パンチの独り言

(2009年8月17日〜8月23日)
(褒美、解析、番人、お節介、氷河期、極み、削除)



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8月23日(日)−削除

 笑いは健康の為に良い、とのことで、文化的な活動の中には、その手のものが含まれる。抑圧の対極にあるものなのかも知れないが、軋轢が増すに従い、それを欲する人が増えるようだ。それにしても、最近の笑いには極端なものを感じずにはいられない。何故、自らの恥をさらしてまで、笑いを取らねばならぬのか。
 伝統的な芸能の一つに落語があるが、ここでは登場人物の可笑しさに笑いが集まる。それを演じる人間には、紹介するという役割があるだけで、本人もそうでなければならないわけではない。こんな当たり前のことが、漫才になると様子が変わってくる。自らの奇行を並べ立てる者がいるかと思えば、家族の恥をさらすのを当然と見なす。一体全体、何処がどう変わってしまったのか。幇間が、それに近い役割を持っていたとは言え、何処かに境界線を設けていただろうに、このところの恥曝しは留まる所を知らない。そんな人々を笑いの種にして暮らしてきた人は、自らをそこに追い込むことにさえ、抵抗を覚えないのではないだろうか。内容の杜撰さだけでなく、その姿勢に違和感を覚える書き込みが掲示板に書かれているが、少しの間曝した後に削除しようと思っている。理由の一つが、本人の恥知らずにもあるのだが、もっと大きいのはその要求にある。ここには書かれていないが、当人の書いたものには驚くべき文章がならび、それは公序良俗に反するものと判断すべきものと思われる。一般大衆が、世間に恥をさらす機会を得ることは、以前は稀だったのに、こんな便利な仕組みが構築され、あっという間に、奇っ怪な行動を取る人間が目立つようになった。社会の荒廃と見るべきかどうかは、まだはっきりしないものの、この変化を歓迎する人はいるまい。所詮、消え去る運命にある人々には違いないのだろうが。

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8月22日(土)−極み

 競合する勢力が拮抗する状態にあれば、極端な方に進むことは無いと言われる。とすれば、現状は如何にも歪んだ状況にあり、改善の必要があるというわけだ。原因は明確だろうが、そんなことに今更言及しても何も変わらない。それより、この不均衡状態を脱する手立ての必要性を、もっと真剣に議論すべきだろう。
 これまでの経緯から想像するに、歪みが極度に達した時、その揺れ戻しも必ず起きると考えるべきだ。そうなれば、別の情勢が生まれるとはいえ、そこにある状態は白黒が逆転したとしても、同じような不均衡が継続する。とすれば、それ自体を論じることは現実的ではなく、そんな不安定を何かしらの安定状態に向ける力を考えるべきではないか。これ程極端に勢力図が歪む事はなかったが、実際には一党独裁のように言われた時代もあった。当時、今ほど疲弊した状況にあったかといえば、否定する人の方が多いだろう。これは確かに歪みの度合が違うから、という解釈も成り立つのだが、ただそれだけとは言えないように思える。たとえ、一つの勢力が全てを決めるとしても、当時はその中での議論が存在した。現状の最大の問題点は、ここに至った道筋にあり、その際の単色化が全ての根源と言うべきなのだろう。議論の多様性を殺し、一元化することで主張を明確にすることは、元々、議会民主主義と呼ばれる制度の下では、まともな運営を否定することに繋がる。そんなことを考える人間は、狂気の沙汰と忌み嫌われるのが、これまでの社会通念だったが、経済問題などで疲弊しきった人間には、そんなことも判断が付かなかったらしい。結果として、この状況を招いたのは一般大衆であり、皆がそれぞれの責任を痛感した上で、次の判断を下す必要がある。しかし、現状はどうだろう。また別の極端に走るのみでは、反省の文字は浮かんでこない。

