パンチの独り言

(2009年8月3日〜8月9日)
(政争、模写、温故知新、探訪、平易、旧聞、夏祭り)



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8月9日(日)−夏祭り

 冴えない天気が続き、各地での夏祭りも散々な状況にある。と言っても、現実には一部地域の問題であり、例年通りの所もあるに違いない。ただ、以前なら、そんな情報が流布されることもなく、他所のことなど知ったことではなかった。競う気持ちなどとは無関係に、地元を愛する心持ちはそこから生まれていた。
 いつ頃からか、祭りの復活に注目が集まるようになった。見知らぬ土地に移り住んだ人が増え、日々の暮らしに追われることで、余計なものが排除される。ごく当たり前の流れと思われたが、住み慣れるに従い、変化が生じたということか。現実には、住民の気持ちの変化ではなく、地域を主張するための手段として、祭りに注目が集まっただけのことではないか。だからこそ、そこには競争意識が強く存在し、如何に古くから始められたかとか、他にない奇祭であるとか、今この時の姿とは無関係な売り言葉が並んでいた。元々、地元の人だけの楽しみであり、余所者には無関係なのが、祭りの特徴の一つだが、それがいつの間にか忘れ去られ、人集めの手段として使われた。工業化の遅れた地域では、観光しか産業が無く、それに頼りたい気持ちもあるのだろう。しかし、住民本位の祭礼がいつの間にやら派手な客寄せに使われるとは、始めた頃の人々には想像もつかなかったに違いない。興味本位で集まる人々に、例年行事といった感覚はなく、一時の熱狂はあっても、二度目はあり得ない。そんな観光の目玉に、当事者たちはどんなことを思うのか。人を集めるという目的からは、対象が次々変わったとしても、何の不都合もない。ただ、宣伝に努め、毎年人が集まりさえすれば良いだけのことだ。でも、と思うのは、古いからか、祭りの本当の目的は何だったのだろうか。

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8月8日(土)−旧聞

 熟慮の上に書かれた文章であれば、参考にならないことはない、と思う。たとえ、それが少し古くとも、老人の戯言かも知れぬものでも、それぞれに受け手にそれなりの影響を及ぼす。しかし、これが本人の口から直接出たものならどうか。戯言は戯言では済まされず、何とも重苦しい空気が残る。去るべき時が来たのだろう。
 隠居という仕組みは、ずっと昔にあったと伝え聞くが、それとてどんなものかははっきりしない。しかし、後を任せるという意味では、線を引くために重要な手段の一つだったのだろう。そんな気分が失せてしまった現代では、いつまでも冷水を撒く人がいて、幇間のような人物たちが群がる。活字になったものなら、受け手の気分で何とでも解釈が変わるが、生身の口から出た言葉は、うっかり受けとることも憚られる。人とは不思議な動物で、期待されるとつい調子に乗る。引退するなどと言いつつ、いつまでもご託を並べる人々は、そんな気分に浸っているのではないか。少し古い本を引っ張り出して、好き勝手に読み飛ばしてみると、様々に想像が掻き立てられる。それによって、自らの考えを研ぎ澄ますこともできるが、一方で、訳のわからぬ考えに取り憑かれることもある。何処をどう間違えるのか、他人には想像もつかぬ事だが、そんな調子で、先人の言葉を引きつつ、大いなる誤解を膨らませる人もいる。言葉の遣り取りは、双方向だからこそ意味があり、活字からの発想は一方的で、利己主義に染まりやすい。そんなことを戒めとして持ち、注意深く考えを構築すれば、それなりのものが出来上がるかも知れぬが、余り期待しない方が良いのだろうか。どちらかと言えば、自らの考えを補強する道具として、先人の教訓を使うことになるのだが。

