鉄橋を過ぎると、大きな川に沿って水路が設けてあるのが見える。川との違いは、単に護岸が施されているだけでなく、そこに流れる水量にある。かなりの深さの水が、凄まじい勢いで流れ、ちょっと怖い感じさえする。ただ、こういう形で、その昔、上と下で争った水の権利が、解決を見たのかと思える。
細々と流れる川に、水源を頼る地域では、ほんの僅かの天候の変化で、水不足になることが多い。水利権は、常に上の方にあるものであり、そんな時にも、下は我慢するしかなかった。ある時代から、人工的な水路が設けられるようになり、各地域に当時敷設された水路が用水の形で残る。地域全体に行き渡らせる為には、単に水の道を作るだけでなく、水位を上げる必要があった。その為に使われるのが堰であり、大きな川の所々に見られるものだ。水の管理を考える上で、成る程賢いやり方と思えるが、始めは利害入り混じるものだったようだ。堰き止めることで、水の勢いが増す場合があり、それが水害を招けば水路の設置自体も問題視される。一方で、管理が施されることで、洪水を未然に防ぐことが可能になる場合もある。これを的確に予想することは難しく、常に両極端の影響を想定する必要がある。更に事態を困難にするのは、普段の効果とほんの偶に襲ってくる被害との比較であり、時々耳にするのは、百年に一度の大災害であれば、それを防ぐ為の施設の建設は不要と見なす、という話だ。この所、余計な公共投資と槍玉に挙げられている水利設備も、その観点からの議論がなされた筈だが、眼前の利害に走る人々には、そんな見通しは存在しないに等しい。被害が起きない絶対的な保証は存在しないのに、それを頼りに議論する姿勢には、公共というものを見失った心ばかりが見えてくる。
此処には思いつきを書いているのだが、途中で何を思いついていたのかを忘れてしまうこともある。それでも、流れを保ちつつ、何とか終わらせるようにしているのだが、何処か、落ち着かない気持ちのままとなる。百聞は一見にしかずの話も、何か主題があった筈なのだが、思い出せずに中途半端となってしまった。
ふとしたことから思い出すと、それはシミュレーションの話だったようだ。何が起きるのかを計算によって求め、それを画像として表示する。時間の流れに乗った話だから、動画となるのが普通だが、アニメ世代となれば、そこから理解することも多いのだろう。丁度、大きな災害を及ぼした時から半世紀を迎え、被害を受けた土地に再び同程度の勢力の台風が訪れたら、という想定での計算結果を披露し、備えの重要性を説く人々が居る。それ自体を批判するつもりはないが、毎度のように繰り返されるこの手の警告には、何処か理解に苦しむ部分が残る。群集心理を交え、被害の広がりと人間の行動との繋がりを説明する中で、動画の存在はかなり重要な位置を占める。ただ、そういう画像を見る度に、人工的なものを感じるのは何故なのだろう。実写と計算上の画像の違いと言ってしまえばそれまでだが、何か不思議な感覚が残るのである。実物のように見せることの重要性を、彼ら研究者は強調するのだが、誰が見ても現実性の足りなさを感じる。そこに、伝え聞きとの違いを感じられないのは、現場にいないからだと思う。しかし、それを言ってしまっては、この手の啓蒙活動は行き場を失う。何としてでも、人々に恐怖を知らしめ、避難の必要性を伝える。その姿勢を批判するのではないが、この手法が本当に意義あるものか、検証した話は聞こえてこない。
ラジオの効用が強調されるのは、視覚に訴える媒体が巷に溢れているせいだろう。文字を読むより、絵を眺める方が分かり易いということから、何でも漫画化されてしまうのも、そんな背景から来るのだろうか。百聞は一見にしかず、ということから、見ることの大切さが話題となるが、見せることにも危うさがある。
