パンチの独り言

(2009年月7日〜9月13日)
(苦言、軌道修正、追従、撲滅、急転、閉塞、窮地)



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9月13日(日)−窮地

 これから起きることを予言するつもりもなく、ただ、この所目の前で展開される出来事に、どことなく時代の流れと矛盾を感じただけのことだ。その場の勝ち負けのみに拘り、そこから生じる結果の成り行きには目もくれず、他人事のように振る舞う人々には、呆れるだけでは飽きたらず、何処かに葬り去りたくなる。
 物騒な言い回しになったが、無責任な言動を繰り返し、責任を取らねばならぬ段になった時に、すっと何処かに姿を消そうとする人々に、この国は荒らされ続けてきた。同じことは、それぞれの組織にも当てはまり、荒廃した仕組みを元通りに修復することは、困難を極めている。根本から腐ってしまったものに、画期的な特効薬はなく、この際、全く違った仕組みを構築することが、おそらく最も効果的なものとなるだろう。しかし、この段に至っても、自らの利益のみを追い求める人々は暗躍し、見かけ倒しの改革を旗印に、本来の改革に横槍を入れ続ける。国の政治において、こんな状況は周知のことだが、現実には、津々浦々の小さな組織にまで、腐敗の菌糸は届いているのである。責任ある立場で果たすべき責任を逃れ、逆に権力を振りかざすことで、腐敗を促進させてきた人々は、過去の存在ではなく、今現在も此処彼処で蠢き回る。彼らの目的は自己満足しか無く、組織の代表たる論理はその欠片もなく、ただ欲望に走るのみとなる。過去のことを批判することは容易だが、今目の前で展開される権力者による横暴を批判することは難しい。しかし、この時点で息の根を止めねば、また元の木阿弥と思えばこそ、無理を承知で動き回る人がいる。彼らを突き動かすものは何か、簡単には見えてこないが、何か本質的なものがあるのだろう。どちらが正しかったかは、歴史に語って貰うしかないのだが。

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9月12日(土)−閉塞

 時代の流れがそうさせるのか、義務とか責任とかを訴える声が強まっている。ごく普通のことならば、何も強調する必要はない。取り立てて取り上げなければならないほど、そういった感覚が薄れているからこそ、こんなことになったのだろう。それにしても、重みの感じられない言葉の連なりは、逆効果とさえ思える。
 当然のことを果たせない人々が増えたことが、このような状況に陥った原因の一つだろうが、それが普通に感じられるようになってから、随分と時が流れてきて、更なる問題が出ているように見える。自らの責任は棚に上げ、他人のものの追求に躍起となる人が増え、極端な場合、それを避ける為にその立場につくことを拒絶することとなる。どんな組織にも中心となる存在は必要不可欠であり、頭の無い人間の如くの組織には、将来性を維持することは不可能となる。しかし、責任ばかりが前面に出され、更に、その任についた人に対して、批判の声が上がるとなれば、八方塞がりの様相を呈することとなる。責任の重要性を強調することが悪いと言う訳ではないが、責任の追及のみに注目が集まることは、何処かに矛盾があることを示している気がするし、更には、そこに至るまでに、様々な批判の声が高まり、責任ある立場の人間が自分なりの判断をすることが、妨げられるような事態になるのは、無理難題の山を積み上げるようなものではないか。こんな雰囲気の中で、義務や責任の重要性を説いたとしても、そこにはそれと同等に重要なものが抜け落ちていることになる。本人たちにそんな意識は無いのかもしれないが、矛盾に溢れる言動や行動が繰り返される風潮には、社会全体が袋小路に追い込まれている感覚さえ覚える。ただ、そこには個人個人が真剣に考えなければならない事柄があり、恰も他人事のように受け取る意識を、根本から変える必要があるだろう。

