数の論理というと何が思い出されるだろう。多くの人は多数決のことを思い浮かべるのではないか。民主主義の基本と見る向きもあろうが、最近の社会の流れをみると、とてもそうとは思えない部分が多い。民を中心とした考え方には、一部の人間による操作が入り込む余地はないが、現状は正反対の位置にある。
決定する場が、その組織を代表するものであれば、こんな事を議論する必要もない。しかし、この所の様々な流れは、組織の一部の代表たる人間たちが、手練手管を弄して、数を占める事に腐心するように見える。始めの部分は代弁者に扮するものの、いつの間にやら、一部の利益のみを追い求めることとなり、全体の均衡は脆くも崩れることとなる。数に頼ればこうなるのは必然のことだが、民主主義の大前提に入れられた途端、何にも勝る力を手に入れることとなるわけだ。同じように数字に振り回される風潮は多くあり、世論調査の割合などはその代表となる。それによって、社会の流れを作ってしまおうとする思惑もあり、何処までが真の数字で、何処からが操作されたものか、結果のみを見ても見えてこない。本来は、調査対象の精査から入るべきであり、そこでの不均衡自体が恣意的なものとなる。しかし、数字を絶対的な存在と奉る連中には、そんなことをする必要性は見えてこない。数字は数字でしか無く、何処にも人間の意図の入り込む余地はないものと信じ込んでいる。いやはやと思うけれど、現状はこんなものかも知れない。もう一つの数字に関する傾向として、増加、上昇といった流れに注目する世情がある。何でも増えればいい、兎に角良い方向に上昇し続けるのが良い、といった具合に、何を思うのか、上昇率なるものだけを追う。良い状態が続くのは一定で十分ではないか、と思うのは天の邪鬼だけのようだ。
的外れな意見を聞いていると、途中で辟易としてしまい、耐えきれない時間が続くこととなる。しかし、当人にとってはごくまともな考えであり、得意満面に滔々と述べているわけで、これでは悲劇だなと思ってしまう。地位の上下には無関係に、こういう話は数多あり、何時でも何処でも起きているようである。
小さな会議や個人的な会合でのこういった場面は、まあ、暫くの辛抱と決め込むだけで済むものだが、現実には、こういう場面ほど厳しい指摘が必要だろう。そういう性格の人々に限って、自己陶酔に陥り、自らの誤りに気づかぬものだから、他が指摘するしか方法がない。そのまま放置された人の多くは、その後、責任ある立場についてしまうと、唯我独尊に居座ることになるからだ。そこまで来ると、猫の首に鈴という図式となり、誰も手が出せなくなってしまう。世の中にはこんなことが溢れているからこそ、始めに書いたような事件が次々に起こるわけだ。どんな事柄にも問題点はあり、それを指摘することでより良い方向に進むことができる。しかし、そこで的外れな指摘をすると、事は拗れるばかりとなり、経過は悪化の一途を辿ることとなる。この場合も、指摘をした当人は、失敗の原因は大元の提案自身にあり、自らの馬鹿げた手出しにあるとは露ほども思わない。つまり、反省に繋がることは期待できないわけだ。そういう輩を責任者として据えることの問題は、組織としての重大課題であり、そこから改める必要があるが、時既に遅しといったところか。様々な変化が表に出始めた時、そこに多くの欠陥があるのはやむを得ない。特に、巻き込まれる人々が変化に応じる準備ができていない時には、どんなに良くできた提案も本領を発揮できないものだ。そんな時に、的を外せば、遠回りを余儀なくされるだけなのだ。
非常識としか言い様のない馬鹿騒ぎは収まったようだが、依然として過剰反応としか思えない報道が続いている。感染症においては、万全の体制というものはなく、精々伝搬を防ぐ手立てを講じるしかない。その一方で、発症者に対する処置は意外なほど徹底されておらず、首を傾げたくなる部分が多い。
