パンチの独り言

(2009年8月24日〜8月30日)
(謝罪、反抗、筋道、蜘蛛の糸、努力、習熟、偶然)



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8月30日(日)−偶然

 誰もが千載一遇の機会を捉えたいと思うだろう。その為には、機会均等が第一と思う人もいるが、それでは偶々飛んできたという感覚とは大きくずれるのではないか。その時、その瞬間に、その場に居ることが第一となれば、そこに均等などという話は出るはずもなく、ただ単に運に左右されるようなものとなる。
 その一方で、運も実力の内と言われ、機会を引き寄せる力の強弱を問題とする考えもある。傍目には、均等であるはずの機会が、何らかの外力により歪み、ある個人の元に降り注ぐ。その途端に、均等という考えは破られ、不平等の声が起こるわけだ。機会を逃した人間が、そんな考えに取り憑かれるのを、傍からあれこれと言っても仕方ない。しかし、当人にとっては折角のものが手から擦り抜け、他人の手に落ちたとなれば、良い気分になる筈もない。つい、その原因を他に求めたくなり、自分の扱いの不公平を恨むことになる。この顛末を、反対から眺めたらどうだろう。つまり、機会を与える側から見て、誰がその任に当たるのが適切であり、成功の可能性が大と映るのか、そんな見方をすると、そこには当然の帰結といった雰囲気が漂う。運に左右されることもなく、気の迷いなど到底存在しない。ただ単に、冷静なる分析の結果として、選択が為されるだけのことなのだ。更に言えば、そんな段階で機会均等の考えがあるはずもなく、候補者の力量のみが量られるだけのことだ。ところが、選ばれる立場にある人々にとって、他との差は殆ど無く、そこには同程度の確率があるとなる。この違いが埋まることもないし、埋めるべきかどうかも怪しいものだが、こんな社会背景の中から生まれた機会均等の考えに、どれ程の妥当性があるものか、大体察しが付きそうなものだ。

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8月29日(土)−習熟

 右肩上がりの時代には、底上げの効果もあり、格差を大きく取り上げる事は少なかった。それが、そろそろ天井に近づいた頃から、上昇の勢いに差が生まれ、他との違いを実感する人が増えた。その後、風船がはじけた途端に、一気に格差問題が噴出し、弱者に対する問答無用の救済が、最優先に扱われ始めた。
 困っている人を助けるのは当たり前、とはよく言われる割に、あまり実行されていないことのようだ。そんな中で、弱者救済は声を大にして訴えられ、かなり大きな影響を及ぼし続けている。ただ、現実には声の大きさに比べて、大した効果が得られず、達成感が得られていないのも事実のようだ。人々に違いがあるのは当然で、それが生まれる背景も様々と受け取る向きもあるが、それを容認してはいけないとの指摘の方が、大勢を占めているように見える。平等という言葉が、その基盤にあるものと思う人が多いが、個人差を無視する平等化は、何か重要なものが抜け落ちているように思える。こんな事を考えながら、子供たちの習熟度の調査結果の話を聞くと、その分析に認識の誤りが見えてくる気がした。最近の傾向として、教育を受ける権利の平等化が重要な課題の一つとされているようだが、そこに大いなる誤解に基づく論理が展開されている。一つは、高校以降の教育の権利の問題であり、社会に出た後の処遇の問題から、平等であるべきとの議論がある。本来ならば、将来へ向けての投資と個人が考えるべき事を、社会が全体として負担するのは、間違いと思えるがどうだろう。もう一つは、これとの関連もあるが、義務教育の到達度の問題である。今回の調査でも取り沙汰されたが、学校のみの教育では十分な理解が得られず、そこに更なる投資が必要との指摘には、格差を意識した部分があるが、事実は学校が不十分なものしか供給できていないだけだろう。それが前者に及ぼす影響も大きく、格差より重視すべきなのではないか。

