読んだ本には、新たに出版されたものが多く含まれるが、時々古いものを入れている。意図的に、という訳でもないが、ふと気になったものに触れてみる。古いものを毛嫌いする向きもあるけれど、長く残ったものにはそれなりの魅力がある。時代が変わっても残る魅力もそうだが、変わったからこその魅力も。
古典と呼ぶには少々無理があるものの、それなりの時代を経て残ってきたものには、何とも言えぬ風格がある。そんな思いを抱きながら読み進めば、そこから湧き出る知識のようなものが感じられる。自分の判断で選び出した本の場合は、こんな流れが起きるのだが、世間の評判に押されて選んだものには、そんな感覚が出てこない。多分、こちらの心持ちの違いからくるものなのだろうが、何故そんなことになるのかは、はっきりとは解らない。違いについて、それ以上に考えることは無かったのに、最近、そんな本が紹介され、一部で人気を博しているのを伝え聞いて、思い当たることがあった。何故、今の時代に人気が出ているのか、簡単に言ってしまえば、それを必要とする人が増えたからである。それも、ずっと以前から増加の一途を辿っていたのに、そんな本のことを思いつく人もおらず、ずっと埋もれていただけのことだ。いざ、誰かがその効用を紹介すると、あっという間に飛びつく人が出てきた訳で、今の世情を表しているに過ぎない。著者によれば、考えることの大切さを論じた内容であり、そんな当然なことが必要となるような時代になったということだろう。書かれた時代はその始まりにあたり、今は更に病状が悪化している。そんな所から、この流行が起きたという訳だ。ただ、悪化があらゆる所に及んでいることが、どれほど重大かに触れられなかったのは、やはり時代のせいと言うべきか。
上下関係に関しては、様々な考え方があるだろう。個々の違いを論じても埒が明かないのは、単一なもので成立するのでなく、複数のものが互いに関係することで、成立するからである。だから、よく聞く「上が馬鹿だから」とか、「下がちゃんと動かない」といった不満は、正しい指摘でも、的外れとなる。
他人を批判することで、自らの地位を守るやり方は、万国共通、何時の時代にも見られるもので、一部の人の専売特許ではない。しかし、自分の周りを見渡してみて、こんな人がうようよ居る状況だと、何処か他所の出来事と見なすこともできない。批判をする人を批判しても、この状況を打開することはできず、注意を全く別の方に向ける必要がある。その為には、上と下の関係を良くする工夫ではなく、組織全体を円滑に動かし、好結果を産み出す為の工夫が必要となる。では何を、と聞き返すようでは困るのだが、現実はそんな状況にある。しかし、皆、批判、批評に慣れてしまい、それで自分の責任を果たしていると信じているわけで、これじゃあ、何も起こせる筈もない。互いの欠点を指摘するのではなく、それを補う為の提案を出すことこそが、打開策となる訳だが、こんな助言をしたとしても、中々話を進めることができない人が多い。もう少し考えてみれば、何かしらの案を浮かべることが出来るが、そちらに向けるべき思考が存在しないらしい。困ったものだが、それでは何も出てきはしない。まずは、上下関係から目を離し、自らが考えられる範囲で、工夫を施す努力を積んでみたらどうか。もし、それができないとしたら、例え馬鹿げた話でも、批判を口にせず、大人しく黙っておけば良い。どっちもどっちなら、こんな図式もやむを得ない。
上から下への動きが、下からの動きに転換したが、いつの間にか、上の方に戻ったように思える。組織を運営するために、どちらがより良いかを論じたとしても、場合による違いの方が大きいから、簡単には結論に至らないだろう。どちらにしても、片側からの視点に限定した途端に、破綻を来すこともあるが。