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8月7日(金)−平易

 子供たちが親に聞いて貰いたいが為、一生懸命、その日学校で起こったことを報告する。話の筋立てが悪く、次々に飛躍するから、親もついて行けずに生返事となる。そんな光景はどの家庭でもあったことだろう。その繰り返しから、相手に自分の考えを伝える難しさを知り、努力が報われる日がやってくる。
 そうなればいいのだが、多くの人は依然として、何が何だかさっぱりわからぬ話を続ける。誰にでも分かる話とは、言うは易く行うは難しの典型であり、相手に合わせて言葉を選ばねばならぬから、容易なことではない。その一方で、理解し易くしようと例え話を折り込むと、その途端に嫌がる人もいる。喩えることによって、真の姿が消え失せ、脚色のみが残るからだ。易しくした話はその傾向が強く、理解したと思わせながら、その実、誤魔化されただけということも多い。専門家が関わる内容では、言葉の壁が立ちはだかり、理解の速度を極端に緩める。素人の参入は様々な意図から実現したものなのだろうが、議論の過程でも理解の問題が大きく取り上げられていた。その為の工夫は、まさに分かり易い話を作り上げることであり、その道具として、映像や画像といった媒体の使用が勧められた。一方、専門用語を使わずに、日常的な言葉を使うことも、重要な要素となり、その効果は改めて認められた。これらの様々な工夫から、初めての実施は予想以上の結果となり、今後の期待を膨らませたようだ。しかし、理解し易くする工夫をしたことのある人間なら、すぐに気がつくことだが、情報の中から幾つかのものが抜け落ちる危険は残っている。複雑な事情を簡単化し、分かり易くしたことで背景までもが単純化する。それにより、判断に必要な要素が抜け落ちれば、元も子もないわけだ。一つ済んでホッとしても、問題の山は未だに眼前に聳えている。

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8月6日(木)−探訪

 見知らぬ土地で路地に入ると、何処か別の世界に旅する気がしてくる。それが危険を伴うこともあるが、何とか無事に過ごしてきたようだ。比較的安全と言われるこの国でも、場所によっては異様な雰囲気を持ち、一瞬の躊躇いを感じる。それでもそれが記憶として残るのは、何か別の強い印象があったからだろう。
 狭い路地は面倒なもの、といった感覚が都市計画に携わる人にはあるらしい。区画整理と称して、焦土と化した地域を碁盤の目のような形態に変えたのは、もう半世紀以上昔のことだが、そのやり方も地域によっては適用できなかった。一つにはそれ程の被害を受けなかったということがあるだろうが、もう一つ、そんな手が入るより先に、必要に迫られた人々が棲みついた場所もある。車社会となってからは、更に風当たりが強くなり、通行を妨げるものを排除しようとする力が働く。次々に整理されていく土地では、昔懐かしい風景が失われ、近代的な建物が林立する場合もあるが、そろそろそんな光景も少なくなった。ただ、通行のための整理がなされ、再開発の手が伸びてこない。つまり、昔から築き上げたものが失われるだけで、そこに新たな町が出来上がることはないのだ。そういう姿を目の当たりにして、流石に無理矢理の開発は影を潜め、別の形が導入され始めた。おそらく、路地の存在意義も見直されたのだろうが、こちらはいつその地位を失うかも知れず、社会の都合という実体のないものからの圧力は、消え去ることはないようだ。いずれにしても、余所者にとって、路地の探検は愉快なものであり、何処に出るか判らない道筋を辿ることは、不安を感じるより、解決への過程を楽しむ心を膨らませる。どんな土地にもそんなものがあるはずなのだから、取り立てて何処を愛でると言わず、身の回りの愉しみを増やせば良いだけなのだ。

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8月5日(水)−温故知新

 功と言われればいいが、冷水と言われては困る。人それぞれに、齢を重ねるごとに、自分だけでなく、他の人にも参考になることを身に付ける。そこから、功を成すこととなる事もあれば、時には、的外れとなり、冷たい視線を向けられる。人によると言えばその通りだが、たとえ悪い結果でも、参考となるわけだ。
 しかし、目の前にいる人物について、同じことを考えた場合、どうしても結果次第となってしまう。簡単には、それを参考に、人を選べば済むだけのことで、誰に目を向けるかが肝心ということなのだろう。直接接する人々の場合、当たり外れがあるのは当然であり、それを巧く選別することが大切なのだが、では、人でなく書物となると、どうだろうか。多くの人は、最新刊こそ時宜に適した情報を含み、最も重要なものと見るようだが、現実には種々雑多ものが玉石混淆状態にあるだけに、振り回されることの方が多いようだ。それに比べると、古典と呼ばれるものには、何度も検閲をくぐった経験があり、時代の変遷には左右されない、しっかりとした骨格がある。本来は、これを下地にして、そこから時代に見合うような形のものを作り出すことこそが、重要な過程となる筈だが、多くの場合、古いものには目もくれず、新しいものに飛び付く。最悪の場合、最新刊で紹介された古い情報が、著者の誤解に基づく変更の結果、全く正反対の意味を持たされることがあり、ここまで来るとどうにもならない感じだ。原典に当たれ、という指示は教育現場ではよく聞かれるようだが、それを発する人自身が孫引きに終始し、本来の意味に接していないのは、何とも情けない。自ら読んでみれば、時代に即した形での理解が可能となり、本来の意味を汲み取ることができる。たまには、ちょっと古い書物を開いてはどうだろう。

