パンチの独り言

(2009年10月26日〜11月1日)
(国産、不足、振興、無知、循環、逃走、節約)



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11月1日(日)−節約

 無料になるのか、少額徴収になるのか、はっきりとはしていないようだが、現状からして既に問題山積と指摘されている。競合する業界があげる悲鳴を、報道機関は挙って取り上げているが、著しい偏りが顔を出しており、賛成するばかりでもないようだ。何が正しいという答えは無いものの、議論の高まりを歓迎すべきか。
 多数が乗れば、それだけ効率のいいこととなり、個別に料金をとられる移動手段より、遥かに大きな効果を産む。そこに更なる削減策が提示されれば、そちらに気持ちが流れることも理解できる。しかし、自らが操る車にのみ適用される制度では、乗車する人の少なくとも一人は、労働を強いられる。そこに生じる問題が取沙汰されることは殆どなく、ただ値段のことばかりに注目が集まる。金が全てという風潮が、その背景にあることは確かだが、人々の働きにも何かしらの対価が必要となる。その辺りが攻め所と思われるが、さて、そこまで考えを及ばせることができるのだろうか。ここまでの展開を見る限り、そんな洒落た考え方を持ち出す可能性は少なく、ただただ金のみの議論に終始しそうだ。しかし、もう少し時間が経過すれば、自然に問題が露出し始め、それにやっと気づいた人々が、何やら怪しげな話を持ち出すのではないだろうか。こんなことを考えてみると、どちらにしても、まともな話が出てくる訳ではなく、狂気の沙汰の馬鹿騒ぎを煽るか、無知蒙昧の価値のない提案をばらまくか、そんなことしか起きないように思える。それほど、分析力の減退が極まると、社会全体としての制御が難しくなる。本来は、これ自体に危機感を覚えるべきだが、現代の構成員たちは、目先の利益を追い求めることに躍起になっているから、煽られ、踊らされることに何の疑問も挟まないようだ。

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10月31日(土)−逃走

 責任の重さは、立場や地位により異なる。昔は、本人の意思とは無関係に昇進が繰り返され、各自それぞれに行き着く所は異なっていても、徐々に重みを増すのが当然だった。しかし、いつの頃からか、それに耐えかねる人々が登場し、昇進をも拒絶することが起き始めた。分相応とでも言いたげだが、本当にそうなのか。
 ある本に、仕事に当たる人間として最も不適格なのはどれか、という話が紹介されていて、何も考えないか、間違った考えを持っているのに、仕事熱心な人とされていた。責任感は一人前にあるのだろうが、その方向は明らかに間違っており、最も重大なのは、本人がそのことに気づかない、ということなのだろう。それでもそんな人は大して多くはないと思うのだが、最近の構造的な問題を眺めていると、大した人数でもない人々が、恐ろしく破壊的な行為を繰り返していたことに気づかされる。当時、それこそが最適解と信じ込み、それを実行することに邁進した人々は、初期段階で自らの行動に酔い、的確な判断ができなくなった。その為に、次々に起こる悪化傾向にも、自分たちの対応の間違いではなく、社会的な要因や外部環境によるものとする見解に終始し、落ち込みの速度を緩めることさえできなかった。結果は、現状を眺め回せばいくらでも見えてくる訳だが、その被害の程度は想像を絶する所まで及んでおり、容易に回復できるとは思えない。ただ、難しいと言ってばかりはいられず、何らかの対策を講じる必要がある。無責任な行動に終始した人々から、こんな負の遺産を引き継いだ人々は、文句や不満を言う暇も無く、ただ回復作業に専念するしかない。そこには責任という言葉も漂っているだろうが、現実には責任云々に触れることも無く、やれることを実行に移すしか無い訳だ。本来は、厳しく糾弾されるべき人たちは、今や涼しい顔をして老後を過ごしている。