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9月11日(金)−急転

 記念日という表現は憚られるが、何年か前のこの日突然流れた画像に、一気に引き込まれ、チャットも賑やかになった。随分前のことで、もう詳しいことは思い出せないが、それはその後の急展開の影響によるものとも言える。情勢の変化は余りにも急速であり、政権交代と共に、更なる変化が生じつつある。
 海の向こうでは、このような急展開は日常的なものであり、二大政党による交代劇は、全ての事柄について再構築を導く。そんな中では、前任者の政策を否定することは当たり前なのだが、だからといって実施途上にあるものに手をつけるかどうかは別の話のようだ。一方、官僚政治と呼ばれるものがのさばってきたこちら側では、棚牡丹的に起きた急展開に、不慣れな様子が窺い知れる。事前準備の不足を暴露するような思考停止は、この段階では呆れるばかりのものだが、それにしても、全面停止という無思慮な行為には、様々な所で不満の声が上がるのも、無理はないと言えるだろう。そんな中で、現場からは小さいながらも直接的な批判の声が上がり、明らかな拒絶の態度を示す所もある。先の見通しの甘さは、この国の政治家に常とされる性癖だが、それにしても、分かりきった結末に対して、何の準備もなく取り組み始めた態度には、不安を抱く人が増えるのも無理はない。そんな連中を支持しなければならない状況こそが、今の窮状を如実に表していると見るべきだろうか。ちょっとした取捨選択が、その基盤となる熟慮の程度を示す筈が、そこまでの視野の広がりもなく、ただ闇雲に暴走するに至っては、何ともはやとしか反応できない。時間稼ぎの次には、識別の力量が明らかとなり、先行き不安が募ることにならねば良いが、お手並み拝見としか言えない状況のようだ。

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9月10日(木)−撲滅

 広告は消費者を対象とするものだけに、その国の考え方や世情が反映される。同じ商品を勧めるにしても、その良さを的確に表現しようとするものがある一方、雰囲気のみで何の情報も与えないものがある。明確な違いがあるのは、そこに国ごとの事情の違いがあるからなのだが、それにしても余りの格差ではないか。
 商品の良さを表現するにも、特長を並べるだけのものがあると思えば、比較対象を置き、理解を促そうとするものがある。どちらが効果的かは受け手によるわけで、一概に評価できるものではない。商品広告でなく、公告としての意味を持つものについても、考え方の違いが現れており、中々興味深いものだ。中には、寄付などを募るものがあり、その為に背景を伝えようと努力する。これらについても、決まった様式があるわけではないが、そこには核心となるべきものがあるようだ。そんな状況で、最近飛び込んできたものは、中々興味深いものだった。喫煙や飲酒といった習慣は、嗜好の一つと捉えられ、自由意志で選択するものとされる。しかし、年齢制限を設けるなど、個人の権利によらない部分もあり、そういった内容を伝えるものがある。そこには柔らかな調子のものもあるが、制限とする以上、厳しい姿勢を示すのが筋だろう。と言っても、海の向こうでは酒の販売において、年齢確認の義務が課されており、現場での規制を第一と見ているようだ。こちら側は何の規制もせず、発覚する度に厳罰に処せられるが、そこでおしまいとなる。逆に、飲酒運転に関しては、人種による許容量の違いなどの背景もあるからか、向こう側が寛容であったのだが、最近急変したらしい。その為の公告が流され、そこではビールで満たされた車内やヘルメットで、運転する人々の姿が流され、違法行為であることが伝えられる。異様さに目を奪われるが、こちら側でそんな訴え方があるかと言えば、まず無いと答えるのが普通だろう。

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9月9日(水)−追従

 突然怒り狂い、制御が利かなくなる。そんな人に悩まされる人が増えているようだ。このような経験を持つと、こちらの意図した通りに動く人間を欲しがるようになるそうだが、それはそれでいつの間にかお荷物と化す。人の能力とは、何と複雑なものかと思う人がいるかも知れないが、これはごく当然のことだろう。
 ひょっとして、少し前の時代との違いがあるとしたら、指示通りに動く人間の割合が増えたことにあるだろう。原因の一つには、学校教育において、様々な整備が進み、その枠にはまることが、無難な道と受け取られていることがある。個性を伸ばすという掛け声は、一時随分と大きくなっていたが、その実、中身としてはそれを否定する動きの方が強かった。個性は忌み嫌われるものであり、それが強すぎる人間を別枠に移行させることが、結果的に優先されたのではないか。そんな中で、すくすくと育った人間は、自ら考えることを悪と信じ、誰かの指示を待つのが常となる。間違いを犯さない為にも、この方式は重要と見なされ、そんな人々が次々に世の中に送り込まれた。最初に取り上げた人にも、実は二種類あり、感情の起伏が激しいだけで、生来の行動として現れていた人と、ある時点まではごく普通に見え、人との関わりにも問題が見られなかったのに、ある日突然、狂ったような行動が目立ち始めた人がいる。前者は、ある確率で集団の中に存在するものだが、後者は、最近特に目立つ傾向にあるようだ。ここにも、抑圧的な力の作用が歪曲した形で表面化した例があるのだが、そこまで極端にならずとも、自力での開拓ができない人々の急増は、社会として重要な意味を持つのだろう。本来ならば、自意識の芽生えから転換が促されるが、その機会を奪われた人々には、継続しか道はない。何処に問題があるのだろうか。

