パンチの独り言

(2009年11月30日〜12月6日)
(十全、洗脳、教育、気儘、突進、回避、妄言)



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12月6日(日)−妄言

 「将来の歴史法廷に立つ覚悟」と反論した人は、今様々な攻撃に曝されているという。責任の考え方を紹介した言葉だろうが、浴びせられた人間は自らの非見識を批判され、叱られたように感じただろう。本当に大切なのは、将来を考える時に優先すべきものは何か、その議論無しに暴走したことだった筈なのだが。
 支出を減らす算段をした人々の多くは、将来に負の遺産を残さぬように、と主張する。しかし、金の出入りの問題だけでなく、そこから産み出される様々な財産をも採り入れた思慮の必要性は、彼らの頭から出てくることはない。始めに紹介した発言は、その不均衡を指摘するものであり、一方的な議論をたしなめるものに過ぎない。にも拘わらず、自らの人格を批判されたと受け取り、同様の非見識と反論するなど、馬鹿げた遣り取りとなる。現時点の出費を抑えようとする努力は評価されるべきだが、それが将来を見据えたことと拡大するのは、どうにも納得できない。このところ、極論を安易に吐く人々が急増していて、それが恰も論理的なものと受け取る向きがいるのには、何処かに大きな矛盾を感じてしまう。借金を増やすことを強調する人々は、金の勘定のみで物事を語るから、如何にも分かり易い話をすることとなる。しかし、現実には、大きな要素を削ぎ落とし、話を過剰に簡略しているわけで、盲目の人間が象を撫でる、あの話そのままのことが展開されている。この星に住む人々に、誰にも必要とされない人間がいないのと同様に、今役立っていないように見えるから、すぐに不要と決めつける論理には、明らかな欠陥が固着している。こんなやり方をそのまま反映させることは、暴走と言わざるを得ず、始めの言葉も、そんな考えから発せられたと見るべきだろう。

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12月5日(土)−回避

 責任ある立場にあれば、不用意な発言は避けたい。そんな香りがプンプンすることが多くなった。結果として、楽観的な見解は除外され、悲観的なものを選び出す。当事者の心理はそんな所だろうが、その言葉を受け取る人々には、そんな意識は微塵もない。ただ、煽られて、右往左往するだけで、警告の真意は伝わらない。
 自分の身を護りたい気持ちも理解できるし、その必要性も十分に評価できる。しかし、相手を選ばず、ただ自らの都合を押し通すやり方には、賛成しかねる部分が多い。流行性感冒の恐ろしさを様々な形で伝え、感染の広がりを防ごうとする方策に、反対するわけではないが、今のやり方には多くの間違いが含まれている。誤解を招くにしても、安全な方向ならばよしとする、という考えから、誇大妄想に近い喧伝が繰り返され、心理的不安定に陥る人が急増する。それでも、死に結びつく病を避けられるのなら、と容認する動きもあるが、現実には、将来への教育という意味で、学習効果が期待できないものだけに、受け容れがたい面もある。感染者の年齢層分布から、既にある程度の解釈が可能となったにも拘わらず、その点に触れることはなく、全く異なる面を強調するだけに集中する。安心感を広げることより、不安感を広げた方が、安全だと言わんばかりの論調に、相変わらずの無知さが表れ、辟易とするばかりだ。感染防止でなく、症状悪化を防止する為の措置と、何やら不鮮明な説明を並べ、混乱を増長する動きも、同じような感覚から生まれたのだろうか。薬に頼りたい人々からすれば、何が何でもと思うしかないが、無い袖が振られることはない。何故若年層に集中しているかを、もっと強調すれば、少しは混乱も収まるのに、と思うけれど、責任者にはその勇気がないのだろう。