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10月30日(金)−循環

 冷蔵庫を開けると、売り出し品が積み重なる。そんな光景が日常的な家庭もあろうが、無駄なく暮らしているのだろうか。安物買いの銭失い、という戒めも、最近はとんと聞かれなくなったが、食べ残しが目立つ食堂、無駄な食材が捨てられた一流店の裏口、どことなく似た光景が一般家庭にも広がっている。
 広告に掲載された安売りもさることながら、こんな光景に繋がるのは閉店間際の叩き売りの方が有り得そうだ。同じ値で仕入れた商品も、期限を切れればゴミと化す、その前に少しでも取り返そうとするわけで、仕入れの方針への影響はあっても、商品の本来の価値に響くことは少ない。しかし、最近の安売り合戦にはそんな配慮が入り込む余地はない。始めから全ての経費を絞り込み、売値を設定するわけだから、その商品の製作から流通に携わる全ての業者に、この方針が影響を及ぼすこととなる。消費者が望むことだから、というのがいつもの殺し文句であり、その一言で、全ての悲鳴が押し殺される。しかし、生産者と消費者の立場の違いは、それぞれの商品には存在しても、全ての商品に対して、常に生産者である人も、常に消費者である人も、世の中には存在しない。そう考えると、自らの生活を健全に築くことが、生産から消費までの全体の健全性を保つ為に、必要不可欠であることが容易に分かる。にも拘わらず、世の中の流れは逆向きにあるのは何故か。考えが及ばぬほど知能が低いのか、一時の利益を追い求める性格から来るのか、いずれにしても、この状況が続けば何が起きるのか、一部の識者たちは執拗に指摘し続ける。それらの声が届かない理由は、また、彼らが耳を持たないのか、理解できぬほど低能なのか、その指摘から始めるべき時かも知れない。賢く生きる為と信じ込んでいる人々には、永遠に届かない声なのだろうから。

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10月29日(木)−無知

 面白いと見る人もいれば、つまらないという人もいる。攻守ところを変えて、舌戦が繰り広げられているが、どうも面を付け替えただけとも映る。別の見方をすれば、批判された事柄をそのまま使う連中に、天に唾する姿が見える。所詮その程度のものと見ればいいが、その程度では好転の期待は持てないとも。
 茶番と見ればそれまでのことで、すると何も変わっていないことになる。では、何が変わったかと言えば、攻守交代だけであり、現時点で何か大きく変わったところはない。となれば、それ自体が攻撃目標になると思う人がいるが、これは大きな間違いではないだろうか。これまで綿々と続いてきたものを、別の形に変えるのは一朝一夕ではできない。何かしらの準備と、その実行による変化への対応が必要であり、その成行を見守ることこそが現時点での対処法だろう。にも拘わらず、人のことに口を出すしか能の無い輩は、既に泥沼化したかのような言動を繰り返す。信頼こそが全てと思われる世界で、それを自ら捨て去ろうとする行為には、幾ばくの知性も感じられず、そんな連中を放置する社会には、やはり期待が持てないこととなる。以前から、この手の人々は社会の病巣深くに巣くっていたが、当時の連中はある意図を持って行動していた。自らの利益にする為の方策を講じ、殆ど全てのことに意図を持っていたわけだ。誰かを貶めようとする時も、当然そんな意図が露わになるわけで、分かり易いとも言えたのだが、最近の傾向は、大きく変化しているように見える。自らの利益を追求するわけでもなく、一種の正義感から、誹謗中傷を繰り返すのは、理解に苦しむ部分である。要するに、何も考えずに旧態依然のことを繰り返すだけで、社会に対する訴えも存在しない。実は、これこそが最悪の集団なのではと思うが、どうなのだろう。

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10月28日(水)−振興

 無駄な金を使いたくない。誰もが思うところだが、何が無駄なのかははっきりしない。確かに、無駄遣いを避けることで蓄財が図られ、老後への不安が解消されることもあるだろうが、それにより失うものがあれば、事は難しくなる。もの自体の有用性と共に、必要不可欠な物の値段も重要な要素だろう。
 そんな考え方から、安売り合戦は資本主義社会において、重要な戦略の一つと見なされてきた。同じ品質の商品を、他より安く売れば、一つあたりの利鞘は少なくても、全体としては勝ち抜くことができる。ということなのだが、ごく単純な考え方として、受け容れられているものである。最近の国内事情は、まさにその状態にあるわけだが、数十年前に海の向こうで展開されていたものと、そっくりに見えるのは面白そうだ。こういった場合、より安価な商品を提供する為に、二つの要素に目が向けられる。一つは原材料であり、同程度の水準にあるものを如何に安く仕入れるかが問題となる。当然、従来からの取引相手に限定することは、その選択の幅を狭めるだけに、全く違った考え方が必要となる。それが如実に表れるのが、国外の取引相手を探すことだろう。もう一つの要素は、人件費の削減である。輸送費が嵩むことを差し引いても、生活水準が遙かに下の国で生産すれば、全体の経費は十分に抑え込める。そんな考えから、当時の衣料品は東南アジアから輸入されていた。この二つは、世界全体から見れば、格差が十分にあることが必要条件となり、それを維持し続けることが、重要な政策となるとも考えられる。これ自体も、何処か恐ろしい感じのする部分だが、もっと怖い点は、国内の産業の衰退を加速するところだろう。現在、それを指摘する声もあるが、よく見ると、海の向こうは依然として経済優位を保っている。一部特定のものは消え去っても、全体として存在できれば、という意味なのだろう。

