パンチの独り言

(2009年8月31日〜9月6日)
(転換、僻み、曙光、凋落、激論、準備、疑惑)



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9月6日(日)−疑惑

 最近、色々な所で聞く話に、疑うことの大切さがある。面白いのは、こういう話をする人は、相手に疑って欲しいと思っているかどうかで、それによって、本当の信頼が得られるかどうかが分かる。自分の話だけは信じろ、と思っている人の話は、結局、何処かで矛盾を生じることが多く、最後は嘘になる。
 特に、論理構築を重視する人にとって、疑いを持たれることは、大して気にならない筈なのに、ある時点から、苛々が募り始める傾向がある。論理展開が完璧であれば、隙は一つもない訳だが、殆どの論理には、何らかの欠陥がある。その為、完全な信用を得るには、盲信して貰う以外に方法がないことになる。いつの間にか、そちらの方に話を持ち込み、信じることが前提のように話が流れる。こうなってしまえば、何があっても恐ろしいことはない。まあ、信者を増やすだけのことなら、これで十分だろう。始めに疑いを持たせ、次に疑いのないことを気づかせ、更に盲信へと繋がる展開は、この手の人々の得意とする所だ。では、そんな輩に引っかからない方法は、ごく簡単なことだが、二段目の疑いがない、という点に注意することなのだ。造作もないこと、と思っている人も多いだろうが、意外な落とし穴があるらしい。そうでなければ、これほど多くの人々が、疑いを持つ段階から、闇雲に信じる段階へと、変貌することはあり得ない。一つは集団心理を利用すること、他人の行動に追従する傾向が高い人には、この方法が有効と言われる。まあ、自分はそんなことはないから安心、と思う人もいるだろう。そんな場合は、二段目の所で繰り返すことが、重要となる。肝心な部分はよく判らないが、繰り返されることに弱い人も多い。慣れてしまうことが、逆の効果を産むと言われるが、どんなものだろうか。いずれにしても、疑うことが大切としたら、その基準を設け、実行するだけのことなので、少しの注意を払えば、難しくない筈なのだが。

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9月5日(土)−準備

 ちょっとした続きのようなものかもしれないが、議論下手と思える点は、話し合いの最中だけに見られるものではない。例えば、そこでの戦術の未熟さが、後々の展開にまで影響を及ぼすことも多い。その場限りの話でなく、そこから更なる発展があり得る場合、それを見通した形での思考が必要となる筈なのだ。
 通常、議決を経たものについて再度検討に入ることは無い。ところが、政権交代という一大事の後では、それさえも可能となるらしい。不均衡な中で、強行された議決には、明らかな誤りがあるとされれば、確かにそうかもしれないのだ。しかし、一度決まったことを差し戻そうとすると、様々な所に歪みを生じる。だから、そんなことをするなと言うのではなく、それをするにしても、もっと迅速な対応が可能だろうと言うだけのことだ。議論を重ねた上での議決を経て、始まった話を凍結させるのは、思い切った判断には違いないが、それなら、以前行った議論の中で、十分にその問題点を指摘した筈ではないか。ならば、大した時間を費やすことも無く、不要なものを選び出し、それのみを停止させれば済むことだろう。それを、大層な振る舞いを繰り返し、これから再び議論に入るとしたら、それは議論下手の実例の一つとなるのではないか。どうせ無駄な議論になるのだからと、その場での十分な調査を怠っていたとしたら、その責任は新たに現れた勢力にあると言える。こんな簡単なことをやらずに、議論をしたふりをしていたとしたら、それこそ愚劣な行為の一つであり、そんな連中に偉そうな口をきく資格は全くない。もし、違いを際立たせたいのだったら、ここでの振る舞いはごく簡単なものではないか。自らの行った行為に基づく行動で十分なのだから。

