パンチの独り言

(2009年10月19日〜10月25日)
(感想、追い討ち、喧しい、理詰め、修行、杖、協調)



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10月25日(日)−協調

 批判の矢を射る方にいるうちは良いのだが、的とされる立場になると、状況は一変する。何も、国政だけの話ではなく、あらゆる所に適用できる話らしい。まさか、お互い様を意識する訳にもいかないだろうが、しかし、互いの立場を無視して議論をするとしたら、いかにしても解決に繋げることはできないのではないか。
 論理とは、絶対的なものと受け取る人もあろうが、現実には、その流れにおいて様々な前提が持ち込まれる。そこには、正反対な立場であれば、全く逆のものが存在し、簡単に導きだせないものが多い。そうなれば、互いの立場に理解を示しつつ、何処に向かうべきかを見据えた上で、議論を進める必要があるが、現時点で、そこまでの視野の広さを示す人は、あまりいないようだ。これは、政治に限ったことでなく、様々な場面で、そんな行動を示す人が目立つように思える。その割に、それを問題とする動きがあまり起きないのは、人々がそんなことを意識していないからではないか。自らの窮状を訴えることには躍起になるものの、他人のこととなると無視したり、批判の対象とする。この行動様式は、最近特に目立つものとなり、全体の均衡を考える傾向は、低くなるばかりとなる。その中で、互いに相手を批判し続ければ、何に向かうのか全く見えてこない。互いのいがみ合いは、それなりの解決を迎えるならば、大したことを生じることはないだろう。しかし、それを強めるばかりとなり、何の解決も見ない状況さえも、見て見ぬふりを続けて、問題を増やすのであれば、その先には何も見えてこないのではないか。庶民が振り回される状況を、問題視する動きは急だけれども、それを産んだ要因に対する考え方は明確となっていない。その背景となるのは何か、今更言うまでもないと思う人もいるだろうが、二極化という考え方には、かなり危ういものがあるのではないだろうか。

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10月24日(土)−杖

 保険殺人事件との関連は不明だが、最近の加入審査には、不思議に思える部分が多い。歩合制の影響からか、加入者数の増加は急激な形となり、海の向こうからの参入も加わり、誰でもといった感覚がごく普通のものとなった。その後、杜撰な管理が露呈し、業界への圧力が高まり、状況は大きく変化したようだ。
 支払われるべき保険金が、何の手続きも為されぬままに放置され、場合によっては、不当な理由による拒絶が起きたことは、業界への不信感を更に高めることとなり、自らの首を絞める行状は深い反省を促すこととなった。一見、是正が行われると思われた事態も、自分優先の考え方を改めるには至らず、保身に走る人々は審査の厳格化と保険料の引き上げという、手っ取り早い解決に向かった。ここまで来ると、保険とは何の為にあるのかと、考え込む人々が増え、特に老後への不安を募らせる人には、何とも辛い状況が広がりつつある。社会制度の問題は、国を運営することからも、重要な課題となるわけだが、企業が利益を上げつつ、それに参加するような形態をとる、任意保険制度については、更に複雑な問題が山積みとなっている。元々、どんな仕組みなのかさえ、一般大衆には理解できないわけだが、経済状況が一変して以来、それが理解不可能と思える状態となった。持病の有無が保険料に反映されることは、当然理解できる部分だが、その一方で、無病息災という観点からは、その手の人々には無用のものとなるわけで、そんな状況にあるからこそ、加入を望むという心理的要素を考えると、答えを導き出すことは困難となる。無駄遣いを控えることこそが、生活を守ることに繋がると見れば、将来の心配を払拭する為のものは、ある意味無駄と見えないこともない。はてさて、どう考えればいいのか。