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8月21日(金)−氷河期

 就職難を嘆く声が、恨み節に変わる。時代の流れに逆らうことは難しく、如何に努力しても実現できない、という状態に陥ると、人々は自分以外の所に原因を求めるようだ。実際には、大した努力もせずに、施しを待つ人々がそんな傾向にあるのだが、社会問題を扱う連中からすれば、結果のみが重要となるわけだ。
 安定した時代でも、苦もなく権利を獲得する人間がいる一方で、何が悪いのか明らかにできぬまま、散々苦労する人間がいる。その違いは、見る人が見れば一目瞭然であるのに、理解できぬ人には全く見えてこない。そこに人それぞれの才能や能力の違いが現れているのだが、社会全体としてみる時には、個人差を持ち出すことは避けねばならぬようだ。そんな状況下で、不況に陥った社会では、今船出しようとする人間にとって、碇を上げることもできない状態にある。そこで、何やら不平不満を漏らし、慌てふためくだけでなく、思い付く限りの努力をする。その一方で、社会も優しくなったもので、時間による解決でなく、手を差し延べる努力をするわけだが、現実には、時間でしか解決できないこともあるのではないか。あの時、あれほど努力をしたのに報われなかったのが、ほんの数年経過した途端に、目の前の霧が晴れることはこれまでもあった。少し待てばいい、という考え方は、今まで至れり尽くせりの扱いを受けた人間には、受け容れがたいものかも知れないが、それこそが肝心なことであり、適切な対応なのではないか。先送りという言葉は、様々な場面で使われるのに対し、その印象は頗る悪い。しかし、選択の機会が得られない時に、一時的な延期を決断することは、重要な判断の一つに違いない。ただ漫然と過ごすのは全くの無駄であり、ここでは少なくとも何らかの組織に属する必要がある。ただ、既に明らかなように、非正規採用は逆効果であり、待機状態も無駄なのだ。

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8月20日(木)−お節介

 島国根性とは、この国の人々が自らとその仲間を卑下する時に用いる表現だ。井の中の蛙とか、内弁慶も、似たような意味合いを込めたものだろう。小さな世界に籠もることが諸悪の根源のように思われ始めたのはいつ頃かはっきりしないが、小さな世界しか知らなかった時代には、何も悪い事は無かっただろう。
 外向きの力が働き、内側を顧みる気持ちが薄れ始め、徐々にその勢いが増すと、身の回りへの配慮に欠ける行動が目立つようになる。都会での隣近所との隔絶はその典型と見なせるが、現実には都会と田舎での心持ちに違いがある筈もなく、単純に人の心の変化に過ぎないと見るべきだろう。そんな所から、他人への気配りが無くなると共に、他人からの介入も激減していった。他人の目を気にせずに済むことは、生きる為に必要不可欠と思う人もいるようだが、最近の風潮からは正反対の見方が出てくる。人が窮地に追い込まれた時、その原因が当人にあっても、困っている人間を傷つけてはならないとの配慮が働く。しかし、原因が明らかであるにも拘わらず、それを指摘しないことは将来的には良い方向に向かわない。以前ならば、窮地に陥る前に、周囲との関係から様々な介入がなされ、傷口が広がることを未然に防いでいた。ところが、近所付き合いが消滅してしまい、そんな関係が消え去ることで、防止弁のような機能が失われたようだ。事が起きてから急に指摘する人や、倒れた人間を足蹴にするような行為に、快感を覚える人が登場するに至り、社会の歪みはかつて無いほどの強まりを見せる。家族の問題も然り、職業の問題も然り、如何にも違う所に原因を求めようとする力が働いているが、現実には当事者の中にこそ問題があり、それに気づきながら看過する社会が病んでいると言うべきなのではないか。

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8月19日(水)−番人

 法律で取り締まられるのは、真っ平御免と思う人もいる。しかし、国家として成立させるためには、法律はその基礎を成すものと考えられるし、元々、社会の常識を成文化したものだから、構成員として遵守は当然のことと思える。ただ、最近の風潮は、自らの都合に照らして、勝手な解釈が成立するようだ。
 人々の生活を守る為にあるはずのものが、懲罰の為のように受けとられ、人情との関わりにまで及ぶと、行き過ぎを感じざるを得ない。そんな例が巷に溢れ、人それぞれの勝手な解釈が罷り通るとなると、何が自分たちの生活を守ってくれるのか、不安になる人もいるだろう。まして、法の番人たる人々が、どうにも不可解な行動や言動を繰り返すとなると、不安は募るばかりとなる。と言っても、最近では番人とは誰を指すのかさえ明確でなく、誰も責任を取らないのだから、どうにもならないのも無理はない。法の下の平等と謳われた平等も、法があってこそのものであり、それを無視したり、曲解することで成立させるのでは、無意味なものと言わざるを得ない。罪を犯すことで権利が剥奪される時、それは法律に基づく手続きを経て行われるが、今一部で話題になっている権利回復の話は、その辺りの事情を考えると、如何に目茶苦茶なものかがわかってくる。どちらの手続きも、事実が確定するまでは完了せず、それによって個人の権利を守る仕組みの筈だが、このところの動きを見ると、人権という切り札を突きつけながら、何とも不条理な意見を押し通そうとする雰囲気が感じられる。世論を味方につけ、人の権利を前面に出せば、道理をも曲げることができるとしたら、法律の存在は灰燼に帰す。番人たる人間たちが、そんなことの先棒を担ぐとなってはおしまいだ。