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9月4日(金)−激論

 何故、この国の人々は議論下手なのか。色々な意見があるが、的外れも多い。特に、そういう機会を増やすことで改善が図れるとの主張には、根拠の欠片も見えてこない。ただ、漫然と話し合いの機会を増やしたとして、何が変わるというのか理解に苦しむ。例の如くの旗ふりの一つと見なせるが、どうだろう。
 大きな要因の一つに、年功序列の存在があるだろう。意見を出せるのは、年の順であり、若造が下らない意見を述べることは、許される筈も無い、ということだ。そんな雰囲気の中で、惚けた年寄りが何が何だか分からぬ戯言を並べるのは、何故許されるのだろう。それは、相手の意見の本質を捉えること無く、ただ時間が過ぎるのを待つ姿勢に、問題の核心があるだろう。それに加えて、恐怖さえ覚える要因が、議論の場での遣り取りが恨み辛みに繋がるという図式である。これがどんな精神構造から導き出されるか定かではないが、兎に角、あの時の敵を討つとか、何やら物騒な発言を陰でする人を見ると、その無知さ、未熟さのみが際立ってくる。議論の目的が、言い放つことにあると思い込んだ人々にとって、それに対する批判は許し難いものかもしれない。しかし、激しい議論の末に、正しい結論を導くことこそが、話し合いの目的であり、それを見失った人々には、そこに居る資格さえ無いのである。こんな簡単なことさえ理解できず、権利主張やら、無茶苦茶な論理展開やらを振り回す人々に、どんな薬が効くというのだろう。少なくとも、その場で大人の振る舞いをする為に必要な要素を身に付けなくては、何も始まらないことに気づくべきだ。その為に必要なことは何か、人それぞれだろうけれども、ちょっとした心の安定だけで十分なのではないだろうか。

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9月3日(木)−凋落

 人気とは所詮こんなものかと思えるが、現実にはまだ決める段階には来ていない。海のこちらの話と思った人には、何とも不思議に映っただろうが、これは海のあちら側の話である。あれほどの人気を誇った指導者も、最近は停滞感が強まり、最大の支持者を失うに至って、その人気に翳りが見え始めたと言われる。
 確かに、多くの人々の共感を呼び、その政策への期待は膨らむばかりだった。しかし、現実を目の当たりにして、掛け声ほどの効果が得られないのが見えた時、人々の膨らんだ期待は、脆くも弾け飛ぶこととなる。それに加えて、戦争地帯への対応にも、様々な意見が噴出し、おそらく、政策自体の問題だけでなく、他の要因も複雑な絡み方をしているのだろうが、更に混迷を深めるに至って、当初の期待とは裏腹の結果に向かいそうな気配となる。やってみなけりゃ分からない、という状況だったことは確かだし、それでも何かをという期待があったことも確かだろう。しかし、現実を前にして、次々に吹き出す問題に対して、絶対的な対策がある筈も無く、不慣れな対応が続くことで逆効果となるかもしれない。そんな不安が募るだけでなく、伝えられる成果が縮まるばかりとなれば、支持してきた人々が離れてしまうのも仕方のない所だ。それにしても、これほど問題が山積した状態で、引き継ぐことの辛さはいかほどのものか。つい、そんなことを考え、同情する人もいるのだろうが、実際には、そんなことは覚悟の上、と考えねばならない。その上で、如何に順調に計画を進め、如何に成果を上げるかという点のみに注目が集まる。どんなに見通しが悪くても、初期の目標を見失わず、ここから先も初志貫徹といかねば、支持者が戻る可能性も低い。同じことが、海のこちらでも起きるのだろうが。

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9月2日(水)−曙光

 付け焼き刃の対策が続き、本来の姿がどうあるべきかが分からなくなった時、その為の原資の供給が絶たれた。慌てふためき喚き回る人々には、何が問題なのかを見極める余裕は無く、次に降って来る筈のものへの期待のみが大きくなる。変革の時代とはそんなものかと冷たい視線を送る人間も、何をしていいか分からない。
 これから起きることは、明確になっていないだけに、心配性の人間達にとっては、不安が募るばかりなのだろう。しかし、心配しても、次の策を講じる手だてが無ければ、何も起こせない。此処は暫くの我慢と決め込み、本来の姿を見出す工夫を編み出すべきではないだろうか。とはいえ、目の前のことばかりを追いかけてきた人にとって、本質とはと問われてみても、何とどう取組めばいいのか、見えて来る筈も無い。初心に帰ろうと思ってみても、ずっと昔に捨ててしまったものを探す手立ても無い。困ったものだと、周囲を見渡してみれば、誰もが同じように右左を見回し、誰かが動き出すのを待っている状態だ。これではいけないと思っても、手持ちが無くてはどうにもならぬ。今更何が出来るわけでもないからと、ただ呆然と成り行きを見守るとしたら、さてどうなるのだろうか。誰かが何かを見つけ出し、動きが出てくれば、その後を追えばいいとばかりに、釣り糸を垂れる人のように、浮きのような目印を眺める。如何にもありそうな展開だが、もしもそうなったとしたら、結局何も変わらない世界が続くだけのことだろう。何処からの力か分からなくても、何かしらの圧力がかかるときは、一つの機会の訪れと見なして、それを追い風と利用して、次の動きを図るべきだろう。その為には、初心と言わぬまでも、何か基礎となる所を捉える努力をすべきなのではないか。