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8月28日(金)−努力

 褒めて子育てをしよう、とする本が沢山出回っている。誰もが、叱られるより、褒められた方が気持ちが良いに違いないのだろうが、間違ったことをして褒められるのは、おかしな感覚だ。それによって自覚を促すと言われるが、自分しか見えない子供たちに、それを期待する方がおかしな気がする。どうなっているのやら。
 どちらにしても、そんな本を開く機会は持たないが、理屈を捏ねくり回すのが、大切だとする考えが何処からか入ってきた。そんな中で、この頃の風潮で気になるのは、努力を評価しようとする動きだ。上に立つ人間がそう考えるのは勝手な話だが、下にいる人間がそれを望むのは、明らかな間違いだろう。ずっと前、隣の国の企業に招かれた人が経験したことを書いた本を読んだが、そこには努力を認めるのが当然とする社員と、成果の有無こそが評価の対象とする本人との、認識の違いが著されていた。彼の年代までは、この国でもそれが当然のことだったのだろうが、最近では、隣の国と同じような考え方が、主流となってきたようで、成果より、かけた時間や気持ちといった本人の努力を重視する人が増えている。下らないと思うのは、努力が主観的な指標に過ぎず、自らの感覚のみで申告されるものということで、そこに質量の問題は出てこない。時間は量ではないか、と思う人もいるだろうが、そこに伴われるはずの質が評価できなければ、量としての意味合いは殆ど無くなる。何故、こんなに馬鹿げた考え方が蔓延したのかを探ると、その原因の多くが学校教育にあることが分かる。教師の劣悪化の問題は、この辺りにも表出しており、質の評価をせずに、全体の評価を下す為に、子供の努力を第一に取り上げる。頑張ったら、それで十分なのは気持ちのことだけであり、成果が上がらねば何にもならない筈が、いつの間にやら、それが当然となっているのだ。

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8月27日(木)−蜘蛛の糸

 人間は弱いもの、そんなに強くは振る舞えない、という声をよく聞く。しかし、と思う所もあるが、そう言っている人に何を言っても聞こえない。弱者という言葉に酔い、保護されるべきと思い込んだ人は、実は最強の存在となりうる。社会全体がそんな方に動いている時、人を救う強さを持つことは難しいようだ。
 それにしても、と思うことは度々あり、この間も、万引きに手を出した若者の話に、呆れるしかなかった。罪を犯した自分に、誰も厳しくしてくれなかったから、再び手を出したと話す人間に、何を言っても始まらないのかも知れない。他人のせいにすることは余りに容易であり、自分を特別な存在にすることができる。それ以外に、自分に光を当てる手立てを持たず、ただ単に、日陰を歩き続けることしかできない人間は、ついそういった欲望に誘われてしまう、とでも言いたいのだろうか。流石に、そこまでの冷静な分析はなく、ただ単に身勝手な解釈を並べるだけのことだが、それにしても、こういった風潮は留まる所を知らない。続々と登場する自己中心的な人々に、始めのうちは呆れたとしても、その扱いの不公平さに腹を立てていたものが、いつの間にか、そちらの水の甘さに惹かれる、というのが図式かも知れない。そんな調子で増加を続ける人々に、手を焼いた周囲の人々も、最終的には無視を決め込むことで対応する。積極的な保護が得られなくなり、厭世的な気分が高まれば、次に起きることはある程度想像できる。ある意味、自分の思い通りになったものが、そうならなくなった時に、一種の爆発が起こるわけだが、その強さも人それぞれだろう。ただ、ここで肝心なのは、そういう弱い人間になった人の問題だけでなく、そうし向けた社会の責任を考えるべきということだ。と言っても、本人の責任は一番重いのだけれども。

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8月26日(水)−筋道

 耳目を集めるには、派手な振る舞いが必要とばかり、非常識なことを繰り返す人々がいる。確かに注目は集まるのだろうが、結果的には何も起きないに等しい。そればかりか、最近話題になる中には、単に負の遺産を増やすのみとの批判もある。派手な掛け声に振り回され、身も心もボロボロになってしまう人もいる。
 安定した時代が長く続いたせいか、急激な変化の意味を理解できない人が増えた。それが少数派であれば、ただ煩いだけで大したことはないわけだが、何かのきっかけで中心に据えられると、この時ばかりと縦横無尽に動き回り、結果として全ての人間が被害を受けることとなる。何事にもこんな図式が当てはまるようで、上の方の世界にしか通じないとか、自分には無縁の話と見る向きは、明らかな見誤りをしている。本質的なことは、ぶれが非常に大きくなる時代こそ、自分の周りからそれを未然に防ぐ手立てを講じる必要があり、ごく有り触れた常識的な手立てで、筋を通すことが不可欠となる。他の連中が派手な提案をするから、自らもといった考え方は、基盤となる思考が全くない事から生じるものであり、今一度、本質とはと考え直すことの重要性を認識すべきだろう。今注目されている政治の世界に当てはまる話と受けとる人もいるだろうが、これは各人がそのまま該当する問題であり、社会全体を覆っている熟慮に欠けた行動を、厳しく戒めるものである。様々なことに対して、他人事として振る舞うことが許されるのは、互いに標的にならぬようにする心理から起こることであり、明らかな間違いであることに気づかねばならぬ。個人主義を尊重することがその原因のように分析する人もいるが、これを個人主義の表れとする考え方こそが、身勝手なものなのではないか。

