パンチの独り言

(2009年9月28日〜10月4日)
(じり貧、変心、偽善、失墜、欺瞞、自責、孤独)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月4日(日)−孤独

 元気な老人が町に溢れ、賑やかな会話が弾む、という光景は余り見られなくなった。老人の元気さは変わらないのだろうが、その向かう先が変わったのだろう。生活の不安は、若い世代ほど抱かず、悠々自適の暮らしを愉しむ、という人々にとっては、何をするのも勝手といった考え方があるのかも知れない。
 一時期、街角で見かけた老人が集まる場所も、最近は少なくなり、何処へ行ったのやら。一つは、純粋に社会活動という雰囲気が漂うものだったが、その一方で、何やら怪しげな空気が流れているものも見かけた。いつの間にか撤退した空き店舗を使い、近所の老人たちの寄り合いのような所には、見るからに怪しげな背広姿の男共が群がる。ふと現れたと思ったら、ひと月もしないうちにまた空っぽとなる。そんな繰り返しが行われたのは、所謂老人を対象とした商売の一環だったのだろう。次々に、貯め込んだ金を引き出され、安心だったはずの生活が危うくなる頃から、何となく気づかれるようになるわけだが、時既に遅し、といった感があった。社会の壁蝨とでも呼ばれるべき人々は、神出鬼没で、官憲の手を逃れつつ、暴利を貪り続ける。社会がそれを抱えるほど荒廃したと言ってしまえば、言えないこともないのだろうが、それにしても世も末という図式が描かれていた。しかし、そこにはまさに核家族化の弊害が描き出されており、社会の中で孤独化する老人たちの、唯一の救いを求める姿を見せていただけに過ぎない。そんな話も、別の詐欺事件が横行するに従い、影を潜めたように見えるが、現実には暗躍し続けているのではないだろうか。身銭を切ることを極端に嫌う世代がいる一方で、そうまでして社会との繋がりを求める世代がいる。

* * * * * * * *

10月3日(土)−自責

 何事も他人の話のようにする、という人に出遭うことが多くなった。自分の努力が報われた時に、恰も自分だけの手柄でなく、といった具合ならばと思うが、現実には、そういった場合には驚くほど強い主張をする反面、何かしら悪い方向に動いたものの場合には、他人事、他人任せといった話に終始するのだ。
 こんな風潮で責任の話に触れたとしても、逃れる術を磨くことばかりに、気持ちが動くのではないだろうか。逆に言えば、こんな世の中だからこそ、これ程強く責任問題が取り沙汰されるのだろう。そこまで訴えないと、無視する姿勢が改まることは期待できないからだ。それにしても、此処彼処から聞こえてくる話が、まるで画面の向こうでしたり顔をする評論家のようになったのは、何故なのだろうか。自らの無知振りを隠す為の方便を、まるで伝家の宝刀のように見なす人々は、これまた無知蒙昧の極みとなるわけだが、本人の中ではそんな思考は働きそうにない。他人の分析を有り難く戴き、他人の評価を無断で借用するという、あの業界の人々の手法を、画面のこちら側でやったとしたら、どんなことが起きるのかを想像する智力さえ乏しい。元々、手早く場当たり的な答えを出す訓練しかできていない人にとって、じっくり考えるなどということは、思いも寄らない話なのだろうが、それにしても、この手の間違いの横行は目に余るものがある。恥の文化と表現されたこともあるものが、恥知らずの出現で一変してしまった。後者を優遇する風潮が強まるに連れて、この傾向は強くなるばかりであり、暫くの間は手のつけようがないだろう。一人一人の意識が最重要とは言え、この勢いを止めるには何か強い力が働かないと、難しいのかも知れない。

