが、それが厳然と行われているわけだ。幾つになっても身勝手さばかりが目立つ人は、心が子供のままと言われるが、それは若いという意味ではなく、幼く自己中心的というだけのことだ。そこからすれば、精神的に未熟な人間は世に溢れていて、これを含めて成人と見なさねばならないのは、変だと思う人も多いだろう。しかし、社会の秩序を守るための法律には、そんな個別の事情を汲み入れる余地はない。ここという線を引き、それに従って、人の扱いを決めるだけのことである。そんな制度の変更が取り沙汰されているが、本来、ここで取り上げたように、何かしらの根拠を持って線を引くだけのことに、何やら様々な尾鰭が付き、混乱が増すばかりの状況となっている。責任や義務という類のものが適用されるから、それなりの意識が必要となるが、現状でもそれに見合わぬ人が沢山いる。そこから見れば、今更そんな議論の意味はないと思うが、大仰に構える人が多いのは何故だろう。

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7月29日(水)−優劣

 同じ事柄でも、立場の違いから正反対の意見が出てくる。学歴至上主義は、何の意味も持たないとする人がいる一方で、その為の努力こそが評価の対象とする人がいる。地道な努力を否定するつもりはないが、学歴構築までの努力しか対象としないのは誤りだろうし、社会で役立つのはそれと無関係の知恵ではないか。
 競争社会を忌み嫌う人もいるけれど、同じことを違う人がやる場合、そこに競い合いが起こるのは当然のことだ。それを避けて、皆平等に、等という馬鹿げた考えが持て囃された時代もあったが、その後馬鹿らしさばかりが取り沙汰された。何をやるにしても、そこにある程度の努力が必要だから、学力向上にもそんな反映がある。しかし、通常の学力検査は、平均的なものを測る代物だけに、何の努力も必要としない人がいるのは当然だろう。にも拘わらず、精一杯の努力を評価し、到達度を測ると誤解する人がいるのは、まともな判断ができないことを表している。その程度のことで一喜一憂する人がいるのも驚きだが、それを指標に町の実力を測ろうとする動きに躍起になるのは、驚くよりも呆れるべきことだろう。この手の人々の多くは、自らの関与によるものではなく、結果として利益を得ようとするわけで、そこに蠢く思惑には、吐き気がするほどの謀が横たわっている。その一方で、純粋無垢な人々は、これをまさに教育の成果と捉え、その恩恵に浴そうと走り回る。何やら、騒ぎ立てているだけのことなのだが、それを一大事のように扱う業界が首を突っ込むことで、更に混迷の度合いが増すわけだ。教育が持つ効果を否定するつもりはないが、何でも可能となるかのように扱うことは愚の骨頂だし、まして自分もと思う心には貧しさを感じる。何時の世も、こんな馬鹿げたことが行われるのは、一体全体何故なのだろうか。

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7月28日(火)−珍説

 今起きていることにしか興味がない、という人が増えたらしい。確かに、昔のことを知っていたとしても、何の役にも立たないと言われれば、その通りだろう。役に立てられるかどうかは、本人にかかっているのだから、当人がそうでないと言う以上、どうにもならない。自分のことしか興味がないということだろうか。
 たとえ、今この時のことにしか興味が湧かずとも、自分が今あるのは、過去からの何らかの積み重ねがあるのだから、と説得して、色々なことを教えてやる。まさにそんな状態にあるのが、現在の義務教育制度の中での教室なのかも知れない。しかし、そんなことさえ耳に入らず、ただ内側にだけ目が向く子供たちには、何の影響も及ぼせないに違いない。興味を抱かせるための手段として、面白おかしく紹介する手法を採り入れる人もいるが、それとても道を誤れば、逆効果しか産み出さない。歴史を重視した時代と異なり、今はそんなことに目を向けない時代だけに、逆に嘘八百が横行することになる。興味を呼び起こすためには、過激な設定が必要とばかり、あらゆることに脚色を施し、それを紹介する番組が溢れ始めたのには、こんな時代背景も関係あるのではないだろうか。その一方で、歴史などと言うものは、常に勝者が語るものであり、そこには既に歪んだ情報しか存在しない、という意見があることも事実で、それをできる限り排除したものが、公的な形で流されていると解釈するしかない。だが、現実には、数年前に近隣諸国を巻き込んだ形で、論争が巻き起こったことからも明らかなように、立ち位置の違いから解釈が異なり、結論までもが大きく違ってくることがある。そんなものと見る向きが増えたからか、最近とみに身勝手な解釈が横行する。専門家の論争は当然のことだが、大衆を巻き込む馬鹿騒ぎには、警戒した方が良いだろう。

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7月27日(月)−環視

 嘘も方便と言われるが、それにしても、余りに日常化しているように見える。そろそろ、何が真実かが見えなくなり、真偽の程はどうでもいいという意見さえ聞こえてくる。注目さえ集めればそれで十分との判断も、頻繁に行われすぎており、ここ一番という感覚は薄れた。そんな中で、騙されるのは誰が悪いのか。
 情報の信頼性は、その送り手によるもの、という判断があるが、ネット社会では、送り手を騙る話が余りに多く、これまでの基準は当てはまらない。毎日百通近く届く電子メールも、その大部分は塵と言うべき代物であり、中身は性的なもの、犯罪に及ぶものなど、最低のものが並ぶ。騙る人間は、当然自らの姿を曝しておらず、其処に更なる人間の堕落が現れる。自己満足の世界に浸り、他人を貶めることを何とも思わぬ人々は、この社会に生きる資格があるのだろうか。集団で一人を攻撃することは、様々な事情から憚られるようになったとは言え、こんな人間性ならば、と思う人も多いだろう。単純に罰を与えるなどというのではなく、人前に姿を曝すことこそが、彼らにとって最も忌むべきことだろう。既に、社会的な地位など有りもしない人も多いだろうが、それでも恥をかかせることの重大さは、彼らにこそ意味を持つように思える。ところが、世の中は人の情報に関する守秘義務が訴えられ、たとえ罪人と雖も、これを犯すことができないとされており、こんな措置は実現しそうにもない。百叩きや舌を抜くなどというほど過激な行為は不要だが、様々な形での権利剥奪は必要ではないか。社会の屑とかダニとか呼ばれる人々に、その影響の度合からしたら、当然の措置に思えるがどうだろうか。

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