パンチの独り言

(2009年12月14日〜12月20日)
(孤独、争い、涵養、無益、膿、不履行、過冷却)



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12月20日(日)−過冷却

 山の中腹に一筋の雲がかかる。地表が放射冷却によって冷えた結果、上空との温度差が生じ、そこに雲が閉じ込められたということか。そんなことを思いつつ走っている朝の、外気温計は氷点下を指している。厳しい冷え込みに、用心して出かける人も多いだろう。各地からは大雪の便りが届いているようだが。
 冬が寒いのは当たり前であり、こんな冷え込みも冬らしくて良いと思う人もいる。それが何やら学者たちは、どんどん気温が上がる傾向にあり、今後はこんな事も起きないと言う。ほら間違えた、とこういう機会を捉えて言い返すと、一時的な傾向に過ぎないと、再び学説を声高に主張され、藪蛇だったと反省する。将来のことは誰にも予想がつかないはずが、どういう訳か確実かのように世の中は流れている。自分たちの暮らしの中で、そういう変化に疎くなった現代人は、こんな話に特に弱いようだ。あれこれと理屈を捏ねられても、その真偽を確かめる術もなく、ただ聞き流すしかない。その一方で、結論だけが頭に残るのだから、始末に負えない。これが一個人の心理に影響を及ぼすばかりか、社会全体に流布されることとなり、恰も問題かのように扱われる。確かに、そういった姿勢は社会問題を考える上では重要だが、その一方で、大した吟味も行わずに頭から信じる姿勢はどうかと思う。日々の変化を自分の体で感じ、そこに何を見出すか、人それぞれの事柄なのだ。誰かがそう言ったから、必ずそうなると信じるのは、自分の存在を打ち消すだけのことで、そういった心構えには危うさばかりが目立ってしまう。自然の営みを、どんな目で見つめるかが重要なのであり、誰か他の人の言説ばかりを請け売りするのでは、何も確実なことは出てこない。そんなこととは無関係に、四季の移ろいは進むだけのことだが。

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12月19日(土)−不履行

 約束が守られるか、気になる人も居るだろう。しかし、始めの約束が発せられた環境と、今の環境の違いを冷静に眺めると、そこに何らかの違いがあっても不思議はない、と思うのではないか。元々期待もしていなかったという人も多いが、始めから諦めるというのも変で、少なくとも何かしらの変化は起こして欲しいものだ。
 何やら、無い袖は振れない的な話ばかりが取沙汰されるが、袖に布を繋いで伸ばすのはいけないのか、そんな疑問も出てくる。あちらの約束を守る為には、こちらを反古にしなければ、といった考え方はある意味重要なのだが、その議論さえ行われずに、無理無理に押し切るのはどうかと思う。何を恐れているのか、何が怖いのか、それぞれの人によって異なるのだろうが、英断とはそんなものを断ち切ってこそのものであり、そこに躊躇が入れば、折角の決断も崩れてしまう。何度も取り上げていることとは言え、依然として、的外れな批判を繰り返す人々の数は減らず、彼らを舞台から下ろそうとする動きも鈍い。利害が入り交じった状況では当然のことだろうが、結果の利害と議論の利害は全く違った所にあるのだから、始末に負えない。的を大きく外した下らない議論をするよりも、本質的な所を突くまともな議論を始めることが、こんな時に必要なのだろう。ただ、現状を見る限り、そんな展開は望めそうにもない。兎にも角にも、自らの身を守ることばかりに専念する人々に、全体を見渡した議論を促したとしても、何も起こらないことが明らかだからだ。指導者としての役割を果たせるかが、今後の展開に大きく影響する訳だが、現時点では迷走の予感はしても、何かに突き進む姿勢を見出すことは難しい。とは言え、何かが起きれば良いだけのことで、それならと思う部分はなくもない。

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12月18日(金)−膿

 好き勝手なことをやってきたからか、と思う所もあるが、目に余る世代がやっとのことで、舞台の袖から去っていく。そんな心境で眺めていても、どうも事はそう簡単には片付かないようだ。どのようにして居座ったらいいのか、そんな工夫を依然として繰り返し、口出しを続けようとするのだから、何とも困ったものだ。
 組織毎に、こういう連中の扱いは異なっているとは思うが、経験豊かと呼ばれる人々に、その片鱗さえ見えてこないのは何故か、不思議に思う。おそらく、多くの場面で自らの能力を誇示し、恰もそれが彼ら自身の力によるものと思わせる、そんな能力に長けた人々が、現実には組織の脆弱性を強める結果を産み出した。自分たちで何も決められないのでは、次の展開がないのも当たり前で、その場面で再登場を促す声が大きくなる。しかし、所詮は烏合の衆の先導者であり、安定成長の時代なら、君臨しても大した悪影響がなかったが、崩壊の後の混迷の時代では、何の役にも立たないわけだ。それでも、誇りだけは捨てられないらしく、いつまでも地位に齧り付き、悪い方の影響ばかりを残すのでは、何ともならないわけだ。すぐ下の世代にとって、何かと世話を焼いてくれた人への感謝は、消えるわけもなく、こんな時も頼りにするようだが、結局は、負の影響のみが強まるばかりで、解決の糸口さえ見えてこない。こうなれば、どちらの世代にも舞台を降りてもらい、一気に若返りを図る必要があるのだろう。そんなことが此処彼処で起きているのを見ると、それなりに自浄作用は働いているように見える。ただ、こんな事でドロドロのヘドロが溜まったような状況は、一気に解決されるわけもなく、暫くは戸惑うことばかりとなるのだろう。それにしても、未だに居座っている所は、どうにもならないのでは。