* * * * * * * *

10月2日(金)−欺瞞

 依存症とは、精神疾患の一つと考えられているが、その適用に関しては、かなりいい加減と思われている。本来、専門家のみが使うはずの言葉を、大した知識も持ち合わせていない評論家たちが、頻繁に使うようになった頃から、適用範囲が広がるばかりとなり、無責任な言動が繰り返されている。
 元々、日常的なものに対する依存症は、余り取り沙汰されていなかったのだが、範囲拡大に伴い、そんな所にまで顔を出すようになった。アルコールや煙草に関しては、それらの影響も十分に研究され、そこからの脱却を助ける社会制度も整備されている。しかし、現実にどのような作用が及ぼされ、どんな影響から陥ることになるのかとなると、さてどの程度明らかになっているものか、はっきりしていないように感じられる。どちらかと言えば、対症療法の重要性が優先され、社会復帰を含めた結果追求が第一となるから、影響物の排除という方式の有効性のみに注目が集まっているのではないか。対象が明確であり、その影響が十分に認知されているものなら、こんなやり方も有効なのだろうが、適用範囲の拡大は、その手が届かない所にまで及び、原因も結果も不明確であるばかりか、それが本当に精神に何らかの影響を及ぼしているかさえ、検討しないままになっているように見える。社会環境の問題を取り沙汰する勢力には、不明確であればあるほど、声高な主張が可能となるだけに、現状はまさに活躍の場となるわけだが、苦情や批判のみが続出し、その解決が目的でない場合、殆ど全ての方策は行き場を失うこととなる。こんな状況が長引けば、それに乗じる人が増えるばかりとなり、範囲は更に急速に広がるだろう。精神という、手の及ばない範囲だからこそ、もっと慎重に考える必要があることに、社会全体が気づかなければならない。

* * * * * * * *

10月1日(木)−失墜

 新聞の公共性が問われる時代になったのだろうか。各紙がそれぞれ独自の編集方針を持ち、それぞれに異なる視点から、世情の流れを捉えるという姿勢は、多種多様な情報を必要とする社会には、不可欠なものと受け取られていた。だが、この所の偏向した方針に、疑問の声が上がり始めているようだ。
 公共性という観点と企業性という観点は、どの程度の重複があるのか分からないが、利益追求という目的からすると、ぴたりと重ね合わせることが難しいことはすぐに判る。にも拘わらず、本来の目的が違う所から出発していたせいか、ある程度の線から大きく逸脱することは、余り無かったと言われる。ただ、その中でも、ある新聞はどちら寄りだとか、ある新聞はある主義に偏っているとか、そんな指摘は頻繁に行われてきた。それでも、外国の事情との関係であれば、少し遠くのこととして、批判の的となる所までは行かなかった。しかし、この所の動きには、極端な流れが強く感じられ、それに対して危機感を抱く人も出ている。ある雑誌社が極端な意見を発表しても、一部の人々への情報と受け取る向きが多かったのに対し、今回の新聞社の動きには、全く別の反応が出ているのは、そこに公共性が色濃く映っているからに違いない。企業としての存在が、様々な社会背景から難しくなりつつある時こそ、本来の役割を今一度強く意識して、その立場からの情報提供を心掛けないと、新聞社としての意義が失われ、その結果として、企業としての存続が危ぶまれることになるだろう。その位の常識は備わっているものと思い込んでいた人々にとって、この所の偏見に満ちた情報提供には、これまで抱いてきた信頼を失わせるほどの力があるのではないだろうか。

* * * * * * * *

9月30日(水)−偽善

 大臣が公然と批判し、降板を余儀なくされたのも束の間、いつの間にやら大臣はいなくなり、馬鹿騒ぎで保護された人物は、何事もなかったの如く、画面に登場している。元々、彼の存在は、社会的仕組みの変更の、如何にも絵空事と思える姿を、まさに象徴するものと映っていたが、その印象は更に強まったようだ。
 それにしても、普及率がほぼ100%の家電の、仕組みを全面的に変更するという事件は、一部の人々にとっては青天の霹靂であり、生活の不安を更に大きくするものとなりかねない。如何にも善人のような振る舞いは、そんな不安を解消させる為の一助と見なされ、評価する声もあったようだが、現実には何の効果もなかったのかも知れない。依然として新方式の普及率は、徐々に増えているとは言え、緩やかな率しか示さず、業を煮やした推進派からは、新品を購入せずともできる方法の広報が始まった。にしても、何かしらの道具は必要であり、更に地域によっては受信の為のアンテナの問題まであるとなれば、逆風が強まるばかりとなる。そんな中で、説明会の開催の報せが届けば、不安を抱く人の気持ちはどうなるのだろう。その公告を見る限り、何やら詐欺紛いの商法の呼び水にでもならないかと、心配したくもなる。実際には、世界各地で同じようなことが起き始めているわけで、それぞれに異なる方法が採られているのだろうが、そんな話題が取り上げられることは決してない。それより、通信方式の系統の違いを話題とし、どちらが採用されたのかを問題とする。経済こそが重要であり、庶民の感覚などはどうでもいい、としか思えない流れに、相変わらずと思うしかない。ただ、強制措置の期日は確実に迫ってくるわけで、不安を抱く庶民にはそちらの方が重要に違いない。