到着直後の検疫作業に驚いた人もいたが、あれも既に大昔の出来事のように扱われている。単なる見せ物と断じた関係者もいたが、耳目を集める効果だけはあったようだ。その後の発病者数の発表は、いつの間にか途絶えてしまったが、管理体制の評価として、この数値の重要性をもっと訴えるべきだろう。その上で、不幸にも死亡した人の数を公表し、割合を算出して初めて、危険度の評価ができるのではないか。そういう体制を解いてしまったことは、あれほどの大騒ぎと比較して、何とも理解不能な行動である。その一方で、依然として危険性の過大評価とも思える対策が続出し、現場での混乱は広がるばかりのようだ。ワクチン接種の優先順位にも、成る程こんな主張が通るのかと思うほどの話が出ており、首を傾げるより、呆れてものが言えないといった雰囲気さえある。誰が重要か、人それぞれに事情があるだろうが、命の問題と個人の事情の問題を、同じように扱うことは無理だろう。更に、入試のように、その場だけの権利獲得の機会を逃すかも知れない場合に、様々な意見が出るのも理解できないわけではない。しかし、これまでも体調不良に陥った受験生は数多いたわけで、今回に限り特別扱いとする向きには、違和感を覚える人も多い。不利にならないように、という意見に対しても、体調管理そのものが権利獲得に必要な要素、とする反論もある。いずれにしても、不運と片付けなくなることは、飛んでもないことに繋がる予感がする。
何の前触れもなく、重大な発言をする。ある世代の特徴なのだろうか、それともその人物の性格なのか。いずれにしても、根回しすることなく、自らの方針を大々的に発表する。自己中心的な考えを持ち込み、相談と称しながら、現実には脅しに近い行動に出る人間も酷いものだが、その対応での爆弾発言に振り回される人が出る。
極端な捉え方をすれば、最近の航空業界の話題は、こんな形になるだろうか。しかし、件の発言の後の、他の人々の叫びに比べれば、こんなものは取るに足らないものになるかも知れない。最近の一般大衆の反応には悲鳴に似たものがあり、それはそれだけ窮地に追い込まれている証拠と見る向きもあるが、実際には視野狭窄に似た、自分本位の考え方の表れに過ぎない。公共の課題について議論する上では、多数決とは言わないまでも、公共の利益が優先されることに異論を唱える人はいないだろう。全体として眺めれば、これ程明白なことでも、被害者意識が社会に満ちて、感情論ばかりに注目が集まる時代には、全く的外れな展開が起きるのが、当然の帰結なのかも知れない。しかし、そんな時代だからこそ、論理的な展開を広げ、その重要性を説くことが肝心なのではないか。私の生活をどうしてくれる、と訴えることは、一種最終兵器のように扱われているが、それが全体の利益とどういう関係にあるのかを全く考えずに、鵜呑みにする態度には、かなりの危うさが感じられる。どんな背景にあり、どんな問題があるのか、一切触れることなく、自らの問題のみを訴えるのは、弱者独特の権利のように扱われる。しかし、それこそが現代社会の抱える病の深刻さを表すものであり、最も重視されねばならない感覚を蔑ろにする風潮には、危機感を覚えずにはいられない。そんなことを理解した上で、展開を眺めれば、随分違ったものになるだろう。
敢えて訳せば商標となるのだろうが、その力を知るのは、この国の人々の一部が、わざわざ他国に出かけてまで、買おうとすることからだろう。何故、あれほど躍起になってまで買い漁るのか、また、新製品が出る度に走り回るのか、そんな疑問は、無関係な立場にある人間には、永遠に答えられないものだろう。
品質保証という見方を紹介する人もいるが、現実にはそれ程でもないとの指摘もあり、一概に決めつけることは難しい。また、名が売れ始めた頃には保たれていたものが、大量に出回るに従って、徐々に低下するという話もある。ただ、作る側からすれば、一度築いた地位は何としてでも守る姿勢が重要で、その為の工夫は盛んに行われている。偽物が出回るのも、名が売れている証拠と見る向きがある一方で、当事者たちは取り締まりに必死になるのも、そんな立場の違いからくるものだろう。商標としての利用価値は、商品が限定されるからこそであり、何から何まで手を出したものは、意外なほど短命であることが多い。それだけ、力の注ぎ方に難しさがあり、人気を保つ為の努力が必要ということだろう。その一方で、絶対的な力に縋る人々も多く、誘いは次々に来るのではないか。こんな図式が当然の世界で、自らの地位を高める為に、商標を利用しようとする人もいる。つまり、売れない名前を商標として表に出し、その勢いで地位を築こうとするわけだ。中身のないものに、そんなことができる筈はない、と考えるのは素人と言われ、売り方、広め方で十分に勝算はあるという意見も多い。しかし、そんな連中が使うのは、ほんの一欠片の成功例に過ぎず、それに誘われて、思わぬ出費を強いられ、結果として何も残らなかったという話は山のようにあるだろう。実質の伴わない虚像を築くのは、ある時期から急増した商売の手法なのだ。
