同じ品をどれだけ安く売るか、小売店の腕の見せ所という人もいる。しかし、大量仕入れ、大量販売を常とする大型店ならまだしも、小規模の店にそんな芸当ができる筈もない。それでも、真心や気配りなどという無形のものの価値を見極める客からは、大規模店にない魅力を見出され、それなりに生き残ってきた。
ふと気がつくと、町のあちこちにあった、そんな店は姿を消し、郊外に大きな施設が姿を現した。経営者の高齢化と後継者不足は、こんな所にも影を落とすが、理由はそれだけではないだろう。何が重要かの順序が固定化し、拝金主義の台頭と相俟って、金額が全てという時代が訪れた。少しくらいの手間をかけてでも、最安値の店を探し出し、場合によっては他店のチラシ持参で、値引き交渉に臨む。確かに、同じ品なら安い方がいいと思うのも当然だが、それに伴って起きるかも知れない煩雑な事柄には、気持ちが動かなくなった。それでも、一部の地域では、そんな店が生き続けていて、消費者の要求に応じるべく、無形の奉仕を続けている。それ自体を珍しく眺めていたのも束の間、いつの間にやら様々なことに他人を頼らねばならない人の数が増え、様子が少しずつ変わりつつある。余力のある大型店では、そんな要望にも応えようと努力するが、近所付き合いの力を上回ることは難しい。どんな成り行きになるのか、今すぐに答えは出せないだろうが、ある分野では多分送受信の仕組みの変更が為される時に、何かしらの解答が得られるかも知れない。閉塞感が漂う社会では、安値の魅力が最優先のようだが、これとてどんな経過を辿ることになるのか。自分の所に戻ってきて初めて解るようでは、手遅れとなるに違いない。
将来の為に、という表現では十分ではなかったらしく、最近では、子供たちの為に、といった言い方が使われる。不特定多数を重視した社会通念は抹消され、身近な人々のことだけを考えることが主体となる。世も末と見る向きもあるが、元々そこが始まりであり、最近の傾向は終わりが変わっただけのことだ。
自分のことしか考えない、と揶揄される人物は何処にでもいるが、自分のことを考えない人はいないだろう。他人の為に尽くす人々でも、それを続ける為に自分を無視することはできない。主体があってこそのことだが、どうもそこで留まる人の数が増えているようだ。世知辛い世の中、と言ってしまえばそれまでだが、自分のことは自分で、という話を改めてするようになった頃から、この傾向が強まった気がする。そんな時には、他人の為にと強調する人も増え、その姿勢に疑問を感じることが多くなった。自分の為と言えば批判されるから、社会、世の中の為に動くと言うのだが、そこには恣意的なものが強く感じられる。本心は隠して、建前を強調する。そんなやり方が普通になり始めた頃から、何かとやりにくいことが増えた。そんな中で将来ではなく、子供たちの為となるから、おやおやと思うのも無理はない。結局のところ、自分を中心に考えることが唯一の道であり、そこから何かに繋げるしか方法はないのだろう。もしそうなら、言葉遊びはそろそろ止めにして、問題を今この時に解決する手立てを考えるべきだろう。将来の予想が不可能なのは、これまでの世界の流れを見れば明らかであり、それを頼りに進めねばならない話では、やはり無理が生じる。この際、身近なところに焦点を絞って、自分のこととして扱える話を始めたらどうだろう。
氷河期再来、何とも物騒な見出しが誌面に躍る。これを見て、何を思い描くのか、人それぞれと思うが、三十年前のことを思う人もいるだろう。その間にも、一度落ち込みがあったが、それもほぼ中間地点、周期性は何となく保たれていることになる。それぞれに背景は異なるが、渦中の若者は悲劇を演じるしかない。
