パンチの独り言

(2009年12月7日〜12月13日)
(代替、教養、吟味、据え膳、筋書き、場違い、詐欺)



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12月13日(日)−詐欺

 人を騙す手段は時代の変遷に従い変化する。詐欺事件が無くならないのは、人の欲望のせいもあるが、一方では新たな手練手管が登場するからでもある。正義の味方的な詐欺師を取り上げる人もいるが、大多数の犯罪者はそんな代物ではない。自らの欲望を満たすために、他人を騙し、利用するだけの人の仮面をかぶる存在だ。
 初めてそんな電子メールを受け取ったのは、十年近く前のことか。口座のある銀行からのお知らせを装い、様々な情報を集めようとする手口は、既にかなりの範囲で知られるものだったが、その悪質さに呆れ、即座に銀行へ連絡した。その時点で多くの問い合わせがあったようだが、その後の対応については何の続報もない。それ以来、数々の詐欺メールが送りつけられ、その端緒となるのは何かと考えるが、無料メールの場合は、携帯メール同様に系統的に作成したアドレスに送るらしい。しかし、職場のメールはそうはいかない。想像するに、誰かのメールがウイルスに冒されたパソコンに送られ、そこから全てが始まるようだ。三つあるアドレスのうち、最も古いアドレスは既にそのリストに上がっているようで、下らぬメールと共に詐欺メールが続々届く。手口に変化がない所を見る限り、時代の変遷はさほどでもなく、最先端を行く犯罪者の能力低下も否めない。外国の銀行、クレジット会社、数えればきりがないが、多くは金が直接絡むものだ。欲望が現れるものの代表が金銭とは、全く困ったものだが、古今東西を問わず当てはまることなのだろう。いずれにしても、こんな子供騙しに乗せられてはいけない。不安を煽る時代だけに、そこに行き着いた瞬間に、陥る地獄は大したことはない。逆の見方をすれば、そんな程度のことで振り回される心理こそが問題かも知れぬ。

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12月12日(土)−場違い

 技術革新は、様々な面で生活に影響を与える。その多くが、良い方向に働くからこそ、歓迎されるわけだが、当初の目的とは異なる使い方が見出され、全く違った影響を及ぼすようになると、様子は一変する。こんな筈ではなかった、と開発者が漏らしたとしても関係はない。結果が悪くなれば、折角も台無しとなる。
 そんな変遷はそう多くはないだろう。迷惑を産むものの多くは、始めから様々な懸念を生じるものだ。公共の場での迷惑は、その対象が多くなるだけに、特に問題視されることが多い。静粛を求められる場での、着信音の響きは避難の目を向けられることとなったが、最近は操作への理解から、ごく稀にしか見られない。どちらかと言えば、使い方の問題の方が遙かに嫌がられている。禁煙区域での喫煙が厳しく取り締まられているのに対し、電話の利用は緊急性もあるからか、大目に見られることが多い。それでも、単にゲームをする人間、火急の用件と思えぬ内容の会話、メール入力に専心する人々が、色の違う吊り輪がぶら下がる領域で、我が物顔に振る舞うのを見かけると、どうしたものかと思う。一時期、妨害電波を生じる機械を持ち歩く人もいたと聞くが、最近とんと聞かなくなった。学校への持ち込みを禁止する所も徐々に出てきたが、反論も多く、更なる議論を必要とするらしい。授業中に集中力を失う子供たちの問題が取り沙汰される一方で、機械を扱い続ける子供が増えれば、何が起きるのか、想像したくもないだろう。煩くする子供よりもずっと気楽と受け取る向きもいるようだが、何やらねじ曲がった心の中を覗く気がして、気分が悪くなるだけだ。場を弁えぬ人々の増加は、様々な意味で問題を拡大させている。

