パンチの独り言

(2009年9月14日〜9月20日)
(無頭、懲り懲り、使者、勇退、立往生、脇見、誤謬)



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9月20日(日)−誤謬

 言葉は自分の意志を相手に伝える為に重要なものである。しかし、言葉がその主体と客体の間でなく、全く別の世界に送り込まれた時、そこに全く違う意味が生まれることがある。それが科学の世界で使われている用語の場合、特にプラスチックワードなる呼称をあて、本来とは異なる意味で使われることを示すらしい。
 現実にはこの言葉もまともな扱いを受けておらず、その定義も揺らいでいる。学術用語の一般社会での誤用を指すはずが、定義を明確にする専門家の言葉を、一般大衆が誤解する場合にまで適用範囲を広め、行き過ぎの感がする。定義云々の話は此処での主題ではなく、言葉の意味だけでなく、その背景を含めた用法と其処から生まれる誤解を取り上げたい。以前、流行性感冒について、最近の大いなる誤解を取り上げたが、其処には風評被害を含めた様々な背景があり、簡単には片付けられない事情がある。誤解を招く表現を避け、理解し易くする工夫は、社会への流布を標榜する上では、欠くことのできないものだろう。この病気の際にも、大衆の理解が第一と見なされ、それが大流行を防ぐ唯一の手立てと思われる。十分な説明の上で、理解を求める為には、かなりの時間を要するだけでなく、不十分に留まった場合の善後策を講じる必要がある。しかし、部分的にしか伝わらぬ環境下では、説明を要する余計な言葉は、始めから排する方が賢明との解釈もある。その結果として生まれた「新型」という用語は、簡潔で平明な表現だが、反面、対象を正確に伝える要素を省略することとなった。以前に話題になったものとの誤解もさることながら、新しいものへの恐怖を煽る結果は、言葉の選択から生じたことに違いない。風評を避ける必要を否定するつもりはないが、全てに配慮が行き届かないのなら、元々の表現を残した方が良かったのかも知れない。

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9月19日(土)−脇見

 こちらを見ずに突進する姿に、ひやりとしたことはないだろうか。自転車の場合もあるが、これが車となると、重大事故は免れない。危険な運転を招くものとして、運転中の使用が禁止されたが、一時的な取り締まりの後は、自分だけはという思いの人々によって、危険極まりないことが繰り返されているようだ。
 会話を禁止することに抵抗を覚えた人は多いだろう。同乗者との楽しい会話は問題なくて、機械を通した会話は駄目というのは、どうにも理解に苦しむものだからだ。手放しがいけないとしたら、喫煙はどうなのか、すぐに反論が返ってくる。結局、危険な運転を招いた場合にのみ罰せられ、あとは大目に見るような風潮が定着し、結果として喋り続ける人の数は増えてしまった。しかし、視線を逸らす行動となると、話が違ってくるだろう。周囲に注意を払ってという話は何処かへ行き、画面に集中する余り、前方不注意の時間が暫く続く。歩いていて、そんな自転車に驚かされた人もいるだろうが、車となれば危険はさらに増し、脇見の間に走る距離も、かなりなものとなる。互いの信頼の下に、擦れ違いをしている通常の道路では、対向車がこんなことをすれば、何が起きるか簡単に分かる筈だ。にも拘わらず、こんな姿を度々見かけるのは何故か、すぐにはその理由には思い当たらない。自分なりの理由は山のようにあるのだろうが、他人との関係において、説得できるだけのものかといえば、かなり怪しいのだろう。運が悪かったと、あとから慰められたとしても、起こしたことには変わりがない。その原因はただ自分から生じたということが、これ程明確なものはないはずなのに、運の良し悪しにしたのでは、余りのこととなる。下を見ながらはみ出す車、対向車に逃れる術はない。

