パンチの独り言

(2009年11月2日〜11月8日)
(奉仕、真逆、停滞、厳格、権衡、引責、対策)



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11月8日(日)−対策

 傾向と対策、誰もが一度は聞く言葉だろう。特に、学歴社会では最も重要な言葉として扱われ、その構築の成否が将来の道を決めるとまで言われる。これさえ十分に整えておけば、如何なる事態にも対応可能だと思う人もいるようだ。しかし、現実はそんな状況には程遠く、様々な場面で対応の不備が指摘される。
 入試対策として、こんな手法が導入され始めたのは、戦争の如くの様相を呈していたのを過ぎた頃からか。艱難辛苦の末、希望校に入学できた人を除き、多くの人は更なる苦労の年を過ごすこととなった。始めは、それ専用の学校など存在せず、卒業した学校の教室を借りた形だったのだろうが、需要の高まりと共に、各地に小規模から大規模まで各種の予備校が出現した。それでも、対策と呼べるほどのものはなく、ただ反復を主体としたことが行われていたのだが、情報の蓄積が増すに従い、傾向の分析が行われ、そこから予想される対策の伝授が始まった。これ程明確に実績を示せる業界も珍しく、その効果が著しくなるに連れて、受験前の対策にまで手を伸ばし、始めの言葉が認知されることとなった。その後の伸びもさることながら、他の場面への波及も急速で、傾向と対策が全ての事柄に通用すると言われるようになる。が、現実にはその栄華は長くは続かなかった。旧態依然とした入試には何の問題も生じないものの、一つの型にはまらない現実社会の出来事には、確率での勝負は大火傷の原因を作り、臨機応変さとの違いが大きくなるばかりとなる。想定されたことに対応できても、想定外のことは度々起こり、その都度無様な姿を晒さねばならない。要するに、形だけの対応には所詮限界があり、心構えなどの本質的な部分に、もっと注目すべきということだろう。では、その為の対策は、となっては元の木阿弥なのだが。

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11月7日(土)−引責

 責任を感じるとは、どんな心境になることだろうか。人それぞれに反応は違うだろうし、責任の取り方さえも大きく異なる。そんな中で、世論に厳しく糾弾される人たちを眺めると、様々な印象を覚えることとなる。それは、世論は一概に責任追及に躍起となるが、各事例ごとに責任の形が大きく異なるからだ。
 馬鹿の一つ覚え、などと評したら失礼かも知れないが、そうとしか思えないほど、分析力の欠片もない話が連なると、辟易とするしかない。責任問題に対して、この国の取り組み方はある極端さを持っているとも言える。つまり、それらの殆どが感情的なものであり、冷静な分析から来る意見がまず出されないこと、たとえそれが出されたとしても、その多くが黙殺されるか、矛先がそちらに向くだけのこととなる。何かしらの間違いならば、それが起きた原因を探ることが大切だろうし、場合によれば、そんな分析は後回しにして、早急な対策を講じることの方が重要となる。どちらも行えず、ただ闇雲に責任追及に専心するのでは、何ともはやの事態となる。ところが、当事者たちはその雰囲気に飲み込まれ、ある意味酔い痴れることとなるのだ。下らない行状としか思えないものでも、世論の後押しさえあれば気を強く持てる。そんな背景が見え見えの状態で、さて正しい道を歩んでいると言えるのかどうか。感情に流され、振り子のように振れる世論なる怪物に、擦り寄るばかりの考え方では、結局何の役にも立たない。処分を受けてさえも、更なる追及の矢を受けねばならぬとしたら、本来の務めは果たせなくなる。失敗を取り戻す為にも、次の機会は重要となる筈だが、批判者はそんな視点を持ち合わせていない。こんな社会では、善悪や正誤の区別もあやふやになるように思えるが、どうなのだろう。

