平均的な社会でしか通用しないものを、あらゆる所に用いようとすることの間違いを解いた本を読んだのだが、どうも釈然としない部分が残る。著者の主張は、如何にも妥当なものと見えるのだが、指摘している間違いと同じように、拡張性の問題が自らのものにも当てはまる。狭量さを批判しながら、同じ穴に陥るような。
数量がある範囲に収まる事象とそうでないものを区別することの大切さを指摘した点は評価できるのだが、そこから導き出される論理展開には何となく破綻が見える。元々、こんなことを議論する必要があるのか、もしそうなら、どんな場合に当てはまるのか、そんな所から始めた方が無難にも思える。というのも、大部分の人にとって、殆ど不要な話であり、それを知らなくても何も起きないことだから、書物としての価値は如何ほどのものか、首を傾げたくなる。著者が指摘するように、今の世界を牛耳っている者達の論理は、明らかに間違っており、身勝手な解釈と都合の良い理解が並んでいるだけのことである。その点を明らかにしようとする姿勢を批判するつもりはないが、その対極にある考え方には、違った形の破綻が見え隠れしており、それを安易に受け容れることの危険性は、おそらく同程度に高いものと思える。ものの考え方が、人それぞれに異なることが多様性の源であり、それを如何に維持するかが社会の均衡を保つ秘訣なのであり、その為には、ある極端な考え方が台頭することは、回避せねばならないこととなる。その意味では、どんな考えが正しいかは問題ではなく、様々な考えが常に存在することが肝心なのである。その間で、遣り取りが継続しさえすれば、ある意味の均衡が図られる。情報化社会の構築により、一部の考えが全てを圧倒するような動きが可能となったことに、現代社会の問題があるのだろう。
あれほど五月蠅かったオナガの声が聞こえなくなり、何処かへ姿を消した。そういえば、雀より小さな鳥が山から下りてきたと思いつつ、同じような模様に区別がつかずに悩んでいたら、次には頭の毛が逆立ったような、多分ホオジロと思わしき鳥が姿を現し、声を上げている。季節の移ろいが、木の葉だけでなく、こんな所に。
鳥の観察は専門の人に任すけれど、近くに姿を現す連中はまずまずの数だろう。ただ、声が聞こえるだけ、姿をちらりと見かけるだけでは、何が何やらさっぱり判らない。雀以外は殆どが渡りをするようで、一年中見るのは余りいない。烏は嘴の大きさの違いで区別するようだが、じっと見ていると危なっかしいので、そんな気が起きない。そういえば、あれも一年中この辺りに居座るようだ。どうも、鳩や烏は野鳥という気がせず、こういう区別の時にうっかり忘れてしまう。そろそろ食べるものにも困り始めるようで、先日も雀たちが塊になって、何やら拾い集めているように見えた。膨らんでいる姿には、寒さが増していることが想像でき、こちらまで寒気に襲われそうに思う。徐々に姿を消していくのだろうが、真冬の間、何処に潜んでいるのかと思う。年が明ければ、別の鳥が姿を現し始め、また違った様子を見ることができる。そんなことを考えていると、鳥たちもそれぞれに季節の移り変わりを感じながら、此処彼処を移り歩くのだろうかと、ふと思う。まあ、そんなことで、何か新しいことを思いつくはずもない。ただ、自然とはそんなものなんだと、改めて思うだけのことだ。
科学のことは解らない、でも、お金の使い方には疑問がある。そんな庶民の代表なのか、過激な意見を並べ、筋違いの話を展開する。論理性を重視する人々の集まりだけに、非論理的で感情的な論調に対して、嫌悪感に満ちた反応が起き、一気に反撃態勢が築かれた。これでよかったのか、首を傾げる人も多い。