見出しは大層なことなのだが、そこに示される数字は6割となっている。これを少ないと見るか、多いと見るかと問われれば、大多数が少ないと答えるに違いない。失業率が1割にも満たない国で、4割近くが職にありつけないなど、以ての外というわけだ。だが、彼らの行く末が全て悲劇かというとそうでもない。本来なら最終教育機関である筈が、今やおまけ付きとなっており、救済策が講じられている。その意味では、三十年前とは状況が一変しており、比較の対象にさえならないわけだ。環境の変化が大きい一方、当事者たちに起きた変化は、それを更に上回るほど劇的なものだろう。職を得る為だけに進学し、ただ無益な4年間を過ごした人々は、天から降ってくるものを待ち受ける。そんな図式が確立されていた筈が、いつの間にやら、他力本願は通用しないと言われる。今更重い腰を上げようにも、何から始めたらいいかさえ解らぬ人々は、戸惑うばかりだろう。そんな連中にとって、あの見出しは救いの手に見えたのではないだろうか。社会問題として取り上げられれば、何らかの救済策が降ってくる筈、とばかりに、また餌を待つ犬のような姿勢となる。懲りない、と言うべきか。そんな彼らに、興味のあることは、と問うた人は、無反応に驚き、思いつきの言葉並べに驚く。まさに、頭の中が見出しのみとなり、内容が伴われることはない。どんな使い方ができるか、採る側には重大な課題となる。
「いただく」「あげる」、この手の言葉を聞かない日はない。それ程一般化した言い回しなのだが、その割に聞き心地は良くない。使っている人たちの慇懃無礼ぶりから、という感覚もあるが、どうもそれだけではなく、何か別のことがありそうに思える。言語は生き物だから、と許容する意見もあるが、そうだろうか。
若者の新鮮な感覚から来る言葉には、生き物という表現が当てはまるように見えるが、上で取り上げた表現は、全世代に渡るものであり、特殊な集団の所有物ではない。その意味では、恰もお墨付きをいただいた表現かの如く、扱われることがある。しかし、「あげる」については、以前も触れたように、ある俳優が出ていた短い番組で、言葉の問題を取り上げたものがあったが、その中でその間違いを説明していた。目下向けの言葉と目上に対する言葉の使い分けは、まさに差別的な用法だが、その典型として説明され、最近の傾向がその区別さえ失っていることを強調していた。言葉それぞれの成り立ちは、暫く時間を経過すると失われる。そんな例は数多あるけれども、その一方で、本来の用法を守ろうとする動きもあり、どちらが優勢になるかはその時代の流れによるのだろう。しかし、どちらの言葉も主体が重要な要素であり、それが発せられる相手が問題となる。その意味で、最近の「いただく」の主体の変化は、全くいただけないものである。本来、相手にものを頼む際に用いられ、例外的に自らに用いていたものが、いつの間にやら主体は自分となり、恰も謙遜を表現するかのように使われる。それが度重なってくると、当然の用法となり、気持ちのこもらない表現と化す。現時点では、どちらの表現もそんな状況にある。過渡期なのかも知れないが、定着しなければいいのに、と思う。
豊かな時代には、救済や支援という取り組みが盛んに行われる。少し考えれば解るように、歴然とした差があるからこその話であり、それはまた、差を無くそうという考えからのものでもない。にも拘わらず、どうも世の中にはそんな思いを抱く人が多く、的外れな指摘や意見が並ぶこととなる。どうしたものか。
差別という言葉に強く反応する人々は、どんな考えを持っているのだろうか。少なくとも、自らの立ち位置についての意識は、かなり強いものと思われるが、基本となる考え方については、殆ど取り上げられることもなく、見えてこない気がしている。違いを表現するだけなら、区別と言えば済むことだが、それはそれでまやかしのように糾弾される。彼らの中に、差を無くそうとする考えがあるかと思えば、そんなことはなく、それより差を歴然としたものにすることで、何らかの利益を得ようとする場合の方が多い。そんな時に多用される言葉は、権利というわけだ。一見当然のことのように思われることでも、中身をじっくり眺めてみると、こちらも何処か怪しげな雰囲気が漂う。その原因は、おそらく、権利を話題として出すのが誰か、というところにあるのではないだろうか。権利を保障するという立場ならば、大して気にもならないものが、権利が主張された途端に、何処か無理難題に見えてくるのは、こちらの受け取り方の問題とも言えるが、それだけとも思えない。特に、差が歴然とした場合には、一方的な要求が出され続けるわけで、時に不条理を感じることさえある。よくよく考えてみれば、差の原因は明確でなく、そこに議論が向くこともない。何か変に思えるが、はっきりしない。だからこそ、異様に見えるのではないだろうか。