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11月6日(金)−権衡

 将来への借金の話、何故これ程までに強調されるのか。誰もが膨らみすぎた借金で、首が回らなくなることは、想像したくないのは事実だが、国の借金に対して、こんなに肩入れする理由が思い浮かばない。数字の上での話を目の前に広げられ、冷静で居続けるのも難しいものだが、少なくとも自分自身のことではないのだ。
 こんなことを書くと、すぐに反論が返ってくるだろう。他人事のように振る舞うから、こんな事態に陥ったのであり、その責任は重いと。では、と問い返したくなる。他人事のように緊縮財政を訴える一方で、好き勝手で楽な生活を望むのは、どんな考えの上なのかと。足りない収入を補う為に、多額の借金を申し込むのは、個人の家計では破綻への急降下と受け取られるが、こと国の事業に関しては、それ程事情は単純ではない。要不要の判断が個人の手の中にあればよいが、様々な人々が入り混じる社会で、一様でないものを相手に舵取りをする為には、ある程度の出費を維持する必要があるのだ。その証拠に、今でも多くの人々はその手の恩恵に浴しており、それに目を向けずに不平を訴えるのは、何とも無様なものである。借金に対する文句があれば、それへの対案として、収入増の策を出すべきであり、単に支出減の主張で十分と考えるのは間違いであろう。減税措置、補助金など、次々と繰り出される経済対策においても、その財源に関しては、何の方策も講じられていない。そんな余裕はない、という主張が聞こえてくるが、それと借金の話を同時にするのは、卑怯千万である。生活支援、援助を経済の活性化に繋げるのであれば、その一方で増税があっても良いのではないか。まやかしに過ぎないと言われればそれまでだが、金の循環にこそ活性化の核心がある。こんな時こそ、平衡感覚が重要になるはずではないか。

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11月5日(木)−厳格

 優しいと厳しい、どちらがよいかと問われれば、殆どの人は優しいが良いと答えるだろう。では、それはどちらの立場に立った時か、と尋ねられたらどうか。受け手の側を挙げる人が多いのではないだろうか。他人に優しくするより、他人から優しくされたい、という望みは、特に変わった話ではない。
 当たり前に思える答えなのだが、その割合の多さに驚かされる。受け身の時代と言われるから、こんな傾向も当然と言えるのだが、これでいいのかははっきりしない。始めの質問に対しても、一部の人は厳しさを選び、他人との関わりにおいて、優しさだけでは伝えられないことを理由とする。職人の世界では、特にこういった考え方が重視され、手取り足取り技術を伝えることは、不可能と受け取る向きが多い。手に職をつけたい人にとって、それが一番大きな壁となり、短い期間で去る人が出る最大の理由と言われる。気持ちの強さを計る手立てとの解釈もあるが、現場ではそんな小手先の考えは通用せず、全てにおいて厳しさが重要なのだと見ているようだ。今でもそんな環境が残る場所もあるが、殆どのところは、優しさ優先の空気が漂っている。手取り足取り、優しく教えることで、十分な理解が促される、というお題目は兎も角、教える側でなく、教わる側にその気持ちが強いことは、様々な障害を産む原因となっている。ただ、社会風潮がそれを強いる状況にあるだけに、敢えて抵抗してまでも、持論を貫くという姿勢を保つことは難しい。叱られることに不慣れで、自己主張ばかりが強い人々には、厳しい環境は針の筵にしかならない。ただ、一度乗り越えさえすれば、その意味を理解することもできる。新しいことに挑む際に、手が差し延べられるまで待つ姿勢では、成果は得られにくいのだと思う。

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11月4日(水)−停滞

 上昇も下降もしない一時期のことをプラトーと呼ぶ。英語ではplateauと綴るのだが、元々は高原という意味で、上昇したところの一時的な停滞状態のことを指す。その後、どんな変遷を辿るのかは別にして、踊り場と評されたり、閉塞感が問題視されたり、何やらこのところ話題になることを指しているようにも見える。
 進化と聞けば、ただ進むだけと受け取る人も多く、進歩とは何かが良くなることを意味するとなる。しかし、生物の進化においても、全てのものが良くなったわけでなく、一部には失われたものもあり、全体として適応などの変化が起きたに過ぎない。にも拘わらず、何かしらの最適化が行われ、より良い状態になったと信じる人には、社会の変遷は理解しがたいものに映るのではないか。気づかぬうちに、様々なものが失われ、姿を消していくのを、ずっと後になってから、はっと懐かしむ気持ちになる。注目を集めるものには、大きな力が注がれ、より大きな存在になるが、その一方で、次々に消え去るものがある。場合によっては、忘れ去られることによる消滅でなく、かなり大きな外力により無理矢理潰されることがある。関わった人々には明確にその変化が見えるのに、目を向けることのない人々には気づかれない。その内、いつの間にか消え去ったとなるわけだが、それでは何ともおかしな話ではないか。よく見渡せば、周囲にそんな例が数多転がっており、失われたことに呆然とする場合もある。しかし、直接手を下したわけでないにしても、目を向けなかったことによる関与がないわけではない。町並みの変化や自然の風景などについても、同じことが当てはまると思えるが、こんなことは自分たちの生活に比べれば、ほんの些末なことに過ぎないのだろうか。