広い視野を持つことは、どの立場に立ったとしても、重要なことになると思われるが、その割には、普段見かける人々は、それぞれに視野狭窄の症状を呈している。彼らなりの振る舞いとも言えるが、散漫になることで陥る問題より、集中することで一部の問題を無視する方が、結果的に無難となるから、こんな傾向が強く残るのだと思う。しかし、一時的な成果に限れば無難でも、長期的には欠陥だらけとなる話が多く、それを避ける為には、無理を承知でも視野を広げる必要がある。その上で、絞り込みの対象を探し出し、それらについては別の形で取り組みさえすれば、一般に考えられるよりまともな結果が得られる。下に居る者にとって、上の視野狭窄は甚大な被害を及ぼすけれども、それを未然に防ぐことは難しい。それより、上に従う選択が優先され、その中で最善を尽くす方が、遙かに良結果を産むのだろう。ただ、これも短期的な話に過ぎず、長期の展望を持たない管理者からは、崩壊しか生じないこととなる。となれば、選択肢は限られ、早晩退去を余儀なくされるわけで、その為の活動も必要となる。一方、上の立場についてしまった場合には、自らの視野を広げる為にも、下からの情報収集が重要となるだろう。これも言葉だけなら理解していても、実行するには更なる工夫が必要となる。ただ闇雲に聞いて回るだけでは、不十分となるだけで、労多くして功少なしとなるからだ。では、どうすればいいか、はて。
何でもかんでも整えてやればいい、という考えが世の中に蔓延っているように見える。下らないと切り捨てるのは簡単だが、その為に自らの身を危うくするようでは、大変な事態となる。何度も書いているが、安定した時代には恰も正解と思えるものが存在する気になる。この認識の誤りは重大だが、その指摘には勇気がいる。
親が子に様々なことを施す時代となり、世間的にはそれが当然と見る向きがあり、実現できなければ差別されるが如くの話が、まことしやかに流されている。こんな馬鹿げた事態にしたのは誰か、これ程簡単な質問にも当事者たちは答えることができない。自分で自分の首を絞めることは、周囲からははっきりと見えても、不安に駆られる人々には全く見えないものらしい。不安を煽る風潮とも重なり、その及ぶ範囲は広がるばかりとなったが、いまだに勢いは衰えないようだ。何処までも手を尽くし、本人たちの為と称して、様々な手立てを講じる。ごく当たり前に思える行為なのだが、これが次の時代を背負うべき世代に、どれ程の悪影響を及ぼしてきたかは、全く認識されていないように見える。傾向と対策を紹介することもその一つだが、困難に直面した時に手を差し延べるのも重要な役割と思われている。しかし、自ら切り開くことこそが、次の段階への道との認識が一般的だった時代には、見て見ぬふりこそが重要とされていた。いつの間にやら、次々に提案がなされ、市場原理と呼ばれる化け物と兼ね合いから、その勢いが増すばかりだった時代に、捻れ始めた考え方はその絡まりを解く必要を認めない。依然として、要求に応じる形での方策が出され、自立できない人々を量産するのは、どんな意図から来るものなのか。依存させることの思惑は何処にあるのか。
同じような事件が連続して起きると、話題として取り上げられることがある。これは社会的傾向か、という話題で、時代背景、風潮などという言葉が並べられ、恰も外的要因だけがそこにあるかのように映し出される。しかし、現実には各事件に関わる人間がおり、彼らなりの事情があるわけで、その方が大きいようだ。
実際には、そんな下らない分析に精を出す人々は、何処かにうっちゃっておいてよく、それぞれの事件の問題を解決する方が重要だろう。分析力のない人間ほど、こういった方向に目が向くようで、結果として何の役にも立たないものしか産み出せない。それより気になることは、人の移り気な部分であり、連続する話の中に、共通点を見出した途端に、その内の一つにしか興味を示せなくなる点である。噂話の賞味期間の問題より、こちらの方が深刻であり、どちらがより凶悪かなどと論じるならまだしも、一時の盛り上がりなど何処かに飛んで、あっという間に忘れ去られることとなる。忘却がなければ新たな記憶はあり得ない、という話も時に聞くことがあるが、この事態にはそんなこととは別の力が働いているような気がする。それはつまり、大元から興味本位で扱う姿勢があり、深刻な問題との受け止めは全くないことにある。分析も所詮そんなところから出ているから、杜撰なものに騒ぎ立てるばかりで役に立たず、そんなものに振り回される人々の愚かさは、それこそ深刻な状況にある。どのみち、そんな扱いしかできないものを、如何にも重要な振る舞いをするのでは、早晩馬脚を現すこととなるわけだが、そうさせない為には、視線を動かすことが肝心となる。目先を変える動きが急であれば、そこに疑いを挟む必要があるということだ。
