要望とか、ニーズとか呼ばれるものは何なのか。分かったような顔をしている人は沢山いるようだが、その実体を知る人は少ない。本来、多くの人を相手にする場合には、これという絶対的な存在はあり得ず、人それぞれによる違いばかりが目立つ事となる。なのに何故、これほどまでに要望が注目されるのか、不思議だ。
他人の事を考える前に、自分の事を考えてみれば、少し簡単になりそうに思える。自分が何を欲しがっていて、今何を必要としているか、そんな問いかけをすれば、簡単に答えを得る事が出来る。しかし、これを他の人に適用しようとすると、難しい事に気づくのではないだろうか。元々、人それぞれの趣味趣向の違いは、あるのが当然であり、それでこそ多様性が生まれる事を知っている。にも拘らず、ニーズと称して、それを一括りにしようとするわけだから、無理が生じるのも当たり前である。だからといって、何も考えずに、自分の要求を押し付けようとすれば、失敗に繋がるのは当然となるわけだから、そうならないようにとの考えから、こんな論理が生まれたのではないだろうか。そんな存在がない事は承知しているけれど、それを仮定しないと、話が成立しないから、といった具合だ。誤摩化しと言ってしまえばそれまでだが、そうでもないぞ、とでも言いたいのではないだろうか。何か大きな動きが必要となるとき、そこに仮想的な存在を置く事は、その助けになると言う。いつまで経っても、実像が見出せないのならば、それを追い掛けさせる事で、何かしらの目標に向かって進ませる事が可能になるからだ。こんな話をしてしまうと、ただ騙されていただけの事と、思われてしまうかも知れないが、多くの事がこんな展開を謀り、それを基礎として成立するとすれば、人間社会の常識となるわけだ。まあ、そのくらいの考えを持ちながら、眺めてみれば、少し違って見えるだけの事だ。
無意識の内にあれば、何も取り立てて話題にする必要もない。しかし、意識させようとしても、何の反応も出てこないのであれば、厳しく追及する必要が出てくるのだろう。世の中が責任に対して、一つ一つ話題にするようになったのは、社会全体にそれを逃れようとする風潮が高まったからなのかも知れぬ。
では、いつ頃からそんな状態になったのか。ある年齢を超す人からは、ついこの間からという声が聞かれる。ところが、ずっと昔の話が掘り起こされる度に、そこに責任逃れの言葉が並ぶ事に、気づかされる。社会全体がある流れに沿って突き進んでいた時に、個人の責任を問うのは、多少無理があるのだが、それとは別に、その時流されたとは言え、決定を下した人間やそれを知り得た人間がいたのは事実だろう。それを知らなかったと押し通し、そのまま向こう岸に渡ってしまった人々には、どんな思いがあったのだろうか。責任という言葉が重過ぎるからか、それとも、全てを他人事にしてしまおうとの意図があったのか、もう確かめる術もない。何十年も経過してからも、そんな事が話題になるという事は、一度も追及の手が伸びなかったからであり、検証が行われなかったからだろう。それも、確かめる術が失われてから、関係者の証言を集めたとしても、当事者の声が聞かれなくなってからでは、確証は得られない。どうも、この国の人々は、本人の前では個人攻撃とも思える行動に出る事は、避けようとする気持ちがあるようだ。にも拘らず、最近の風潮は何故か、どちらかと言えば、こちらの方が気になるところだ。心の内と、表向きとが、乖離した時、そこには無理が生じ、歪みが積み重なれば、何らかの崩壊が起きる事となる。今の社会の状況は、それに近いのかも知れない。
人の性格は一つだけか。そんな問いかけをしたら、首を捻られるかもしれない。しかし、他人との関わりが強い場面と、自分だけの世界に入り込んでいる場面で、全く違う性格を現す人がいる事は、何度も指摘されている。同じ人間が、全く違った性格を見せるのは、周囲の人間からすると、戸惑いやら驚きやらに繋がる。