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8月18日(火)−解析

 数字に弱い人ほど、数字に騙されるようだ。自分が苦手なものなら、近寄らないようにすれば、安心できるだろうに、不安がつきまとうからか、つい首を突っ込みたくなるのだろう。数字を操り、人々を煽動しようとする人間から見れば、こういった人ほど扱いやすいものはない。いつもの事ながら、といった感じだ。
 今回の数字は、税金を一生の間にどれだけ納めるか、といったものである。経済成長率という言葉があるくらいだから、時代ごとに納める金額が変化するのは当然だが、それがどう変わるのかということを示そうと、何処かのお役所が纏めたという数字が紹介された。大方の予想通り、より若い世代ほど多くの額を納めることとなる。ただ、それが成長率に見合うものかどうかが問題であるとの解説があった。確かにその通りなのだが、その後に続いた、この格差をどう見るかといった分析では、相も変わらずの出生率の問題が取り沙汰され、それが数値にどんな影響を与えるのかを論じずに、何の意味があるのかと思わされた。いやはやこんな分析が大手を振って歩き回るのでは、何とも情けない限りである。更に、ここで紹介された数字自体も、どれ程の意味を持つのか、もっときちんとした分析を示すべきと思う。例えば、今回のみの数値を示し、それが世代間の格差を如実に示すものと、強調する姿勢には、本来の解析的なものは全く感じられない。何故なら、現状に至った過程を考えるためには、成長期を含めて、これまでこれらと同じような数値がどのような変遷を辿ったかを、比較できるように示すことが重要だからだ。もし、元々の調査にそれが示されていたとしたら、この話を紹介した人間の責任は重大で、そんな目しか持たない人間が情報を操作する現状を憂うべきだろう。

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8月17日(月)−褒美

 そこにあるのが当たり前と思っていたものが、ふっと消えてしまった時、人はどんな思いを描くのだろう。大切な存在の話と思われるかも知れないが、ここでの話題はそちらではない。ごく普通の存在なのに、何かの拍子に使えなくなると、急に困ったことが起きる、そんな存在のことを話題にしているのだ。
 以前から、色々と問題が起きると思われた時期に、当然のことながら、予期せぬ天変地異が起き、それによって最も重要とされたものが破壊された。そうでなくとも、節約を第一とする人々が殺到し、また混乱を来すのではと予想されていたから、これではもう駄目だという声まで聞かれた。ところが、結果としては、ほとんど混乱もないまま、問題とされた日々が過ぎた。工事関係者の努力は賞賛されるべきだろうが、この国の人々は、そういうことには思いが及ばぬものらしい。おそらく、このまま、当然のことが当然として処理されたという具合に、時が流れるだけのことだろう。別に、ここで賞賛の声を高めろと言うわけではないが、それにしても、余りに冷たい対応ではないだろうか。特に気になるのは、こういう場面で、対応の巧拙を問題にし、悪かった面のみに注目する批判や、壊れたこと自体の問題を重視する傾向が、これから再び高まるのではないか、ということである。そんな国民性なのだから、と片付けることは簡単だが、これも何度も繰り返されると、どうかと思えてくる。特に、そんな性格の国民の多くが、自らのことに関しては、正反対の対応を望むという、何とも身勝手な思いを持つことは、明らかな矛盾であり、そこはそこできちんと考えるべきなのだと思う。こういう機会は、その為には絶好のものの筈なのだが、今回もやはり、だろうか。

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