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10月23日(金)−修行

 苦節何年、といった取り上げ方が日常的だった時代と違い、最近は、如何に賢く、最低限の努力と時間で達成するかが、重要となっている。その結果、負担のかかる事柄に興味を持つ人は激減し、楽なものに注目する傾向が強まった。それが社会に与えた影響は、敢えて言うまでもなく、空洞ばかりが目立つわけだ。
 そんな中で、修行という言葉はすでに死語と化しているように思える。目的を達成する為に、あらゆる努力を惜しまず、突き進むという姿に、僧侶に似た雰囲気を感じたのは、遙か昔の時代なのだろう。今や、あらゆる事に安直な手法が蔓延り、何事もそれで済ませるといった風潮が当然となった。それによって失われるものは、そこに生きる人々には無関係であり、今この時点の利益を貪るだけで、将来の展望には目も向けない。そんな時代が長く続いた後に、改めて人々が気づいたことは、時既に遅しといったところか。失われた財産は回復の可能性もなく、再建には新たに作るのと同程度の努力が必要となる。宝物にもそんなことが当てはまるが、それより酷い状況にあるのは、人という財産なのではないだろうか。人から人へと継承された伝統が、様々な要因により、途切れることとなった時、周囲の人々は落胆の気持ちを表明するのが精々だった。誰も跡を継がず、技術や知識が失われても、些末なこととする向きまでいて、何か大切なものを失いつつあることが、何となくだが感じられていたわけだ。それからも、一部の状況は悪化の一途を辿り、損失の範囲は広がるばかりとなったが、金銭的な損失の方が優先され、人的財産は各自に任されたままとなった。今、改めて、そんなことを考えてみると、何が足りなかったのか見えてくる。しかし、それを回復する手立ては、未だに見えてこない。

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10月22日(木)−理詰め

 思いつきでものを言う人々のことを批判する人がいる。毎日のように、そんな芝居が上演されているようだ。それがどうにも三文芝居に見えるのは、批判する人々が同じように思いつきで喋っているからで、理屈も何もあったものじゃない。茶番が演じられるだけなら、田舎芝居を見に行くのも同然と思えてしまう。
 揺り戻しが起こされた途端、以前の大揺れの張本人に話を聞きに行く人がいる。何の目的もなく、ただご意見伺いに、位のつもりなのだろうが、無価値の意見を頂戴して、何の意味があるのか。それだけの批判が集中した点を強調し、話し手の手法の不備を追求した上で、反省を込めた弁を引き出すくらいの目論見を持つならまだしも、単に馬鹿話を繰り返させるのでは芸がない。その一方で、自分たちが繰り返し使って批判され続けた手法を、敵対者が使ったことに対して、批判の矢を放とうとする人々に、好き勝手な発言をさせるのもいただけない。そこでも、強烈な批判をさせた後に、では以前の自らの行為についての見解は、と一言付け加えるだけで、全く違った展開が導かれる。その程度のことさえできぬ人々が、大衆の代弁者としてしゃしゃり出る社会では、期待すべきものは何も無いとなる。画面に登場する人々の多くは、単にその場しのぎの弁を繰り返すわけで、そこへの働き掛けは事前準備のできる側に、絶対的に有利となるのに、それを全く使えない。有り体に言えば、思考力の枯渇なだけなのだが、もしそうなら、そこにいる価値は無いこととなる。そんな大根役者共を見続けさせられた大衆は、愚民化するのも止むなしというわけか。こんな馬鹿げた状況はないと思うが、どうにも腐りきった仕組みの中では、毎度お馴染みの時代劇で十分となる。誰が悪いか、それは画面の表裏双方共の話である。

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10月21日(水)−喧しい

 振り子の振れ幅が拡大し、様相の変化が大きくなった時、それに乗った人々の戸惑いも大きくなる。しかし、他人事のように文句を並べる人も、振り子の勢いが増すのに手を貸したわけで、不平不満を叫び続けるのは、浅ましい姿を晒すだけなのではないか。過去を総括すると共に、未来像を築く必要がある筈だ。
 構造改革と呼ばれた大事業の姿を、今改めて眺めるにつけ、古ぼけた張りぼてを思うのは何故か。お題目と実体との乖離の大きさが、そんな心理作用を及ぼしているのだが、中身のない箱を片付け、そこに置くべき新たな箱の飾り付けをする姿を見て、あれこれご託を並べている人を見ると、相も変わらぬ態度に呆れるばかりとなる。民営化が全てと、何の見込みもなく、構造のみを大きく変えた人々は、そこにある問題点を列挙したが、その内、何がどう変化したというのか。そんな検討無しに、別の方向に走り出すことは、確かに無策の上の愚行に見えるが、張りぼての飾りにばかり目を奪われる識者たちも、下らない批判を繰り返すばかりで、本質に目を向けることがない。この国の人々の特質として、長い期間に渡って維持されてきた貯蓄行動は、莫大な資産として国が管理する事となってきた。その運用先が問題視され、抜本的な改革の必要性を強調した上で、箱を置き換えたはずが、有効な対策を講じないままに放置され、結果として張りぼてに転じた。その箱を取り除き、別の箱を置こうとする人々に、始めに指摘された問題点を再度示すことは重要だが、それが改革によってどんな変遷を辿ったかを総括せず、ただ先送りする姿勢には、識者たちの無知ぶりが露わになっている。要するに、問題点が本当に問題だったのか、そうならばどういう対策が必要なのか、今一度熟慮の上で指摘すべきなのではないだろうか。