* * * * * * * *

9月29日(火)−変心

 その気にならない人を、その気にさせる方法があれば、知りたいと思う人は多いだろう。でも、本当にそんな方法は存在するのだろうか。よく話題になる詐欺紛いの方法も、心変わりを促すほどのことはなく、何となく欲に駆られてとか、脅しに負けてとか、心の動揺に乗じた形での効果くらいしか期待できない。
 人口減少を問題視し、その解決の糸口を見つけようとする人も、同じような状況にあるのではないか。自らの抱える問題を列挙し、その為に子供を持ちたくないと主張する人は多いが、彼らの本当の問題は、主張に沿うような改革が、必ずしも決断に繋がるとは思えない所にある。社会環境の問題や収入の問題は、確かに大きな要素なのだが、その主張を満足する為に必要となる経費は、莫大なものになるに違いない。その果てに、心変わりが起こらず、どぶに捨てたような状況になるとしたら、やはり躊躇してしまうのではないか。その一方で、同じ状況にあるにも拘わらず、子育てに励む人々がいることは、この辺りの事情に、単なる外部環境の問題では無い部分があることを示している。時代の変遷があるから、昔のことを引き合いに出すことは、どちらかと言えば避けられているが、親やその親の時代には、貧乏や劣悪環境が、子供を持つこととは繋がらなかった。確かに、非常な労苦の末に子供を育てたという話もあり、今更そんなものを経験したくないとする気持ちは理解できなくもない。どの話を聞いても、どうも極端な例ばかりに注目が集まり、それ以外の例に目が向かないのは、納得いかない部分が大きい。分かり易さばかりを追い、極端な例から、極端な要求を思いつくのでは、ごく普通の営みを進めることは難しくなるばかりだろう。もっと普通なものと見ることこそが、始まりになるのではないだろうか。

* * * * * * * *

9月28日(月)−じり貧

 近くの公営住宅の敷地が売り出されたことがあった。ポンプ室だったか、それまでの施設を移し、空いた部分を宅地として売り出したのだ。即金という縛り、住宅を建て、すぐに住むといった条件が、何とも厳しいものに見えたが、売り出しの期日が来て、それ以降、何の音沙汰もなく、家も建たずの状況だった。
 それから一年ほど経ち、突然整地が行われ始めたのを見て、何事が起きたのかと思っていたら、あっという間にアスファルトが敷き詰められ、駐車場へと変貌した。結論は、厳格な付帯条件は、買い手を見出すには至らず、公営住宅内の駐車場の不足を補うこととなった、ということなのだろう。何とも不思議な気がするが、地方都市において、宅地は必要とされておらず、新たな流入も期待できない、というのが現状だろう。地方に様々な権利を与えて、という話も最近は聞かれなくなり、単なるお題目に過ぎないものは、皆の記憶からも葬り去られてしまった。ただ、厳しい現状は依然として続いており、各地方ごとに工夫をこらそうと躍起になっている。自分が住む場所のことは分かりにくいものの、他人事の部分については、色々と見えてくることが多いから、そんなことを考えてみると、根本の部分で大きな問題を放置していることに気づく。兎に角、経費削減やら縮小やらといった声を幾ら大きくしても、すぐに限界を迎えるということだ。まだ余地は幾らでもあるという人もいるが、その一方で様々なことが円滑に運ばず、無理も此処までという段階に来ていることが明らかとなっている。では、根本は何か。地方の権限が話題になった時も、散々論じられたが、先立つものが必要なのだ。現状では財源を増やすことは、政治家が自らの首を絞める行為と見なされ、避けねばならぬこととされるが、何処まで愚行を続けるのだろうか。

(since 2002/4/3)