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8月4日(火)−模写

 言葉を覚え始めた子供の成長を、親は温かく見守っている。口真似を繰り返すことで、言葉を覚えるだけでなく、その使い方も身に付ける。一方で、大人がしばしば用いる、乱暴な言葉を真似すると、即座に叱りつけられる。そんな遣り取りの末、一人前の口を利くようになっても、何か言われることがないのが普通だ。
 模倣は何かを習い覚える上では、最良の手法と言われる。人間だけが持つ複雑な言語能力も、それを使って伝えられてきた。だからというわけではないが、何事に付け、模倣を第一とするのは当然のことだろう。昔から、独自性が無く模倣に基づくとばかり、批判され続けた国民性は、此処に来て、少し様子が変わったようにも見える。一つには、模倣の対象が少なくなり、自ら築き上げる必要が出てきたと思われるが、本来の姿を現したと見る向きもある。つまり、技術的に至らない時には、模倣を第一とするしか無く、それを積み上げてきたものの、それなりの地位を築けば、自分なりの創意工夫が可能となるというわけだ。追いつけ追い越せと唱えてきたものが、いつの間にか、本当に追い越してしまったのだろう。そうなると、次は追いかけられる立場になる。よく見れば、近隣諸国から標的とされ、違法としか思えぬ偽物が押し寄せてくる。しかし、一時代前を眺めれば、同じことをやっていたわけで、今更そんなことを言うのも、という気がしてくる。もし、そこに違いが出てくるとすれば、模倣が模倣のままで終わるかどうかであり、それこそが国民性の違いと呼ばれるものとなるだろう。現時点ではどちらとも言えぬが、暫くすれば徐々に明らかになる情勢で、それを見極めた上で評論しても良さそうに見える。金に物をいわせて、買い漁っていたあの時代のことを思い出す人もいるだろうが、本当は表面でなく本質のところが問題となる。

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8月3日(月)−政争

 株価の動向は、経済の状況を映す鏡と言われる。上がれば、状況が好転している証拠と言われ、下がれば、その逆となるわけだ。簡単なことだが、現実はどうか、そんなに単純ではないと思われる。特に、社会が金銭を必要とする時、高値で売ることが条件となるから、それも上昇の一因として紹介される。
 政局の安定とは無関係に、一時は区切りを付けることを目的に、選挙が度々行われてきた。それは、互いの勢力が拮抗し、微妙な力関係にあったからだが、あの馬鹿げた祭りの後、獲得した勢力を保つ為に、避け続けた結果として、ほぼ満期に近い形での実施となった。選挙とは、将来を決めるための投票行動だが、殆どの判断は、それまでの実績を分析した上で行われる。その為、なるべく良い姿を見せようと、どの団体も売りを拾い集め、その訴えに必死となる。経済状況の悪化の原因には目もくれず、その後の回復に光を当て、それが自らの功績の如く訴えるのも、戦略の一つだろう。しかし、この所の株価の上昇をも、それに採り入れる戦術は、諸刃の剣の様相を呈する。あの祭り騒ぎを演出した政権も、株価の回復を最終的に勝ち取って、悦に入っていたのはついこの間のことだ。しかし、その後の転落を見る限り、猫の目政権の責任だけとは言えず、それこそ、構造改革がもたらした、構造の歪みの結果と見るべきではないか。そんなことからすれば、この時期の回復は、人為的な要素が満ち溢れ、その上に、先立つものの必要からと、別の動きが加わったものと見るのも、妥当なことと思われる。互いのばらまきを批判する演説には、良識の欠片も感じられないが、二大政党を目指すとするなら、選択の幅は極端に狭くなる。大した熱意も感じられぬままに、祭りは夢の跡へと繋がるのだろうが、その後の展開は現実となってしまう。

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