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12月11日(金)−筋書き

 年寄りの長話は概して敬遠される。時間の長さが問題なのだが、それ以上に深刻なのは、中身の問題である。長々と続く話は、七転び八起きならぬ、転び続ける展開となり、何をどう伝えたいのかさっぱり判らない。総じてそんな調子となれば、挨拶と聞いた途端に気落ちする。掻い摘んだ話をできないものかと。
 年齢の断絶をこんな所に引き合いに出しても仕方ないが、この手の話は殆どそんな落ちを迎える。齢を重ね、様々な場面に出会した経験が豊かになるほど、筋を纏めることは難しくなる。そんなものかと思ったりもするが、最近の傾向は、年齢の問題とは違うように見える。報告を受ける時、何がどうしたのか、要領を得ない話をする人は、年に無関係に目立つようになった。遣り取りをしようにも、取りつく島もない話が多くて、何処から始めていいのか解らない。更に、本人の理解の程度が低いように見えるとなると、どうにも進めようがないこととなる。何故、こんな事が起きるのか、普通にできる人間から見ると、できない理由を見つけることは困難だ。精々、話の流れから、何が肝心かの理解が無く、時系列的な整理が施されていないことが、見えるだけなのだ。欠陥は見えても、それが起こる理由は見えてこない。こうなると八方塞がりとなる。同じ場面を同じように経験し、そこから感じることの報告を受けて、どんな誤解や無理解があるのかを掴み、分析するしか方法はないだろう。身近な人間を相手にすれば、それでも済むが、世間一般がこんな傾向にあるとなると、どうしたものか。こんな作業を得意とするはずの業界さえ、最近は心許なくなっている。報道関係は、その骨子を伝えることが最重要となるから、人々は的確な表現を伴う作文力を持つと言われる。でも、最近の記事は、何を主張したいのかが見えない、五里霧中状態なのだ。

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12月10日(木)−据え膳

 至れり尽くせりの奉仕、何処かの宿ならいざ知らず、それがれっきとした学校だとしたら、どう思うだろう。子供たちにとって有り難いと、不安を抱える親たちが殺到するだろうか、それとも、子供たちの自立する機会を奪うと、何の注目もせずにやり過ごすだろうか。親と子の関係によるが、様々なのだろう。
 流行り廃りも、こんな世界にまで持ち込まれるようになった。成長期に、他にない特長を訴えるためと称して、遊園地を併設した所もあったが、今や何処に消えてしまったのか、話題にも上らない。楽しく学べる環境を整備する、という如何にもそれらしい話も、その本性を見てしまえば、中身のないことが明確となる。気分とか雰囲気が優先された時代から、実質を求める時代へと移行し、そこには様々な付加価値が示されるようになった。特に重視されるのは、学校を出た後の道筋をつけてくれるかどうかであり、進学の目的がそれに限られる場合には、互いの満足が得られる関係が築かれる。入学させたら必ず卒業させると謳う所は、その為の支援に注力し、当然のことながら、その後の進路に関しても、十分な手当てを施すことで、確実な道を歩ませる。そんな宣伝文句が並んだ時、納得するかどうかは時代背景により、引く手数多な時にはさほど有り難いと思わないのに、いざ行き先が限られたり、先が見えない状況に陥ると、そんな制度に群がることとなる。一事が万事そんな調子なのかも知れないが、それにしても、余りに目の前のことばかりに注意を向け、将来設計の痕跡さえ見えないとなれば、どうしたものかと思いたくなる。金を払ってまでやってくる人を受け入れるのに、こんな考え方は当然と見る向きもあるが、そこでの対価は何なのか、実際には全く見えてこないのが不思議なのである。

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12月9日(水)−吟味

 予算に纏わることは重要な割に、その正当性を吟味する機会が少ないことは、この国の特性なのかも知れない。予算編成において、国にしろ、自治体にしろ、企業などの組織にしろ、その段階での議論は盛んに行われる。しかし、それを執行することによって成された成果や効果などの評価は、殆ど行われない。
 決算という作業が、予算に比して地味に映るのは、こんな背景によるのかも知れない。しかし、次の予算を組む上で、以前の成果を吟味することは、欠くことのできないものであり、ただ漫然と継続するという姿勢は、やはり批判の対象とならざるを得ない。そんな所から考え出されたのが「仕分け」であり、密室での決定を批判する姿勢から、全面公開を基本として為された。これ自体を画期的なこととして評価するのは、全くその通りのことなのだが、その後の展開を見ると、これもまたやりっ放しの感を否めない。特に、遣り取りを公開したことを評価するとしても、その最終決定の過程が不鮮明なことは、批判の対象となりうるだけでなく、そこを端緒として更なる議論を見える形で進める必要がある。被害者意識を露わにして、反論を繰り返す人々についても、そんな議論の機会さえあれば、十分な吟味に参加できる。今回の仕分けでは、決定に対して各省庁が意見集約を図っているようだが、ただ集めるだけに終わったのでは無意味である。ここから真の議論が始まると思えばこそ、様々な人々が意見を寄せるのである。こんな所にも、編成作業にばかり目を奪われ、結果の吟味やそこからの議論に不慣れな国民性が表れており、表面的な作業手順だけに配慮する態度が出ている。折角きっかけを掴んだとしても、ここから先の展開が肝心なのである。