国政選挙が迫った頃、突然の辞任を発表した首長が居た。理由は経費削減とのことだが、理解に苦しんだ人が多かったようだ。それまでの行動から、思惑についての憶測が飛び交い、素直に受け取った向きは少なく、疑心暗鬼の様相を呈した。あの人ならと、納得するしかない雰囲気も漂い、何とも不可解な感じだった。
過激な発言で人気をとったことのある首長は、全国に数人居るようだが、中でもこの人物は、注目を浴びる存在だったようだ。成長を続ける都市の舵取りという意味では、閉塞感が漂う地方都市とは全く違った存在であり、思い切った政策に期待する向きも多かった。しかし、現実には派手な振る舞いより、堅実な行動にこそ期待ができるわけで、徐々に人気が落ち始め、厳しい状態にあったことは事実だろう。このまま続ければ、退くことを余儀なくされるとの読みも、突拍子もない行動に繋がったのではないか。発言の中にも、非常識なものが目立ち始め、派手さだけでは上手くいかないことを示していたが、中でも、教育に関することには異様さが目立っていた。初等中等教育は、大都市ではかなり難しい状況にあり、市場原理の導入以来、その歪みは増すばかりとなっていた。ただ、元々荒れていることで有名だっただけに、これ以上落ちるところはないという点が、有利に働いていたのかも知れない。一方、高等教育に関して、地方都市の関わりは殆ど無いが、大都市では公立大学の存在が、重みを持つこととなる。法人化の波は、当然これらの存在にも及び、経営の難しさに直面することとなる。ところが、この頃の発言に異常さが現れ、自らの大学経験での遊び中心から、その存在意義を認めぬ姿勢を表すなど、非常識さは極みに達したようだ。派手な首長の中には、他にも同じ行動をする人がおり、教育への見識の無さに呆れるばかりである。
改革を謳った政権が残した禍根は、本人たちの意識を上回る範囲に及び、消し去ることは容易ではない。そんな中で、大衆の心の中にまで及んだ、荒んだ心の問題の原因を、ものの考え方の水準まで下げようとする動きが出ている。この国独自の考え方を、懐古趣味でなく、正しいものと再認識しようとするものだ。
それぞれの国の文化を考えると、時代背景や人の考え方など、他の国と相容れない部分が多いことに気づく。にも拘わらず、一体化を望む声の高まりから、無理矢理と思える圧力をかけ、画一化を強いる試みは、脆くも崩れ去った。そんな失敗の経験から、本来の姿を見直す動きが起き、経営の現場に持ち込もうとしているらしい。この失敗の原因は、利益優先主義にあったとする意見に、反対するわけではないが、本質を見抜く力の不足を感じるのは、何故だろう。経済成長が極みに近づき、その中での利益追求を第一と考える人々の台頭が、社会構造の歪みを拡大させた時代が、一気に萎む時を迎えた頃、成長を望めない所に、様々な欠陥が目立つこととなった。そんな中で、改革が余儀なくされ、今の人々が利益優先と呼ぶ手法が導入されたわけだが、構造が正常な形を保っていた時代にも、利益を無視したことはなく、最優先とは行かぬまでも、追求する姿勢が保たれていた。それが、成長の天井を迎え、上を目指すことが不可能となった時、望めないものを産み出す手法として、改革という考え方が導入された。そんな言葉から、想像がつかなかったのだろうが、そこにあったのは利益を求めることを優先するのではなく、単に損失を減らすことだったのではないだろうか。海の向こうのように、新たな業態を編み出すのでなく、現状維持のままで、利益を求めれば、これが精一杯だったのだろう。それが心に及ぼす力を考えぬままに。