見せる媒体が世の中に存在しなかった時代には、伝え聞くことが唯一の手段であり、それを文字化したとしても、聞くこととの差はさほどでもなかった。そんな時には、人からの伝え聞きでは解らない部分が、その場に居れば理解できるという大きな差があった。しかし、絵が生まれ、写真が生まれ、と流れることで、視覚に訴えることの重要性が拡大し、映画が発明されて、遂に動画を眺めることが可能となると、事態は一変した。その場で起きたことを、その場に居るかのように、眺めることができるというわけだ。現実には、レンズを通した場面しか見えず、時間の流れもねじ曲げられることに気づくと、その場に居合わせることとの違いは余りに大きく、伝え聞きと同様の情報の欠落や改竄に目が向くこととなる。それでも、視覚媒体に接した人々は、その印象の強さに抵抗できず、聴覚よりそちらを選ぶことになる。膨大な情報を含むと思われる写真でも、見る人それぞれに、抽出する内容が異なり、伝わる中身が違ってしまうのだから、文字列とは全く違う結果が生まれるが、それはそれとして了解するしかない。だが、この偏りが長く続いた結果、画像には全ての情報が含まれ、それらは悉く正しいものとする人が増え、騙される人の数は増えるばかりである。見ることの大切さは当然だが、それだけに依存する危険性にも、注意する必要は残っている。
資源のない国では、何が重要となるのか、そんな質問をしたら、何を今更と言われるかも知れない。それ程、言い古された問い掛けだが、これという答えが得られたようには見えない。国内が更に細かな区画に分けられた時代、そんな地方では特に教育に力が入れられたと聞く。これも答えの一つと見られるのだが。
科学立国などという言葉が使われ始め、何やらある分野の基礎知識が重視される時代になったが、それまで無視されていたのではなく、逆に敢えて取り上げるまでもなく、常識的にその必要性を重んじていただけのことだろう。それを殊更強調するのは、逆に意識の減退が目立ち始め、その為の努力を放棄し、楽に流れる風潮が極まった為なのではないか。教育の重要性も、同じ根っ子を持つことは明らかだが、全体を見渡す意識が強く、現状のように、一部のみを特別扱いする雰囲気はなかった。意識するまでもない時との違いは、その対象に対する考え方で、特別扱いではやはり特別が強調される。全体の底上げは眼中になく、一部の突出した存在を、更に伸ばそうとする動きが大きくなり、意識の違いを際立たせるものとなった。一部の国で通用する手法だが、この国の特長は、全く別の方向にあり、各人がそれなりの知識を持つことが前提となる。それにより、国自体の力を伸ばすことに成功したわけだが、あるところを超えた辺りから全く異なる考え方が台頭し始めた。苦楽が指標となり、最低限にばかり目を奪われた結果、全体の底上げは困難となり、一部に注力する手段に訴えることとなった。著名な賞に更なる注目を集めたのは、そんな時代背景もあるのだろう。しかし、それから暫く経過してみると、どうも何か大きなものが欠けているような気がする。本来の姿を思い起こす時期かも知れない。
努力は報われるもの、と思いたいのだろうか。前政権が積み上げた塵芥の山を片付けるのに、これ程の時間がかかると予想した人はいない。財源確保の立場から、目標値ばかりに注目が集まり、既に出始めている歪みに目を向ける人は少ない。当事者たちだけが、戦々恐々としながら、成行を見守っているだけだ。
ずっと以前にも指摘したが、問題点が明らかならば、用意周到に臨むだけで済んでいた筈のことである。結果がそうなっていないのは、高を括っていたのか、浮かれただけなのか、どちらかと言えば、精神的な要素が大きいように思う。迅速な対応を謳うのは簡単だが、それを実行するのは難しい、とでも表現するのだろう。更に、何度も行き来が繰り返されることも、当事者の苦しみを増しているのではないだろうか。ファイルは閉じられたままで、中身が明らかになるのは、最終段階となれば、残されるか切られるかの瀬戸際では、不安は増すばかりとなる。この辺りの遣り取りでも、官僚批判を繰り返した人間たちが、全てとは言わないまでも、彼らの出す回答頼みで動きが鈍いことに、大きな問題がありそうだ。一部の省庁では、自ら動いているところを撮影させ、従来とは違うところを見せていたようだが、それ以外については真相は流されていない。情報とは操作するものであり、垂れ流すものではないといった風情だが、思惑ばかりが前面に出ている。いずれにしても、膨大な仕事量であることは承知の上で、取り組み始めたものであれば、相応の速度が求められるのは当然である。目標値を話題にすることで、速度不足を覆い隠そうとする姿勢には、これまで通りの不信感が漂い始めそうな情勢ではないか。