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12月4日(金)−突進

 任せたのだから尊重しなければならない。頭の中では解っていても、いざその場に立つと、一言言いたくなる。そんなことが日常的になったが、その原因が何処にあるのか、すぐには思い当たらない。任せることの重要性は、様々に伝えられるが、その対象への言及は少ない。もしかすると、その辺りが震源か。
 それぞれの集団の代表が集まり、重要なことを話し合う。このように書くと、何のことか思いつかないかも知れないが、議会もその一つである。そこで進められる議論の結果は、組織の寄せ集めの総意と扱われ、それに基づく動きが始まる。全ての事柄がその場で決められるのではなく、事前により小さな組織で素案を編んだ後に、それへの賛否が議論されることが殆どで、効率を追い求めた結果生まれた手法と考えられる。代表たる人々には、彼らを選んだことにより、任せるという考えが適用され、その中で組織されたより小さな組織にも、同じようなことが当てはまる。ここまでのことに異論を挟む人はいないと思うが、ついこの間組まれ、予算の妥当性を議論した組織には、そんな手順が入っておらず、納得できない部分が残っていた。何が起きるのかと見守るうちに、次々に繰り出される過激な決定には、多くの人々が驚くと共に、賛否両論が巻き起こることとなった。それぞれの施策に対して、議論の必要性を考える上では、このような吟味は重要となるから、大切な手順の一つと思っていたが、その決定に従うべきとの見解が、依頼者側から出されたことは、大きな転換点となる。公開という一言で、手順の妥当性を保証しようとする論理にも呆れるが、その場で飛び交った議論の妥当性の吟味を抜きにして、決定のみを尊重するのは、如何にも知能の欠片もない行為と思える。悪政とは、独善から来るものなのだが。

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12月3日(木)−気儘

 躾を厳しくと言われたのも、遙か昔のこととなった。人権尊重との繋がりは定かではないが、いつの頃からか、子供たちの意志を尊重する風潮が高まり、自由闊達を目指したものが、勝手気儘へと変化した。束縛から逃れた人々は、自らの心の赴くままに、四方八方に散り散りバラバラに向かうことになったようだ。
 外圧に弱い国民体質は、そんな変化にも大きく変わることはなく、依然として赤の他人からの意見に怯えているように見える。電車内で、背広を着た人々が漫画本を読み耽る姿に驚かれたこともあったが、今では電子機械の釦を押し続ける若者の姿に、奇異を感じることの方が多いようだ。これが躾と関係するなどと書けば、いい大人を相手に何をほざくかと、反論が返ってきそうだが、彼らの行動の始まりが何処で、それがどのように維持されたかを眺めれば、何を意味するかは即座に理解される。今や同じ機械は若年層全体に広まり、制服を着た子供たちが座席で耽る姿が頻繁に目撃される。学校に持ってきて良い物と悪い物の区別は、以前ならば厳しくなされていたようだが、今や様々な言い訳が積み上げられ、鮮明さは失われてしまった。そうなれば、家庭の考えがそのまま反映され、年端もいかぬ子供の欲望が顕在化することも高まる。持ち物検査が人権蹂躙などと批判された時代も遠くに去り、今や放し飼いの動物園のような状態らしい。将来を担う世代に、今の大人たちが負うべき責任は、何度となく強調されているが、こんな状況で果たしていいものなのか、どうにも納得がいかない。しかし、個人主義の台頭から、自分と他人の区別のみが際立つこととなり、他人事を放置する体質が浸透した結果、今更どうにもならぬものか。ただ、社会の責任にしたとしても、戻ってくれば自分ということだけは、忘れてはならない。

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12月2日(水)−教育

 教え育むという意味をもつ言葉には、おそらく色々な要素が含まれているのだろう。その割には、安易な形での使用が目立ち、何もかもを含めたものとなる為に、怪し気な印象を与えてしまう場合が多い。原因の一つには、一方の立場からの解釈ばかりが強調され、もう一方の受け手の感覚が抜け落ちていることが挙げられる。
 何か特別な立場や知識の有無が、この作業において重要な要素となると信じる人も居るが、現実には、そんなものは必要ないのではないか。でなければ、親と子の関係のような、ごく日常的なものの間での、遣り取りは含まれないことになる。実際には、色々な立場の人の間で、様々な関係が成り立ち、その中で双方向の連絡が起き、それを基に教え育む人々と、それを受け取る人々が存在することとなる。確かに、特別な知識を持てば、何かの役に立つことにはなるものの、絶対的なものは存在せず、それを受け取る側の感覚が、事の成否を左右することも多いから、単純に処理することは難しい。日常的に行われていることこそ、その評価が行われることはなく、いつの間にか時間が過ぎて行く訳だが、その中で人々が育つかどうか、社会全体には重要なこととなるだろう。社会の中でその役目を負う人々に対して、認識を新たにし、その重要性を認めることも大切だが、もっと身近に存在する人々にも、目を向けて行かないと、全体としての発展はあり得ないのだろう。様々な認識がある中で、次世代への働きかけということは、もっと重視されるべきであり、その中心となるのが、互いに一般大衆に過ぎないことは、もっと強調されるべきなのではないだろうか。教育の力を過信するのも困ったものだが、その担い手を見極めないことも困った結果を生じることとなるだろう。