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10月27日(火)−不足

 最近、週末に制服を着た高校生を見かける。長く続いた週休二日制は、私立から崩れ、今や公立にまで横並びとなった。正規の授業が行われているのか、それとも別の活動があるのか、などと思いながら眺めていたが、どうも所謂補習なるものが行われているらしい。足らないことが端から分かっている補習、不思議な響きだ。
 目的意識を強く持たせることが、最近の教育現場での課題のようで、何かとその手の話題に触れる。まるで、薬の効用を説くが如く、直接間接に拘わらず、様々な指摘を為すことで、各人の意識の向上を図るという。それを流石と見る向きもあるだろうが、表面的なものが並べられるのを見ると、とてもそう受け取るわけにはいかない。絵に描いた餅が食べられないのと同様に、机上の理論は実生活には適用できない。ただ、目の前にいる、問題を抱えた子供たちを、無理矢理何処かに導こうとする為の方策なのだから、場当たり的なものに過ぎないわけだ。その一環として、卒業後の勝利を約束する為の、補習実施となれば、目の前の餌に飛び付く連中が、ついてこない筈はないのだ。しかし、早晩、その結び目は解けてしまう。ただ、眼前の壁を越える為だけの方法が、次なる問題解決に結びつくものになる筈もなく、その度に、解決手法なるものを授けてもらおうと走り回る。そんな人間ばかりを量産していけば、目を塞いだままに突き進む人間が、巷に溢れることとなる。まるで、その準備の為のような、現代の教育現場の実情を伝え聞くに、本人たちの問題も大きいが、それ以上に、教える立場にある人々の考え方に、更なる不安が膨らむこととなる。これこそが必要不可欠なものと、信じ込むことによって行うことが、余りに的外れであるばかりか、悪影響を及ぼすばかりとなれば、さてどうしたものか。

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10月26日(月)−国産

 週末には、各紙を書評が賑わすこととなる。書籍の売り上げがまだ高かった頃、これはこれで重要な情報だったのだろうが、最近はどうなのだろう。ひょっとすると、公立図書館の蔵書購入希望への反映が最も大きな事かも知れない。節約という意味に受け取る向きもあるようだが、そんな気がしないのは何故だろうか。
 書籍の売れ行きが低迷する原因を、消費者の側ばかりに求めるのは不公平かも知れない。ある出版社が長い低迷期を経て、結局、潰れてしまった時、やはりという感覚が過ぎったのは、当然のことだろうと思う。何故なら、それまで質の良い本を出し続けていたのが、ある時期から急激に方向性を失ったように見えたからだ。海外の良本の翻訳も売りの一つだったが、その当時は、怪しい論を展開する著者に救いを求め、逆効果が積み上がることになっていた。そこには、業界を支えようとする気概は見られず、目先の利益を追う心情が現れていたのではないだろうか。それでも、名の売れた企業であれば、その価値を見出す人々が現れ、再建が図られる。再出発後の展開は、まだ取り上げるほどの効果を産んでいないようだが、暫く様子を見る必要があるのだろう。そんな流れの中で、最新の書評を眺めていて、ふと思うことがあった。そこに並んでいるものの多くが、翻訳本だったのである。確かに、価値の高いものを紹介することは重要だが、その一方で、自分たちの仲間が出す本が、その域に達していないのは淋しいことである。特に、世情を反映した書籍の殆どが翻訳となれば、何故かと思いたくもなる。更に、文学の分野でも紹介されるのが若手ばかりとなると、何故かと思いたくなる。こんな所にも、低迷の原因が潜んでいるのではないだろうか。

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