思い切った削減策を打ち出し、一部には実現不可能の声さえ上がる始末、どうなることか見守るしかないが、そんなところへ景気の冷え込みを招くとの苦言まで。削減が必要不可欠かという本質的な疑問を棚上げし、こんな話題に熱中するのもどうかと思うが、経済活動の推進に不可欠とする選択肢が優先されるようだ。
何をどう描いても、反対を唱える人々を根絶することはできない。自分たちの役割を考えるより、他人の批判を繰り返す方が、ずっと楽だからだろう。同じことは、先進国と途上国の間にも当てはまる。今の地位を築いた礎を、自分たちだけで独占しようと、当事者が考えているかは別にして、遅れてくる人々には、梯子を外す行為のように映る規制は、悪としか見えないのだ。自らを被害者の立場に置くことが、最も安楽な道だということが、こんな所からも見えてくるが、これは人間の示す根本的な行動規範かも知れない。常に、弱者の立場を貫き、救済を求め続けるのは、そんな見方からすれば、至極当然のこととなる。それに比べれば、一部の紳士然とする先進国のように、手を差し延べる気持ちを保つのは、かなり難易度の高いものとなる。同じような図式が、それぞれの国の中の事情にも当てはまり、これから社会的地位を築くべく、努力を続ける人々は、常に弱者の立場に居続けようとする。しかし、地位が上がれば、そこからの撤退を余儀なくされ、一気に心理的に苦しい立場に追い遣られる。人生の歩みをそんな風に見れば、その通りなのかも知れないが、急転直下の変動に耐えきれない人も出る。そんなことなら、始めから突き放しておき、自力での突破を促す方が良いのではないか。現状から程遠い話だが、そろそろ真剣に考えないと、落伍者ばかりの地獄に陥ってしまう。世界情勢にも、全く同じこと当てはまるのだが。
志を高く、という声が流れてきて、一瞬思ったことは、何やら久し振りに聞く話ということ。無難に生きるとか、賢く生きるという話ばかりが巷に流れ、余りに安直な話しぶりに、彼らの将来は暗いものと受け取るのは、極端すぎるだろうか。それにしても、何処も彼処も、欲に塗れた人間が増えすぎた。
かの声も、何やらわざとらしい遣り取りの中で流れたものだが、公僕の意義を考える上では、重要な一言に思える。こんな言葉が演技にしか思えず、上滑りな雰囲気が流れるのは、それだけ世の中が荒んだ証左なのかも知れない。お国の為と言っては、戦中のあの凄まじい雰囲気が想像され、気持ちが落ち込むかも知れないが、民の為に働くはずの人々が、民から色々なものを巻き上げるようになっては、荒れるのも無理はないと思う。と言っても、この辺りの事情はお互い様の感があり、身銭を切ることを拒絶し、他人の施しを奪い合う人々が、巷に溢れる状況では、まずは自分の身を護ることが先決、という考えが浮かぶのも致し方のないところか。だが、道徳の時間に眺めた本にあった話には、それと正反対の人々の活躍ばかりが目についた。難しい時代に、難しいことをしたからこそ、歴史に名を残せたということか、そんな人々を蔑む心理となれば、人間としての扱いが必要かどうか、暫し考え込んでしまう。大きな変化が生まれ始めている時代に、いつまでも私利私欲にしがみつく人々には、どんな未来が待っているのか。不正も暴かれなければそれでよしとする風潮も、限界に達したと思われるけれど、果たして鉄槌が下ろされるものか、暫くの間は見守る必要があるだろう。そんな中に、志を高くする人々が登場すれば、明るい光が射すに違いない。