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12月1日(火)−洗脳

 注目を浴びる為に必要なことも、時代の変遷と共に変化しているようだ。憧れとか夢とか、どちらかというと上を見上げる心境を利用したのは遙か昔のことで、最近は不安とか不満といった外から来る圧力を利用しているようだ。上を目指した時代と異なり、現状維持が常となった時代には、こんな図式が描かれるらしい。
 安定した時代には安心が得られる筈なのだが、人間は常に変化を読み解こうとする性癖があるらしい。安心の上に胡座をかくと、急激な変化に対応できないとばかり、殆ど目立たない違いを大きく捉え、そこから生じる激変へと繋げる話が持て囃される。現実に起こる筈もなく、そんな可能性も矢鱈に低いものほど、こういう時には利用価値があるようで、心理的な圧迫を強烈にかける為の手段として、頻繁に使われるようになる。一つのことに拘ると、自らの綻びが目立ち始め、文字通りの破綻を来す可能性があるから、この手のことに携わる人々は、目先の変化を常に求める。不安を煽る手法は、こんな時代だからこそ有望視され、繁用されるようになったらしいが、その悪影響は様々な所に及んでいる。色々な場合を想定する必要を説く人もいるが、こんな手法から生まれるのはそちらの方向ではなく、単純に盲信する人の数を増やすだけのことだ。こんな時代に本当に必要なことは、様々な事柄に疑いをはさみながら、その解釈を進めることなのに、煽動することが主体となったものでは、相手の主張を鵜呑みにし、それを端緒に自らの心理的動揺を高めるわけだから、現状への疑いという見方から同じに見えても、現実には正反対の展開が進んでいることとなる。これは洗脳とも呼べる手法であり、更なる警戒を必要とする筈だが、関係者はそんなことに思いが及ばず、自らの利益に走っているわけで、本当の危うさはそこにある。

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11月30日(月)−十全

 話題になっていることを取り上げるのもどうかと思いつつ、でも気になったことだからと諦め、少し書いておくことにする。まさに毎日のように話題を提供し、それぞれに様々な人々を巻き込む。催しとしては、地方毎の会議紛いを開いていた構造改革倒れ内閣より、影響の大きさとして十分な効果を上げたと思える。
 ただ、それぞれの決定の質の方はと言えば、何やら無理強いばかりが目立って、どうにも評価し難い。攻守が交代することもなく、一方的で矢のような催促に、問題点ばかりが描出され、解決の道筋は見えてこない。だからこそ廃止という声もあるが、舌足らずの議論からは、何やらありきの臭いを強く感じる。攻防の流れや問題点の指摘にばかり目が向かうが、実際に、この試みの最大の効果は、全く別の所にあるようだ。本来、万人が覗くことのできない営みは、限られた組織の報告を唯一の情報源とせざるを得なかった。全幅の信頼とは言わぬまでも、その分析力を頼ってきた人々にとって、今回の試みは、全く異なる様相を示した。つまり、一部が隠されたままとは言え、ほぼ全ての資料が公開され、遣り取りさえも衆人環視の下で行われたので、情報の源を共有することが可能となったわけだ。そこで明らかになったのは、いい加減な議論の問題ではなく、情報提供者がこれまで同様に取捨選択したものでは、肝心な情報が抜け落ちることで、それにより無理が通るのが判ったことだろう。限られた誌面や時間から、その手法は致し方ないものと、容認されてきた部分もあるが、今回の顛末を見ると、予算額の多寡に違いがあるものの、同じように削減対象となるものに、重要性の軽重をつけるのは、ほぼ報道側の判断によるものということだ。ネット社会も、こんな形で役立つ可能性もあるのかと、思った人もいるのではないだろうか。

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