ここまで頑張ってきたのに、という思いで過ごしている人がいるかも知れない。社会に出る機会を得る為に、様々な努力をしたにも拘わらず、どうにも八方塞がりの状況に陥ってしまった。このままでは、行くあてもなく放り出されることになるわけで、どうすべきか迷うところなのだろうが、足掻くべきかどうか。
こんな話題が巷に流れているが、どの程度の割合の人々に当てはまる話なのだろう。内定率なる数字はその度に流されるものの、最終的なものはまだ確定していない。例年であれば、年明けから更なる活動が双方からなされ、駆け込みに近いものまで登場するが、こんな年にはどうなるのやら。見通しが立たぬままに時が過ぎるのには、何とも言えぬ居心地に悪さを感じるが、当事者たちはどんなことを考えているのか。救済を申し出る人々には、窮状を訴えることに必死になっているが、その他の場面では何やら批判めいた声が聞こえてくる。確かに、社会全体の流れとしてこういうことが起きるわけだが、それにしても全てに当てはまるわけでもなく、ほんの一部の人々が憂き目を見るだけのことだ。他との違いは、恵まれた時期には目立たず、こういう時に初めてその姿を現す。それまでの努力を声高に訴える人もいるが、他との違いを冷静に分析する声は聞こえてこない。救いの手も重要と思うが、何時でも何処でもそういったことに頼る形で、社会が成立するはずもないだろう。社会という実体が見えぬものを相手に、批判を繰り返すことは容易だが、鏡に映る自らの姿に、どんな評価を下すべきか、今一度考えてみるべき時かも知れない。試練は思わぬ時に降ってくるものだが、こんな時こそ良い機会と見て、臨むべきなのではないだろうか。ここで逃げを打てば楽になるかも知れないが、先送りの一種に過ぎないことを気づいて欲しい。
変化が継続している時期に、見解を求められることには、抵抗を覚える人も多い。それまでの傾向から、今後の成行を予測し、その上で意見を述べるとなれば、不確定要素が多々あるからだ。そのもの自体の調査能力も重要だが、それ以外の要素についての状況把握も必要となり、多様な知識が要求されることとなる。
社会的な影響が大きければ、このような経緯で出された見解も、大きな意味を持つこととなる。それが判っていれば、更に躊躇する気持ちが大きくなる。ただ、有識者としての見識を問われる状況では、ただ濁すだけでは期待に添えない。そんな葛藤の中から、それなりの答えを導き出すが、その多くは的確性を失ったものとなる。予言者なら兎も角、いたって現実的な答えを期待され、的外れと期待外れが微妙な関係にある場合、安易な導出では批判に曝されかねないわけだ。今現在も、数々の問題が山積みとなり、各方面で見解を求められる人がいる。経済の動向は、既に十分理解されているものの、先読みを期待されているし、感染爆発に至っては、十分な理解もないままに、恐慌状態に陥りかけているから、論理性とは異なるものが期待されている。この世の中の趨勢に沿うような形での見解は、ある意味期待通りのものであり、歓迎されるものとなるのだろうが、その場しのぎの嘘になりかねない。感情の高まりがそれに更なる拍車をかけ、狂騒の果てに混乱が起きても、その責任を負う人々かどうかは判らない。結局のところ、見解を発する人やそれを仲介する人の責任を問うことより、自らの判断でその本質を見抜く力を育てるしかないのだろう。情報過多の時代だからこそ、それを巧く操り、選別する力が問われることとなる。ただ振り回される人にとっては、更なる試練の時代となっているのだろう。