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9月8日(火)−軌道修正

 真剣に演じている人々に、茶番の一言を突きつけるのは、本当は失礼なのかも知れない。しかし、ここで言う所の真剣とは何か、それを論じないままに、ただ評価をするのは無茶としか言い様がない。努力が重要であり、成果ではないという間違った考えが、こんな所にも病魔を及ぼすとは、何ともはやと思うしかない。
 肩に力が入り、何としてでも評価に繋げようと、原理原則を展開する人々に、これまでの現実主義との乖離は、意識するまでに至らないもののようだ。こんな話は、一部に限られたものではなく、かなり広範にわたって聞こえてくるものだろう。大きな期待の中で、その任に当たる人々の緊張と気分の高揚は、それ以外の人々には中々理解できぬもので、それが茶番劇のように見えることが多い。どんなにあがいても、従来の仕組みを打破することは難しく、その働き掛けが強ければ強いほど、抗力が増すこととなり、断念せざるを得ない状況に陥る。これ程頑張っているのに、と思う人が多いようだが、頑張りすぎは逆効果、ということもあるのではないか。現実主義が全てとは言わないが、現実を目の当たりにしながら、原理原則に従うべきと訴える声は、相手に届くことはなく、それこそ、罵りとしか思えないことが多い。立場の違いを利用したとしても、命令が現場に届く頃には、その趣旨が暈かされ、目的を果たす事は難しくなる。対立の構図を描くのが主目的だった人々と違い、ここはまさしく成果を求められる所だけに、その為の方策が必要となるだろう。その割には、相変わらず、批判の繰り返しと以前の仕組みの全否定ばかりで、何処に向かうのか分からぬ状態には、期待が薄れるばかりで、また心配の種が増えることとなる。今暫くの間、様子を見る必要があるが、予定通りに進まぬとしても、きちんと説明すれば理解できるのではないか。

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9月7日(月)−苦言

 文句を言っても始まらない、実行しなければ、何の意味もないとの意見を聞く。確かに、自分の責任で何かができるのなら、大いにやるべきだと思うし、そうでもしないと何も進まないのだろう。しかし、全てがその範囲にあるわけではないから、それこそ、何かしらの文句を並べておくのも、実は重要なのではないか。
 どうせ、何を言っても始まらない、とばかりに、若者たちに諦めの視線を送り、放置するのは正しいか。中々難しい問題であり、実際に口に出して、酷い目にあった人がいたら、二度と試みようとは思わないだろう。その代わりに、彼らの時代は彼らが作るのであり、我々には関係ないと宣い、更には、彼ら自身のものを築く為にも、口出しをしてはいけないとなる。確かに、そういった面もあるのだろうが、何も言わないことが正しいとする論理には、何処か無理があるような気がする。子育ての期間も含めて、年上の人間が、口を酸っぱくして意見をすることは、何も全てが無駄になるわけではなく、何かしらの影響を及ぼすものだ。中には、強権的な物言いで、圧力をかけるだけとなり、逆効果も起こりうるわけだが、何も全てがそうなるものでもない。理解の範囲内のものであれば、互いに共有できるものは沢山ある。それを諦めて、何もしなければ、共有財産を継承することもなくなり、結果として、失われるものが増えるだけだ。若い世代にも、そういった所に気がつく人がいて、何とか繋がることもあり得るのだが、何の働きかけもなければ、結局は徐々に消え去ることとなる。そんな中で、文句を言うのも一つの手段であり、それによって、何かしら伝えることができれば、それで良いだけのことだ。受け取る方が、嫌ならば、無理強いはしない程度の範囲での話なのだが。

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