いつ頃からか、キレる人間の存在が指摘され、その豹変ぶりが話題となった。しかし、程度の違いはあるだろうが、そういった豹変は既にそれまでも見出されていた。その典型は、四角い箱の中、車の中での変化だろう。普段は大人しいと言われる人々が、車の運転を始めた途端に、攻撃性を露にする事は、良くあると思われる。他人との関わりでは、自分の思い通りにならないのが当然だが、車という機械を相手にすると、思った通りに動かせるから快適である。しかし、その快適さが周囲の車によって破られ、再び、抑圧を感じる事となる。ただ、その感覚は人と人の間で感じるものと違い、間に機械が入り込む事で、全く違った形で表現される事がある。怒りを露にし、箱の中で罵声を発するくらいなら、まだそのまま消滅するわけだが、何故だか、その感情を運転という形で表し、他の車への攻撃に繋げる。興味深いのは、攻撃性だけでなく、防衛性にも同じような事が成立し、他の運転者の行動を、自分への攻撃と受取る心理がある事だ。このような流れが、最近のキレる行動と酷似しているのではないか。間に機械が入らず、直接的な遣り取りになるから、如何にも異常なように見られているが、実際には、その根底となる心理は、以前から散見されていた行動の元となったものであり、そういう見方からは、違和感が出てこない気がするのだが、どうだろう。
非生産的なことばかりが続くと、厭な思いだけが強くなる。自分の周囲のことにも当てはまるが、遠くのことでも同じことだ。今の政治の問題は、まさにその状況にあり、これから何処に向かうのかが分からないだけでなく、今進んでいる道程でさえ、何やら揉め事ばかりで、決まらないままに彷徨っている感じがする。
愈々、決断を迫られている、という感覚を持つ国民は、どの程度の割合いるのだろう。馬鹿騒ぎが続いているのを、冷ややかな目で見つめる、という図式が前面に出され、どうにも盛り上がらぬままに、責任を預ける人々を選ばねばならない。となれば、参加しない人が増えるのは当たり前で、これだけ長期間議論を重ねたとしても、何も変わらないとなれば、単純に国の行く末を左右することだけでなく、国を預かる人々への、大衆の期待の薄さこそが、重大な問題とすべきことに思える。それにしても、この盛り上がらないひと月を、どう過ごすべきか、あの人々は思うことがあるのだろうか。自分たちが姿を見せた所での盛り上がりを、真の姿と見誤り、うっかり、自己満足に陥るようであれば、この先の道筋は、大きく曲がりくねったものになってしまう。少し冷静になれば、そんな作り出された舞台は、幻影に過ぎず、自分たちが見据えなければならないのは、もっと違った姿であることは、簡単に分かる筈なのだが、いつものことながら、的外れな分析ばかりが広げられる。全く、一体全体、この星の政治はどうなってしまったのか。本当の目的を見失い、何を論点とすべきかさえ、見えなくなった人々に、政を行う資格があるのかどうか、一番難しい問題の筈だが、どうなっているのやら。まあ、そんな状況にあるからこそ、これほどまでに無関心な態度が取られてしまうのだろう。だとしたら、さて、何をすべきなのか、相手の批判をするよりも、そちらが大切なのではないだろうか。
後からなら、何とでも言える。そう評せられることは数多くあるが、本当にそれだけかどうかは、別の話だろう。後で気づいたことを、次の機会に活かせれば、それはそれで意味のあることだ。その一方で、後からしか言えない類のものもあり、それとこれとを混同することには、特に注意を払うべきだ。
分析的にしか話のできないものは、いつまで待っても、予想という形が出てこない。繰り返すと言われるのに、微妙に形を変えるから、以前と同じになることがないからだ。それでも、無限に繰り返せばどうにかなるもの、と期待を持って励む人もいるが、無限とは所詮届かぬ夢の如くのものだろう。馬鹿げた期待など打ち棄てて、別のことに励んだ方が遙かに良い。一方、経験が活かされることも数多あり、そちらについては継承することの大切さを、もっと認識すべきと思える。災害の可能性が高まった時に、避難の呼びかけが行われるが、そこに命令という言葉は見当たらない。人それぞれの責任において、という考えからかも知れぬが、不思議に思う人もいるだろう。それでも、勧告やら指示の下、指定の場所に集まる人の数は、以前より増えたように思える。ただ、これも別の難しさがあるようで、ある時は指定場所が被害にあったし、この間は、そこまでの移動で悲劇が起きた。こんな事がある度に、様々な検討が行われるが、後者の場合、指示を出した側の責任は何処まであるのだろう。避難経路の危険性を考慮すべきとの声は、当然のように起きるけれど、各人の注意力や警戒心は考慮に入れられないのか。道なのか水路なのかの区別が付かぬ状況で、動くこと自体が危険とするのも一つの選択だろうし、地面の存在を確かめる手立てを講じるのも有り得る。ただ指示通りに動くことに慣らされたとしたら、その方が遙かに危険なのではないか。