窮地に追い込まれた時に、誰を頼ればいいのか、そんなことを平時から考える人は少ない。しかし、今の世の中の動向を眺めると、その場になってからでは遅すぎる、といった感じがしてくる。実際のところは誰にも分からないことだが、誰かを決めることより、普通の付き合いを続けることが何かの助けになるのではないか。
借金に塗れた人々が、更なる窮地に追い込まれていく姿を、報道は淡々と流し続ける。泣き面に蜂、とでも言いたげな雰囲気が漂うが、そこに映るのは現実の姿であり、一個人の転落の情景である。それぞれに事情があるのだろうが、そこに至る道筋には共通点がありそうにも見える。ただ、それが明らかになったとしても、堕ちていく人を止めることはできず、本人にもその意識はない。結局のところ、運命と片付けるしかないのかも知れないが、それでは余りに非情だからと、こんな企画を組むのだろう。社会がこの手の人々にできることは殆ど無いが、不合理な仕組みの排除と、それに乗じて暗躍する人々の摘発くらいだろうか。驚くべきは、こんな人々に更なる追い討ちをかける人の存在であり、その手口の巧妙さを論じる人々である。確かに、追い込まれた人々には救いの手が何よりの存在であり、それが差し延べられた時に疑うことなどあり得ない。しかし、所詮は悪の手口であり、そこに様々な罠が仕掛けられていても、単純なものが多いのも事実だ。法に関わる人々に、これ程悪質な人が増えたのも憂うべきことだが、その仲間たちの冷ややかな対応には、寒気を催す。法律が何から生まれるかを考えれば、これらの人々の不適格さが浮き彫りとなるが、それでも資格に守られる人々は安泰なのだ。ただ、法治国家は、彼らの為にあるのではない。
素早い対応が求められる、という見解は頻繁に使われるが、この求めは満たされたことが少ない。それだけ慎重に取り組まれていると、理解に満ちた認識が起きるなら、元からこんな見解が出てくる筈もなく、何度でも厳しい指摘が為されるだけだ。早急に、という求めが出る前に、先手を打つのが最適手なのだが。
政権が代わったことで、政治の動向に注目が集まっているが、それとは別の次元で、非常に興味深いことが起きているように思う。同一人物なら、前言撤回は厳しい批判を浴びるけれど、交代したのなら許せるとばかりに、次々に方針変更が行われる。それ自体は、良いも悪いも現時点で判断することは難しい。動き始めたものを無理矢理止めるとなれば、様々な影響を及ぼすだけに、意見も分かれているようだが、総体的には変更も止むなしとの見解が大勢を占めるようだ。しかし、その手際に関しては、もっと厳しい指摘をすべきとの声がある。始める準備をしている人々に、暫く様子を見ると命じても、準備を完全に止めればいいのか、はたまた続ければいいのかの指摘はない。作業にかかる時間は、結果的には無駄になるだけのことだから、なるべく短い方が良いに決まっているが、そんな雰囲気は微塵もない。新規の提案ならまだしも、一度議論を経た上での決定を覆すのなら、もっと手際よく捌くべきだろう。金額の多少にばかり目を向ける国民の代弁者たちの不見識もかなりのものだが、それをいいことに予算の確保に走り続ける無知ぶりも中々だ。そうかと言えば、時間をかけて練るべき事柄に、ほんの一瞬の判断を適用するのは、如何に芝居がかったこととは言え、横車の評が強ち間違いとも言えぬ状況にある。金額の多少より、時間の長短が優先されることに気づかぬのは、事を進める立場にある人間にあるまじきことではないか。