科学技術の重要性を殊更に強調され、その勢いで押し切ろうとする態度に、反発を覚えた人もいるだろう。論理などと言いつつ、重要性の説明は、素人には理解不能とばかり、言葉の上の主張だけでは、この情勢を覆すことは難しい。にも拘わらず、依然として、従来通りの必要不可欠という話だけでは、早晩厳しい反応が起きそうだ。沈着冷静なる人々であれば、議論の機会が与えられたことを端緒とし、根本的、本質的な話し合いを進める為の方策に走るだろう。そんなものは以前から存在し、形骸化していたとの指摘にも、この機会に台本通りの議論ではなく、構成員各自が従来から持っていた提案を、真面目な形で持ち寄ると言い返せば、十分な支援が得られるはずなのだ。馬鹿げた論理に対して、そのまま対応しようとする姿勢こそ、最悪の結末を迎える可能性が高く、注意しなければならない。宇宙開発において、最大の事故が起きた時、研究費に関わる人々は、英知を結集すべく集まったと聞く。被害を埋める為に、新たな予算配分が為されれば、別の所に穴が開くわけで、その算段に押し寄せた。重要性の高低は一概に決まるものではなく、比較も困難を極める。そんな中で、持ち駒の再配置に何が必要かは、難しい問題となる。その後の展開は周知の如くだが、今回の騒ぎは様相を異にする。この際、従来方式を見直し、何を優先すべきか、議論する機会を設けるべきなのではないか。
まだ早いとは言え、そろそろ年忘れの行事が続くこととなる。厳しい罰則が適用されるようになってから、身を護る為と様々な仕組みが採り入れられ、それを生業とする人々が増えている。このところの情勢からは、この手の商売が絶えることはないと思えるが、法の網を潜り抜ける仕掛けに、特に方策はないようだ。
夜の町を歩いていて、危険を感じるのは2台の車が間を開けずに、かなりの速度で走り抜けることだ。同じ客商売でも、乗せる為の設備を整えねばならないものと違い、客の車を代わりに運転するのだから、あちらの業界のような認可を必要としない。ただ、野放し状態にあった時代と異なり、最近はそれなりの自己規制を加えて、安全、安心な商いをしているらしい。ただ、客を乗せる業界が、経済状況の悪化に従い、斜陽となっているところからすると、いつまでも放置するわけにも行かないように思える。ただ、二つの業種の大きな違いは、それが動き回る環境にあり、そこでの棲み分けができているから、それでよしとする考え方もあるようだ。それにしても、こんなやり方が通用するのかと、出始めた頃には思う人もいたのが、嘘のような状況にある。特に、地方都市では公共交通機関の整備が不十分で、自ら動き回る必要がある為に、翌日の移動手段の確保が重要な課題となる。そんな環境下では、こんな商売が最も喜ばれるようで、これからそんな催しが増える時期に、繁盛が見込まれるのではないか。その一方で、騒がしい町を歩き回る人や、寂しい道を帰る人には、降りかかる危険を避ける気構えが必要となる。特に、足元が覚束ない状況では、注意力も散漫となるだけに、気をつけたいものである。
業界に激震が走る、と聞くと、何処かの企業が不祥事を起こしたのか、と思うのだが、今回はそうではないようだ。対岸の火事と思っていた人々にとって、自らの領域にまで土足で踏み込まれ、抱え込んでいた資金を引き剥がすと聞けば、慌てて反論せざるを得ない。昨日までとは違う、結束力が形成された。
何が必要なのか、将来のことは誰にも分からない。そんな中で、資金の分配はある決断によるものとなり、一部には受け入れられても、他の部分には受け容れがたいものとなる。当然の成り行きだが、見直しの対象となると状況は一変する。賛成が多数を占めない限り、継続は見込めないのだから、始めから勝負は決まっているようなものだ。当然の如く、正論が並べられ、反論は的外れなものとなる。それでも、理解力を要求される領域では、別の力が働くらしく、押し返す勢いは止まらない。これ自体は、議論の機会を与える上で、重要な事柄と思うが、その経緯を見る限り、諸手を挙げての賛成は得られないだろう。特殊なことと聖域化する動きには、従来問題視されてきた説明責任をも回避する動きが含まれており、前進よりも後退の感が否めない。特別視することは、様々な事例で必要となるけれども、こういう経過で進められると、不自然な形ができてしまうのではないか。一方、廃止の理由として挙げられたことについて、議論が高まってもいいと思うが、その機運は微塵も感じられない。結論ありきの理由であり、たとえそれが重要なことであっても、そこから先の動きは全く出てこない。一点集中の批判をしながら、その代替策を講じないのでは、全てが止まることとなる。そこまで考えを巡らせていないのなら、やはり烏合の衆と言われてしまう。