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8月25日(火)−反抗

 他人の分析を聞いて安心する、という人を信用する気にならない。その分析が何に基づくものか、どんな過程を経て導き出されたのか、その類のことに考えを巡らさずに、鵜呑みにするような人が、正しい判断を下せるとは思えないからだ。それにしても、分析屋が溢れる世界では、こんな人間が増えるばかりのようだ。
 奇妙奇天烈な事件が起こる度に、知ったかぶりの自称専門家が登場する。どの程度のものかは、それまでの分析を並べて、検証を施せばすぐに明らかになるが、登場させている連中にその考えはないようだ。便利な道具の一つとして、時間繋ぎを含めて使おうとする側からは、余計な詮索は無用と言うのだろう。野放しにされた専門家たちは、まさに思いつくままに根拠のない評論を繰り返す。批判に曝されない限り、こういう連中が食い扶持を減らすことはないが、一方的な情報流通の社会では、その心配も無用のようだ。それ程腐りきった世の中で、自らの身を護る手段として重視すべきは、批判の心掛けではないだろうか。人それぞれに、そんな気を持つことが当然だった時代と異なり、最近は従順さが優先される。他人の意見を受け容れ、予断を持ち込まぬ事が、賢く生きる為の術と思われているからだ。確かに、世の中が正しい方に進んでいれば、何の心配も必要ないわけだが、戦前の混乱と酷似すると言われる時代には、羅針盤を失った船の如くの迷走が、あらゆる所に見られるから、他人任せの舵取りは危険極まりない。学校という組織が、同調を最優先させる事となった為に、それと相反することを教えられるのは、家族という存在しかないようだ。今更、家庭教育の重要性を強調しても、何の効果も得られないだろうが、たとえそうだとしても、再度見直す機会を持つことは、重要なのだと思う。

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8月24日(月)−謝罪

 冷静な分析を聴くと、まるで他人事のようで気味が悪いと思う人もいる。受け取り方は人それぞれだが、的確な対応を望めば、沈着冷静さは当然必要となる。それさえも気味悪がる人の多くは、結果的に間違いを起こすわけで、必要不可欠な要素を見出せない人には、重要な役割を果たすことは難しい。
 しかし、冷静が重要と言っても、自らの過誤が原因で起きた事件について、まるで他人事のような分析を出されたら、そこには更なる間違いが積み重なるのではないか。人を信じることの大切さは、人間が生きている中で何度も意識することである。しかし、騙そうと近づく人にまで、同じ扱いをすることは、人の本心を見抜く力の無さを示すだけとなる。特に、職業上の必要性から、このことが最重要と見なされる人々がいて、その社会的な責務の大きさからも、盲信を戒める声が大きい。常に疑いを持ち、不明確なことの確認を怠ってはいけない、とする考え方は、昔から伝えられてきた。そこには社会的責任と相俟って、職業人としての誇りを見失わないようにとの、一種の願いが込められていたのだろう。ところが、いつ頃からか一般大衆と同様に、肝心の誇りを捨て去るような行為が目立ち始め、倫理や道徳が微塵も感じられない行動が続出した。こうなると、社会全体を見張る役割も果たせず、ただ単に自らの欲望の赴くままに這い回る、獣のような連中が増えることとなる。強欲的な人々の台頭は、一時の勢いを無くしたとは言え、倫理観の欠如は依然として残ったままであり、手柄を焦る人々の無軌道な行動は続く。そんな中で、特ダネと呼ばれるものに飢えた連中が起こした事件は、会社を巻き込むまで発展し、原因究明を求められるに至った。その解析結果が、まさに他人事のよう、なのである。こんな体質がすぐに改められるはずもなく、また同じことが繰り返される。そんな業界に、何を期待するのだろうか。

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