パンチの独り言

(2009年9月21日〜9月27日)
(解説、損得、成熟、猛反対、救済、精進、倒れ)



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9月27日(日)−倒れ

 計画が立案されている際には、様々なことを想定して、最良の道を定めるものだ。実行に移された時、十分な効果が得られるようにとの配慮は当然のものであるが、だからといって、全ての事例を想定できるものではない。また、骨子を貫く為には、多少のぶれは想定しない方が、無駄な時間を省くことに繋がる。
 計画を立てる段階で関わった人間には、この程度のことは十分に理解されているものだが、実際に実行に移された時、更に多くの人間が関わるようになる為に、肝心なことが十分に認知されないことが多々ある。想定外のことが起きるのも、多くの場合、当初の考えを理解せずに、無理矢理を通す人が出てくるとか、考えに勝手な解釈を加え、次々に支線を拵える人が出てくる。こんな時、当初の立案に携わった人々に批判の矢を向ける人々がいるが、これ程の迷惑はないのではないだろうか。実際に関わらずにいた人の中に、実行段階からしゃしゃり出てくる人は多く、これらのうちには、身勝手な解釈をぶつける人もいる。毅然とした態度で排除できるのならば、物事は簡単に進むわけだが、現実にはそうもいかず、つい容認してしまうことも多い。其処につけ込もうとする人間にとって、このような油断は恰好の標的となり、次々に始めの計画を変更することとなる。どれ程上手く作られた案でも、実行段階で変更が繰り返されれば、姿形も大きく変貌することとなり、始めのものがまるで机上の空論であったか如く、意外な姿を曝すこととなる。何事につけ、事を進める為には、始める前に色々と考える段階と、それに基づいて実行する段階があり、その両者が共に上手く動いてこそ、成功に繋がるわけだ。最近目につくものは、特に後者における無謀な行動であり、それを見定める仕組みを導入する必要が感じられる。ただ、人間の心にこそ、問題があるとの指摘もあるのだが。

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9月26日(土)−精進

 便利さと努力の加減は、どうも正反対の関係にあるようだ。本来は、無駄な努力を省く為に、様々な工夫が導入され、それによって更なる高みを目指す、といった感覚の筈が、いつの間にやら、省力化だけでなく、其処に至る地道な努力までが省かれることとなり、気楽さばかりが残ることになる。
 便利になってしまえば、何もしなくても成果が上がる。これは流石に言い過ぎとしても、便利さにかまけて、設定された所で満足する人間が増え、却って前進を妨げることとなる場合も多い。日常生活を見渡してみれば、そんな例は数多あり、改めて気がつくものもあるだろう。以前に努力を重ねた人々であれば、それとの対比によって、違った感覚が浮かぶものだが、そんな経験を持たない世代にとっては、それこそが当然のことであり、恩恵に浴するといった感覚は欠片もない。その中で、更なる精進を重ねる気概のある人間であれば、違った展開が起きるわけだが、殆どの場合は、留まる選択をするようだ。不足していたからこその工夫も、十分に満たされた状態では、為される筈もなく、現状に満足することとなる。飢えや不満から生まれる向上心は、こんな世情では消失するのも当たり前となり、その手の展開に期待することは難しい。こんな停滞が蔓延する時代には、何の進歩もないかと悲観する人もいるだろうが、実際にはそうでもないのだろう。誰もが先を見つめていた時代とは違うが、そういった性質を持ち合わせた人は、どんな社会環境においても、同じ行動を起こすものだからだ。努力をする人の数は、一時に比べれば激減したとは言え、現状への不満の有無に関わらず、努力を続ける人は、それぞれに生き残るものである。誰がそんな、と思う人には無関係な話なのだが。