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9月18日(金)−立往生

 田舎道を走っていると、道の真ん中に止まって、右折信号を出す車を見かける。途切れるまで待たねば、右折はできないのだが、それだけでなく、こちらの交通も遮断するという、何とも無茶な行動に見える。彼らにとっては、走り慣れた道であり、庭の一部なのかも知れないが、通りかかった車には、大迷惑な話だ。
 教習所では、中央線に寄ることを教えられたと記憶している。しかし、元々、それらの教えの多くは現実的でない為に、忘却の彼方に追い遣られ、繰り返されることは殆ど無い。それと同じつもりかも知れないが、この作法はいたって現実的なものであり、ちょっとした気遣いとして、もっと強く指摘されるべきものだろう。それにしても、我関せずの運転者は多く、唯我独尊とでも言いたくなるほどの、独善的な運転を撒き散らす。田舎に限ったことではなく、それぞれの人の性格から由来するわけだから、何処にもいるはずの輩なのだが、特に、緩やかな雰囲気の場所に多いように思える。まずは、警告を発する人が少なく、諦めの境地で待つことになり、本人に知らせることを無駄とまで考える。それに比べたら、都会の喧噪は、こんな所にまで影響を及ぼし、間髪入れずの警告音の嵐となることもある。礼儀作法としては、どちらも不適格なものだが、主体となる人々への語りかけとしては、ある意味重要なことなのではないだろうか。大人の対応と称しながら、放置することは、現実には何も産み出さないのに対し、子供のような勝手な行動は、現実にはある程度の影響を示す。偶々出遭ったものに過ぎないが、こんなことが社会規範の基盤となると考えれば、そこでの対応も重要な意味を持ってくるのではないか。

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9月17日(木)−勇退

 隠居は制度ではないのだが、そんな態度に憧れを抱く人が多い。次の世代に全てを任せ、何の口出しもしないというわけだが、そこだけ捉えて憧れるのはどうかと思う。身を引く人より、次の世代にこういった感覚が流行るのも、その捉え方から来ているのではないか。任される前の段階に思いが至れば、違ってきそうなのだが。
 世代交代という言葉は、魅力的なものの一つとして受け取られ、隠居もその一端として、見なされているように思える。ただ、最近の世代交代を見る限り、その準備段階の杜撰さに目をつむり、手渡すことばかりに目が奪われているから、結果は悲惨なものになることが多い。準備不足を理由に固辞する若手には、責任を逃れようとする意図しかない一方、すぐにしゃしゃり出る若手は準備に思いが至ることはない。それはある意味当然のことであり、自己分析の難しさは並大抵ではなく、経験の浅い人々にそれを望むのは、酷としか言い様がない。問題は、彼らを登用するかどうかを決める立場にある人間にあり、それを決断する前にすべきことをせず、ただ時流に任せて無責任な判断を下す態度にある。人生の長さが違っていたとは言え、働き盛りと思える年代で隠居を選んだ人々は、その前に次世代の育成に様々な形で励んでいた。自らの責任を果たすだけでなく、後継者を選び、育てることにまで手を尽くしていたわけだ。そんなことを考えながら、最近の世代交代を眺めると、杜撰な場合が目につくこととなる。潜在能力を見極めることは、後継者の選定において重要なことだが、その後に続く方策があってこそ、潜在が顕在となるのではないか。後は任せたと、手放すことは最終的な段階に過ぎず、そこまでの道筋を明確にすることこそ、責任を果たす為に必要なことなのだ。老若互いに、そんなことを意識して欲しい時代なのかも知れぬ。

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9月16日(水)−使者

 餓鬼の使いじゃない、という言葉を吐きたくなるほど、酷い状態を目の当たりにすると、流石に呆れてしまう。しかし、本当に酷いことは、その程度では済まない。何をやらせても何もできず、依頼されたことは放置するのみ、自らの考えなど微塵も無く、他人の言うことに頷くばかり。そんな人、近くにいませんか。
 以前から、そういった人間が責任ある立場に座ったまま、何とも不思議な時間が流れることがあった。しかし、それとて大して被害が広がることも無く、すぐに交代させられることが殆どだった。最初に選んだ人間の責任は非常に大きいとは思うが、それでも何処かで安全装置が働き、いつの間にやら片付いた訳だが、最近はそんな状況は少なくなり、異常な状態が長期間続くようになった。無能な人間が居座ることにも問題があるが、それを押し退けることのできない組織の仕組みに、本当の問題があるような気がする。特に、無能な人間を登用する人々が、現実には何も考えていないことが明らかになると、以前ならば退陣となる筈のものが、最近は不適格者も含めて、そこに居座るようになったから、まさに手のつけようが無いこととなる。元々、そんな事態を招いた時、通常の知力のある人間なら、自らの落ち度を素直に認め、他の人に任せる筈なのだが、この所、そんな判断さえできないほど、無知蒙昧な人間がうようよと責任のある立場に座ることとなる。このままだとどうなることかと思うが、そんなことを思うより、実力行使が手っ取り早いとなるのだろう。そろそろ痺れを切らして、批判の矢を放ち、強硬手段に出る時期だろうか。それとも、此処でもまた、暫く様子を見る方が、まともな結果を生じるだろうか。どちらにしても、痛みを伴うことは確実で、それを避けて通ることはできない。全く困ったものだと、重い腰を浮かすこととなる。