昔は、病気と言われた途端に憤慨する人が多かった。それが、そんなことを言うこと自体が病気の証拠であるとの指摘が出てきて、人を黙らせる最適の手法が伝授され、大人しく医者の指示を聞くように強いられた。その後は、今と同じ状況、つまり、病気であることを喜ばしく思う人が増えてきたのではないか。
身体の異状を感じた時、それが一過性のものか、はたまた重篤なものか、という判断はすぐには付かない。たとえ、専門医と雖も、安易な判断は行うべきでないとされる。にも拘わらず、専門でもない人間が、安易に病名を口にしたり、更には、治療と称して薬の処方を始める。何とも恐ろしい時代と思うが、それを安心と結びつける人もいるようだ。この何とも言い難いねじ曲がった社会では、例えば正常な心理反応と思えることも、重症の一歩手前と解釈される。自殺は本人だけの問題でなく、特に後々に周囲の人間の心に大きな影響を及ぼす。気づかなかったとか、気づいていたのに止められなかったとか、そんな所から自責の念に囚われるのだが、これはごく当たり前の反応ではないか。直接的でないにせよ、何らかの責任を感じるのは、当然のことであり、それが起きない方がおかしい。起きていないとしたら、それは他人のせいにすることに繋がり、そちらの方が異常な事態と言えないだろうか。周囲の人間の衝撃は、計り知れない所もあるけれど、それが自分に向かうことは、ごく自然に思える。そこに、自殺を思い留まる力があるとするのは、的外れな考えだろうか。この辺りの心情の変化が、様々な形で生きようとする力に結びつき、馬鹿げた考えを拭い去ることになるのは、何となくありそうに思えることだ。それがいつの間にか、異常と言うより、病に繋がることと解釈され、手当ての必要を論じるのは、例の如くの病気捻出術に思える。
新製品が出る度に、すぐに飛び付く人がいる。年齢には関係なく、興味がそちらに向かうからだろうか。新たな機能が加われば、それを使いこなそうと努力する。そんな姿を垣間見ると、強制的ならできないことでも、興味さえあれば可能になることが解る。人間の能力とは、何とも不思議なものなのかも知れない。
ある年代以上の人々にとって、新製品は鬼門の一つに思える。技術革新は多くの場合に歓迎すべきものだが、複雑な動作となると、越えねばならぬ壁が立ちはだかる。今目の前にしているパソコンも、原型が出てから30年以上経過しているのだろうが、ごく初期の時代に使用を迫られた世代には、かなりの負担と感じられたようだ。その後遺症でもあるまいが、未だに使いこなせず、部下に指示を出すだけという人も少なくない。初期段階での感覚がそのまま膨らむばかりで、続々と現れる新機能に、壁は更に高く、更に強固に変貌した。興味さえ抱けば、為せば成るとばかりに、道が開けたのだろうが、その機会を失い、若い世代の適応性を目の当たりにして、更に遠ざかることとなる。そんなことがあるだけで、折角の好機を逃すこととなる。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、此処に来て、更なる疎外感が漂うこととなり、今更という気持ちとは裏腹に、決断を迫られることとなる。それにしても、機械とは何故これ程に扱いにくいものか。自らの能力を映す鏡と言えば、それまでのことだが、もう少し気を利かせて欲しいと思う人も多い。だが、少し考えれば解るが、人間でも専門家になればなるほど、気が利かないものである。本当の専門家はそうでないという意見は、まさにそのまま、機械にも当てはまりそうな気がする。未だに成熟し切れていないからこそ、新しい機能が加わるのだから。