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9月1日(火)−僻み

 結果が求められる時代と言われてから久しい。その間に、結果を求めることより、それしか見ない人が増え、途中の経過に目を向ける人が少なくなった。結果が全てと言われれば、反論の余地はなく、ただそれを良くすることだけに力を注ぐ。しかし、それで十分かと改めて問うと、何処か不安が漂うのは何故だろう。
 結果を求める姿勢は、何時の時代にあっても必要とされる。その見方からすれば、時代ごとの違いは殆ど無く、追求のための努力は、常になされていたと思える。にも拘らず、結果優先の風潮が強まるばかりなのは、何故なのだろう。結果に至る過程を重視した時代には、それを構築するために必要な努力や知識が価値のあるものと見られていた。ところが、結果こそが重要であり、どんな過程を経ても、好結果さえ得られればいいとする考えが台頭するに従い、そこに至る努力に対する評価は下がるばかりとなった。しかし、訓練によってのみ実現できる結果であれば、そのための努力は必要であり、特に地道なものは、嫌われることが多いだけに、評価対象として注目されるべきものとなる。どういうわけか、そういった考え方が消滅し、次々に結果のみを求める手法やその為の考え方が重要視されるに従い、何処かねじ曲がった考えが大手を振って通るようになった。一度、こんな状況に陥ると、それを否定することは難しくなり、続々と登場する手っ取り早い手立てに、飛びつく人の数は増すばかりとなる。そんな事態になってから、慌ててこの辺りの考えの甘さを指摘したとしても、多くの人々は、そんな苦言に耳を傾けることは無い。それより、成功の為の秘密のみを知りたがり、特に、安易な方法に注目が集まる。そこには、地道な努力や日常的な精進などといったものは存在せず、逆にそれらを馬鹿にする人の数が増える。兎に角、即席なものが有望視され、そこばかりに人気が集まる。そんな美味い話があるものかと思うのは、年寄りの僻みの一つといった所か。

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8月31日(月)−転換

 政策の大転換が起きることを危惧する人々がいる。勢力図が変わることでそんな事態を招けば、一大事というわけなのだろう。しかし、そんなことは既に一つ前の段階で起きていた。その結果がどうだったのかは、人それぞれに受け取り方が異なるが、始めに取り上げた人々にとっては、やはり一大事だったのだろう。
 とは言え、そんなことが起きても国が無くなるわけでもなく、組織が崩壊するわけでもない。皆それぞれに強かに生き抜こうと努力し、何とか道を見出すものなのだ。これは、国という単位でなくとも、より小さな組織でも同じだろう。要するに、一大事とばかり、皆が逃げ出すようなことさえなければ、それなりの展開が進むだけのことだ。そんなことは、一幕前のお芝居を眺めた者ならすぐに理解できるはずなのだが、人間はそんなに単純なものではないらしい。慌てふためき、走り回る人々に、将来の展望は殆ど無く、ただ単に真っ暗闇に突き落とされる、そんな地獄絵しか見えてこないのではないか。無理難題を押し通す為に、極端な選択を迫ることは、当然、その後の展開に大きく影響を及ぼす。しかし、これを、その場の決断と将来の問題とだけ捉えるのは、肝心なものに目を向けていないことになる。それは、ここまでの経過とそれが築き上げた歪みであり、その分析を怠ったままで、次の段階を始めることは、更なる混乱を産み出すだけのことになる。こんなに簡単なことに何故気づかないのか、大いなる疑問でもあるのだが、それが長い時間生き長らえてきた動物の持つ特徴なのかも知れない。もしそうなら、こんな所で難しいことを書いてみても、何も始まらないだろう。ただ、流れに任せるのみなのだろうから。

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