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9月25日(金)−救済

 勝ち組負け組と聞くと、誰しも勝ちたいと思うのだろう。そんな風潮が漂い始めた頃から、弱肉強食についても、何となく見過ごそうとする動きが急となった。弱者を切り捨てる政策までがまことしやかな飾り言葉と共に提出され、遂に世も末かと思った人もいるだろう。反対を押し通す為だけとは言え、是正が図られるようだが。
 弱者救済とか、人権尊重といった問題は、前にも取り上げたと思うが、一方的な働き掛けによるものである。強者が弱者の保護をするという観点から生まれた考え方であり、弱者の自己主張の為では決してないわけだ。ところが、最近の勝ち負けの図式からは、価値を望めなくなった人々が、次善の策として弱者を装う形が生まれ、社会的救済を強く求める風潮が出てきた。一部には、そういった主張が出てきた背景を、正常化の証しとして歓迎する向きがあるようだが、果たしてそれ程単純なものだろうか。各関係者の思惑を並べた上で、この辺りの検討を進めることが重要だが、こんな論理を展開する人ほど、表面的なものしか目に入らないようだ。人間としての誇りが、等と言えば、そういった言葉で抑え込むと反発され、恥も外聞もない人々が大きな顔をして、施しを要求する姿を輝かしいものと扱うのには、強い違和感を覚える。しかし、社会環境からすれば、そこで強い言葉を吐く人間は、悪魔か魔王のように扱われかねないから、皆総じて押し黙るしかないわけだ。そんな中で、更に甘い汁を吸う輩が登場し、救済策を逆手にとって、自分たちの利益を上げるという意地汚い行為に及んできた。郵便物の扱い、障害者支援の悪用、数え上げればきりがないほど、世の中には私利私欲に走る人々が、善人の仮面をつけて蠢いている。いつから人間はこんな汚れた心の持ち主になったのか。

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9月24日(木)−猛反対

 批判は簡単だが、実行は困難だという意見がある。今まさにそんな状況にある人々に、常に批判する立場に身を置く連中が、矢を放ち続けている。相手が変わろうが、何が起ころうが、これを続けることが責務とばかりに、ついこの間までとは正反対の意見を吐く人間もいる。情けなさはとうの昔に通り越してはいるものの。
 交代劇はそれなりに劇的なものだったが、その後に起きた出来事は、十分に予想はされていたものの、問題山積となってしまった。そんな中で、応援する人が多くいることが、これから困難に立ち向かう人にとっては、非常に勇気づけられることの筈だ。端から信用していなかったとは言え、批判者共の行動は呆れるばかりだろうし、その言葉を真摯に聞く必要も、失いかけているのではないか。主張がぶれることを嫌う人は多いものの、批判の為にはそれも辞さず、とばかりに繰り返される罵詈雑言に至っては、聞く価値はないものと思った方が良さそうだ。世の中の殆どのことは、見方によって何とでもなるわけで、立場を変えれば正反対にもなりかねない。そんなことは百も承知の上で、とばかりに反論を繰り返す人たちには、確固たる考えはないと思った方がよい。綻びを見つけては、其処を攻撃することに長けている連中にとって、方針転換はまさに恰好の標的であり、それを見せれば喜び勇むに違いない。此処は十分な思慮の末に、反論の余地を残さぬ戦略が重要となるだろう。とは言え、立場次第でどうとでもなるものだけに、欠陥のないものはあり得ない。精々、攻撃の的を作らせるとしても、大した被害を生じないものを、目の前にぶら下げるくらいの策略が必要ではないか。前途多難と嘆くより、そんなことを考える方が、今は重要に思える。

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9月23日(水)−成熟

 成人を規定する年齢の改定を議論する、という話が何処かで出ていた。現実には、それぞれに異なる事情があり、一概に決められるものではないようだが、どんなものだろう。年齢に関係なく、思慮深さは個人差が大きく、それが問題ならば今すぐにでも改定を、という声も聞こえてくる。どんなものやら。
 体の健康に関係あることは、なるべく遅くしてという意見もあり、そちらに関してはどのみち認められないようだが、もし悪いことなら、摂取自体を認めることが問題にならないのか、ちょっと気になる所だ。一方で、自らの意見を持ち、それを使うことが重視される権利に対しては、反対意見は少ないようだ。そんな中で、政治の成り行きに対する若年層の意見を集めた話が流された。如何にもと思えるものが並ぶ中で、やはりと思う部分が多いように感じた。それはつまり、世間の流れに流される人々の多さで、いい大人がこんなことに騙されて、という話が巷でよく聞かれるのと同様に、ここでも誰かが言った根も葉もない話を、無思慮に信じ込む人が多いことだ。どんな議論においても、根拠の有無は最重要な事柄の一つだろう。にも拘わらず、最近の論調の多くは、感情に基づくものや、事実誤認から始まるものが多く、其処の見極めが他人の話を聞く際に、必要不可欠なものとなっている。知識をひけらかす人々に、それが欠片もないことが、最大の問題と思うが、そんなことを今更憂えても仕方がない。自分なりの考えを維持する為には、中身の吟味を繰り返すことが、肝心となるに違いない。これは老若男女に関わらず、人それぞれに持ち合わせている感覚から来るものだが、それを磨く手立てがないわけではない。それを促した上で、規定の改定を議論しても、遅すぎるとは言えないのではないか。