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10月20日(火)−追い討ち

 他人の感情を理解するのは元々難しい。しかし、最近は理解できないだけでなく、逆撫でするような話が数多く聞かれる。何度も取り上げたことだが、被害者と呼ばれる人々は、その実情をこんな形で伝えるからだ。ただ、時によると、話の中には妄想と呼ぶべきものもあり、それさえ取り上げる姿勢に首を傾げる。
 被害者感情は、その立場に立った人間にしか理解できず、特に加害者には思いもよらぬものであると言う。虐めが社会問題となった時、かなり大きく取り上げられたが、結局理解できぬものはできないわけで、それ以上に発展させる手立ては編み出せなかった。その後も、時折この話題が取り上げられ、過去にそんな被害に遭った人間が、加害者たちを糾弾する事まで行われた。それでも、世の中全体を見渡せば、やはり依然として理解不足が否めない。そんなところからだろうか、被害者の声を中心とする報道姿勢が大勢を占め、次々に流されている。確かに、他人には理解できぬほどの心的傷害を負い、小さな事と思えることでさえ、大きな影響を及ぼすことが考えられる。そんな状況だからこそ、社会全体で支える必要があるという主張には、一理あるようにも見える。しかし、この所流れているものを眺めるにつけ、かなりの歪曲を感じるのは何故だろう。中立的な立場から眺めているとは言い切れないが、それにしても、何故これ程までに感情的な拗れを、一方的な形で流す必要があるのかと思う。感情の拗れは、一度起きてしまうと修復が難しいと言われる。まさにそれを絵に描いたような図式に、呆れてしまっては無責任と受け取られかねないが、そんな気持ちが頭をもたげてくる。何故と聞かれて、正確に返答できないものだが、何処かに矛盾を感じているからだろう。

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10月19日(月)−感想

 書籍の売れ行きは相変わらずの低迷らしい。書店の努力も限界に来ているのではないか。大規模の所では、海の向こうに習ったか、椅子を設置して立ち読みならぬ座り読みを推奨する雰囲気だが、居心地の良さが購買欲をそそるのかは定かではない。兎にも角にも、出費を減らそうと言う人の気持ちは堅いようだ。
 その一方で、この頁を覗いている人と同じように、様々な場所をネット経由で覗いている人は増えるばかりと聞く。その意味からすると、画像に限らず、活字から遠ざかろうとする人は増えているわけでは無さそうだ。それに加えて、ネットの普及は別の影響を生じている。それは、受け手の立場から、送り手の立場への転向である。それまで、巷に溢れている活字を貪るように追い続けた人々の一部が、そんな境遇に飽きたらず、飽和状態の場所に次々とものを持ち込んでいるのである。これは、当人にとっては重要な活動の一部なのだろうが、溢れきった情報の世界では一種ゴミ捨てに似た行為にも見える。そんなことを書いたからと言って、こちらが反省しているとは微塵も思っていないのだが、それにしても続々と持ち込まれる情報に、その保存場所は拡大を続けるばかりとなる。となれば、一番の問題は何か。情報とは受け手がいてこそのものであり、一方的に送り出されるだけのものは、やはり塵芥と呼ぶしかないものなのである。先日も、早朝のラジオで流れた話に対して、即座に反応が現れ、各所に感想が貼り付けられている。しかし、その大部分は本人以外の目に触れることなく、箪笥の奥に仕舞われた何かのように、世の中から隔絶された世界に仕舞い込まれることとなる。この現象をどう見るか、人それぞれとは思うけれども。

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