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11月3日(火)−真逆

 急な変化に惑わされ、大局観を失ってはいけない、などと言われるが、さて、急な天候の変化に、どう考えたらいいのか。確かに、色々な考え方があり、見方も様々だから、これという答えはないように見えるが、一方で、世の中はある方向への変化ばかりが取り沙汰され、その対策ばかりが注目される。
 政治的な発言は、世界各地から同様のものが発せられ、如何にも統一されているかのように映る。しかし、別の情報源からは、一部の専門家の発言が隠されていることが見える。天変地異の予測について、この国では以前活発な議論が為された。その結果、可能を主張する派が力を得て、その後の経過は今に至っているわけだ。ただ、最近は無理難題との解釈も起こり、正反対の勢力が盛り返している。結果が全ての世界では、一度も当たらないものに期待は持てないということか。この話とは違い、将来の気温変化がどうなるか、という予測は可能不可能が問題ではなく、どちらの方に進むかが問題となる。ただ、予測自体が可能かどうかは、議論の余地は残っているだろう。その中で、正反対の予測のうち、一方だけに注目が集まるのには理由があるようだ。利権争い、投資対象の開拓、技術開発、等々、数え上げたらきりがない。その中で、最も大きいのは様々な権利が複雑に入り組む仕組みの導入で、それにより新たな産業の振興までも図られていることであり、政治の介入が大きな影響を及ぼすと考えられている。だからこそ、一方のみに耳目を集め、その数字目標の設定などに躍起になるのは、当然のことなのかも知れない。ただ、このまま進めば、早晩変化の方向は見定められ、舵取りにも大きな変化が起きるかも知れない。その時こそ、的確な判断が求められるのだと思う。

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11月2日(月)−奉仕

 サービス残業なる言葉がある。いつ頃から使われ始めたのか、とんと記憶にないものの、おそらく、右肩上がりが止まった頃から、突然取り沙汰されるようになったのだろう。それまでも、超過勤務が合法の範囲を超え、二進も三進もいかなくなる例は多々あり、それぞれに工夫を凝らして、規制を躱してきていた。
 互いに納得ずくで行われてきた習慣が、一方的な指摘を受けることとなり、放置できない状況に追い込まれた。しかし、この残業は真に必要なものか、そんな指摘も時々為されるようだ。通常の勤務時間中は、まさに昼行灯の如く、動いているのかどうか定かでなく、終業時刻になった途端に、何やら動き始めるという人がいる。そんな馬鹿なと思うかも知れないが、特に経費削減が叫ばれるようになってから、この話を頻繁に聞くようになったから、これもまた、同時期から始まったことなのかも知れない。奉公という感覚は、既に失われてしまったものとはいえ、何となく、そんな雰囲気さえ漂っていた時代と異なり、今は、企業の都合でなく、自らの都合が最優先される時代である。そんな中で、少しでも実入りを増やそうとする努力は、涙ぐましいものがあると言えるのか。はっきり言えば、ふざけた話であり、厳しく処分すべきものである。真面目にコツコツと働く人々と比べて、彼らの上げる成果は大したものではない。無責任な行動を放置することは、更なる無責任を産む温床ともなる。一方で、以前なら当然と思われた到達目標設定も、こんな風潮では時間のみが考慮される。無駄な働きとは、自らの労働を時間で切り売りする時に使うものであり、決して無駄な中身ではない。こんな中で、評価制度の整備が行われれば、矛盾に満ちたものになるのもやむを得ないのだろう。

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