このところ、買い込んだ本に外れが多くなっている。評判に左右されるわけでもないが、それなりに書評などを参考にしている。それが悪いと言うわけではないが、自分には向かない内容だったということだろう。何処に擦れ違いが起きたのかはそれぞれで、これといった決まりは無いように思う。読後感は散々だったが。
そんな中にも、時には当たりが出ることもあり、成る程と思いつつ読み進めることができた。女性の社会進出に関するものだが、その点でも先進国である海の向こうの国での話が主体で、こちらにそのまま当てはまる状況にはない。しかし、このところの急激な政策変更により、様々な課題が露出し始めたから、丁度良い時期に出たと言えるのかも知れない。と言っても、これが肝心な人々からは、おそらく強烈な反論が出ているだろうし、例の如くの無視も行われているだろう。男女の差を歴然としたものとして捉え、それに基づいた役割分担を考える必要を説いた内容だが、最も肝心なのは、これまでに築かれた男性社会に、女性を潜り込ませることの無理を明らかにしたところではないか。著者によれば、男女差と個人差は、それぞれに特徴があり、それを無くすように働きかけるのであれば、様々な歪みが生じる。それよりも、差を明らかなものと認めた上で、それを活かす方策を講じる必要があるという。個人差には寛容な人々が、男女差に目くじらを立てるのは、大きな矛盾が感じられ、その動きによって生じた歪みが既に顕在化した社会では、そろそろ別の動きが始まっているわけで、同じ道を歩むよりも、それを参考にした方がいいという考え方も出てくる。予算削減の動きから、制動がかけられた運動も、再び息を吹き返すかも知れない。本質的な部分の理解の上で動かないと、難しいのかも知れない。
何やら大仰な雰囲気が漂っていたが、結果的には人を巻き込んで、やめる算段をしただけと揶揄される。そんな会議が画面に流れ、公開を旨とした姿勢を評価する声と、単なる見せ物と批判する声が、同時に巻き起こる不思議に、戸惑うばかり。台本通りに進められる芝居に、横暴さを感じる人は少なくない。
確かに、それまで継続されてきたものに、意味も有用性も全くないものはないだろう。しかし、費用対効果を念頭に置いた仕分けと見た場合、全く別の観点が引き出されても不思議はない。理解不足は否めないものの、それなりの妥当性は認められ、正論と見なすこともできる。決定まで時間をかけずに、新たな材料の評価を行わないまま、次々に繰り出されることに抵抗を覚える人も多いが、一気呵成に攻め込む為の方策と見れば、こんなやり方もありかと思える。努力と評価に直接の結びつきがない状況では、立場による違いが鮮明になるのもやむを得ず、この程度で済むならまだましという声も聞かれる。一方で、これらの決定には拘束力がないことも指摘され、如何なる反撃が起こされるのか、暫く様子見の必要があるということか。それにしても、これ程の無駄遣いが為されていたのかと、呆れた人も多かったのではないか。当事者たちからは、その無駄遣いを長引かせようという声が聞かれ、今後の成り行きに注目したいところだ。無駄か無駄でないかという点は、費用対効果では最優先のものだが、その考え方自体に問題があるとの声がどんな形で上がるのか、楽しみな部分もある。本来、議論の最中に起きなければならない、均衡に向けての揺れが、全く起きないことにこそ問題があり、こんな見せ物の中でも、勧善懲悪のような芝居が、大根役者によってやられては、折角の舞台も台無しではないか。