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9月22日(火)−損得

 元々、人間は自分の周りにしか目が行かないのかも知れない。最近、様々な所から聞こえてくる人々の声に、何処かそんな雰囲気が漂っているように思うのは、こちらの問題なのか、はたまた彼らの心の問題なのか。全体の利益などといった感覚はまるで無く、自らの利益のみを追求する人が増え、末期的症状に見える。
 民主主義の解釈について、様々な誤解があるという。「人民が主権を持ち、自らの手で、自らの為に政治を行う立場」と辞書にはあるが、自分とはまさに自分のことと思う人が増えたのだろう。其処が始まりであり、其処から更に広がれば、何の問題も生じないが、最近の閉塞状態では、自然の広がりには期待が持てない。始めから、広がりを含ませたものでなければ、自分だけのものにしかならない。一方、多数主義なるものがあり、それこそが民主主義と思う人も多い。しかし、全体の利益を考える上で、多数派が必ずしもそれを意味するものでないことも、よく分かっていない人が居る。建設中止の余波を受ける人々は、自らの損失を強く主張する。一部を対象とした手当てに対して、その恩恵に浴さない人々は、反対の声を上げる。それぞれに背景があり、政策の意図はかなり複雑なものとなっている。しかし、それを理解しようとする気持ちがなければ、何も進まないものだ。自分たちが理解されていないと主張する人の多くに、他人への理解が見られないのは何故か、この辺りに時代の混迷が現れているのだろう。三方一両損を自慢気に話した政治家に、そんな配慮は微塵もなかったと思うが、彼の施した方向転換に、世の中を大きく変えた部分があるとすれば、それは人々の心持ちなのではないだろうか。この国が美しいとする心の話ではなく、身勝手なことばかりを言えばいいとする心の問題だ。

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9月21日(月)−解説

 風評被害とは何とも不思議な言葉ではないか。何処に落ち度があるわけでもなく、被害が広がることを表す。そんな感覚で用いられるようだが、本当にそうなのか。説明不足、無知による誤解、意図的流布など、様々な原因が考えられ、その多くは、関係者が直接関与するものである。では、何故、風評とするのか。
 言葉が勝手に独り歩きし、間違った情報を伝えたり、誤解を生じることは、日常的に起きることだ。それを否定する為に、関係者は回復改善に走る。しかし、一度齟齬が生じると、その傷を修復することはかなり難しい。関係修復より、他に原因を求めた方が、手っ取り早いとでも言うのだろう。安易な用法には、責任回避の影がつきまとい、全てを投げ出す姿勢が見え隠れする。責任ある立場ほどその傾向は強く、説明に無駄な時間を費やすより、風評という怪物に運命を委ねる。専門用語は、大衆には理解しにくいものと映り、比喩を交えた形で平易な言葉に置き換えられる。其処から生まれる誤解に関しては、殆ど全てが根も葉もないものと見なされ、次に来る言葉はお決まりとなる。しかし、専門家の間では誤解こそが最悪のものであり、それを避ける為にあらゆる努力をする。其処から生まれた言葉には、誤解を回避し、無駄な努力をせずに済ませる工夫が施されている。ただ、それを理解する為に、個々人のちょっとした努力が必要であり、その前提が壁となってしまう。愚衆化してしまった人々には、理解の為の努力は無用であり、勝手な解釈が罷り通る。困ったものと思う向きもあるが、諦めに近い反応の方が多いようだ。結果として、簡潔な表現が用いられ、無用な誤解を招く。悪い方に動き始めたら、「風評」という切り札を出せばいい。そんな風潮が染みついた社会には、今更理解の要は通用しないのか。

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