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9月15日(火)−懲り懲り

 相も変わらず懲りない人々、そんな言葉が過ぎる瞬間がある。危機と銘打って、様々な対策が講じられ、それによって救われた業界が、まるで何事もなかったかの如く、再び有頂天になっている。歴史は繰り返すと言われるが、此処にもその証左が垣間見える。欲をかく人々は、再び一線を越えようとしているようだ。
 人間を他の動物と区別しようとする人は多い。理性などという言葉を振り回し、自制心の存在を信じて疑わない。彼らから見た時、一体全体欲望に走る人間とは、動物に見えるのだろうか、それとも全く別の怪物のように見えるものだろうか。いずれにしても、金に群がる人々には、理性の欠片も感じられず、特に、他人から巻き上げることを常とする商売人には、全く別の生き物の印象さえ覚える。その果てに破綻を来たし、社会秩序の維持の為と称して、救済策が講じられた。自由という名の下に、これ程の暴挙が繰り返されたにも拘わらず、自由を守る為という大義名分をかざし、矛盾に満ちた措置が施される。何とも不条理な社会なのであり、被害者たる市民たちには、何の救済も及ばない。盛者必衰の理でも無かろうが、いつの間にやら表舞台を去り、陰で甘い汁を吸い続けた人の輪に加わる。まだ、やり足りないことでもあるかのように、暴利を貪り続けようとするのか。表であれば衆目の知る所となるが、裏ならばということだろう。金が動き続ける限り、欲望に憑かれた人々は、その活躍の場を見つけ出す。確かに、彼らの悪質さには呆れるばかりだが、それを許す社会の一員にも何らかの責任はある。他人事と放置せず、事ある度に厳しい批判を繰り返すことくらいしか、権力を持たぬ人間にやれることはない。こちらも懲りずに続けるだけのことなのだろうか。

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9月14日(月)−無頭

 公約ではなくマニフェストだったか、どちらでも良いことだが、兎に角約束を守ろうと、それなりに努力するということだろう。しかし、それぞれに異なることを書き連ねていた人々が、共通の理念を抱けるものか、少々怪しい雲行きでもある。あれもこれもと要求しても、それはちょっととなれば滞る。
 魅力的な提案と雖も、それは対象者によることは、誰にでもすぐに判ることだ。一方に手厚く措置すれば、片方には薄くなる。多少の違いがあっても、正負が違わねば良いことだが、ものによってはそうなることは必至と聞く。人それぞれならばまだしも、同じ人間に様々な対策が絡むことで、結果として出入りの激しい経過を辿り、どちらに転がるのかはすぐには見えてこない。子育てにしろ、高速料金にしろ、様々な考えが入り混じり、いざ実施となった途端に、情勢は混乱へと向かい始めた。雇用対策についても、以前からの主張を通す勢いが見られるが、さて、その実効性はとなると、何の保証もなく映る。眼前の問題を解決する為の方策は、別の歪みを生じることで、更なる問題を産むわけで、一発解決などという図式は、陽炎のように儚いものといった感じか。働く場を求める人々にとって、どんな方策が好都合か、という考え方は、如何にも正しいように見えるが、一方のみの都合しか考えなければ、どんな結果が生まれるか、現行法の中身からしても、すぐに理解できそうなものだ。政治権力のぶれと同様に、こういうものに振り子の原理が適用されると、その被害を受けるのは、どちらにしても末端の人間となる。朝三暮四の如くの話に、すぐに乗せられる無知さにも問題があり、その解決こそが本命と思うけれども、愚民政治ではまさにそれが望まれているのだろう。頭がないのは、政治の世界だけでも無さそうだ。

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