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12月8日(火)−教養

 教育の極意を、待つこととする人がいる一方、手取り足取り、付き添ってでも何処かへ運ぼうとする人がいる。前者に注目が集まり始めたのは、あらゆる場で後者のやり方が実践され、その効果の程が知れてきたからで、単に、個人の能力の減退に原因を求めることに対して、疑いを抱く動きが起きたからだろう。
 子育てを経験した人にとって、自らの関わりが子供に影響を与える場合と、全く与えない場合があることに驚くのは、ごく当然のことなのかも知れない。身近な例として、そんなことを経験しているにも拘わらず、いざ多数を相手にした教育では、全てを思い通りに運ぼうとする。ここには、大きな矛盾の存在が見え隠れするが、これまではどちらかと言えば見て見ぬふりをしてきた。そんな中で、病状の悪化は勢いが衰えるどころか、その範囲を広げるばかりとなっている。ついには、社会へ出る直前の学校教育にまで、その魔手を伸ばし、全ての学生に最低限のスキルを、という教育を謳う所まで出る始末。個人差は教育の水準が上がるほど広がり、そこに個性と呼ばれる形にならぬものが現れるはずが、全てを金太郎飴の如く、同じ顔同じ姿にはめようとするのは、無理難題としか思えない。その上、準備された制度の多くは、水準の低い所を見る傾向にあり、社会の要求を無視した、安直な責任遂行の極みとも思えるものとなる。このままでは、視野が狭く、懐が浅い人間の大量生産が続くと思われたが、それに対する反省として、教養教育なるものの復権を図る動きが急となった。しかし、一度身に付いた考え方を捨て去ることは無理のようで、依然として形の用意にばかり腐心し、個人の能力をそれぞれに伸ばす動きは殆ど起きていない。そろそろ高等教育の限界が見えたとする向きもあるが、現実には根本から転覆させない限り、何も起きないということなのではないか。

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12月7日(月)−代替

 ある提案に反対する時、対案を出すように促される。何でも反対、といった一方的な妨害を防ぐ為として、編み出された方法だが、時に、議論を冷やす効果ばかりが目立つこととなる。対案が出せないから、原案を尊重すべきという考え方は、妥当なものと思える部分もあるが、現実には拙速な結論を導くことが多い。
 頭から拒絶する姿勢は論外としても、提案の是非を議論する場で、別の提案がないからといって、議論の余地無しとするのは乱暴だろう。本質的な議論が可能ならば、たとえ対案が存在せずとも、その手続きは重要な結果を導き得る。ただ、現時点で話題となっている移転の問題については、さて、この辺りの事情はどんな状況にあるのか、もう少し考えてみてもいいのではないか。協力関係の優先に目を奪われたり、連立関係の維持に腐心したり、様々な関係の成立を望むことは不可能に近い。ただ、この問題の基礎は何処にあるのか、それを忘れた関係だけの議論では、満足できる結果が得られるはずもない。調整を図ることを重視する意見もあるが、何と何を調整するかで、その重要性は大きく変化するわけで、問題の本質を手放した形での議論は、的外れなものとしかならないだろう。この際にも、反対が通った時の対案は、依然として出されておらず、現実に動かねばならない人々にとっては、動けない状況に陥ることが明らかである。当事者たちにとって最重要なことは、結果としてどんな状況になるのかということであり、その手続きも手順も、大した問題とはならない。また、行き先さえ決まれば、それで十分と思う人も多いだろう。逆に言えば、そんなこと無しに、単に議論のみを盛んにすることは、何の意味もないということなのではないか。

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