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12月17日(木)−無益

 駄目だ、駄目だと連呼し、批判ばかりを繰り返す人々は、転落によって暇になった日々に、政の本質を見直す事も出来ずに、茫然自失の時間を過ごしているようだ。勢いのある時期ではなく、権勢を失った時にこそ、人の本質が表に現れると言われるが、まさにその通り、何とも情けない姿をさらし続けている。
 力のない連中の遠吠えは、永田町に限った話ではなく、全国各地で響き渡る。口先だけの批判ばかりで、そこから何を生むべきかを知らぬ人には、結局活躍できる場が提供されることはない。皆から無視され続ければ、更にその勢いは増し、崩壊の一途を辿ることだろう。批判の多くは、改善策を示すこともなく、ただ言葉尻を捉えたり、失言を指摘するだけで、負の効果しか見込めないから、どうにもならない。こんな連中に機会を与える必要はなく、そのまま消え去ることを願うのみだが、さてどうなることか。一方で、混迷の時代に活躍しているように見える人々の中に、同じように役に立たない人たちがいる。意味を持たない言葉を羅列し、恰も含意があるように振る舞う連中は、その実、厚化粧をしているだけに過ぎない。次々と繰り出される言葉の連なりには、何の意味もなく、目的さえ見えてこない。口が自動的に動いているのかと見紛うほどに、クチャクチャと言い続ける人に、教養や知識の欠片さえ見えないのは、当然のことだろう。驚かされるのは、そんな連中を便利と見てか、敬意を表してか、使い続ける組織の方で、あれほど持て囃された人々が、いつの間にか消えていくのを思い出せば、中身の無さは組織にまで及んでいるということだろう。口先三寸も困ったものだが、それを重用する人こそが、最大の悪玉と見るべきだ。

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12月16日(水)−涵養

 月に数回、新聞やテレビで最新の研究成果の発表が報じられる。その多くを掲載する研究雑誌は、自ら商業誌であることを強調し、研究発表の場としての地位の高さと経済観念という不思議な組合せを、巧みに実現するものとして評価が高い。それが数年前から国を定めて、best mentorなるものを選んでいる。
 mentorとは辞書によれば「良き指導者」ということらしいが、教師とは異なる観点に基づくもののようだ。商業誌の基盤のある国の関係から、帝国圏や欧州が始めの数年の対象となったが、アジア圏で初めてこの国が対象となり、先日選考結果が発表された。対象者を年齢別に二つに分け、それぞれに推薦によるとする点は、指導者の意味を考えれば理解できる。指導者とは一流の研究者であるが、一流の研究者が良き指導者であるとは限らぬとは、この企画を出した編集長の言葉だが、その視点を理解できない人が多いようだ。というのも、研究成果の発表では頻繁に取り上げられてきたのに、この発表では報道される機会がごく少なく、関心の低さばかりが目立つ。それも、賞の対象がこの国に限られているのに、初めてこの国の人が選ばれたとか、そんな、恰も何処かの賞のような扱いをする人も現れ、注目の的の外し具合が何とも言えない。ついこの間、研究費の削減に慌てふためき、馬鹿騒ぎを繰り返した人々も、研究の重要性を強調するばかりで、人材育成の重要性には思いが及ばない。こんな所に、白い巨塔と揶揄された組織の、脆弱性が表れているのではないか。権力に走る人は、弟子共を出世させることに精を出しても、指導そのものに力を入れるわけではない。そんな姿を曝していることに気づかぬ人々が、金の亡者と化して走り回る姿を報道する側も、実際には本質を理解する能力さえ失いつつあるのではないか。

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12月15日(火)−争い

 技術の発達は常に進むばかりなのに、それに携わる人間の考え方には何の上達もない。そんな馬鹿なと思われるかも知れないが、知識は何らかの形で蓄積するとしても、それを扱う人間の物事に対する考え方には、一方向性の要素は殆ど無いのだ。その代わりに、循環とか周回とか、回帰的な道筋が存在する。
 その証拠とは言えないかも知れないが、少し前、あるいはずっと昔の人々が書いたものを読んで、何かしらの共感を覚えるのは、そこに類似性があるからではないか。同じような考え方をするとまでいかずとも、その筋道を理解できるということは、共通点の存在を示唆する。ごく最近のことを取り上げてみても、追いつけ追い越せを旗印に、努力を重ねてきた時代には、ある意味の競争が必要とされた。それが安定期に入り始めると、競争による心理的圧迫を嫌う傾向が生まれ、そこから互いを助け合うことの重要性の認識が強調された。しかし、それも大きな壁が立ちはだかり、閉塞感が強くなるに従い、昔と同じように海の向こうから運ばれた、競争原理という形式が導入されるようになり、今に至っている。上昇に必要不可欠な要素として、競争原理は扱われてきたが、そろそろその限界が見えてきているのではないか。何を基本として競争を為すか、何を基準とするか、何を評価するか、数々の課題が山のように積まれるだけで、解決策が講じられることもなく、競争だけが継続する。そこには不公平も差別も、致し方ないものとして無視され、まるで規則の異なる条件での運動競技を実施しているような状態に陥る。最早解決の糸口さえ見出せない状況では、競争そのものを考え直す時期に来ていると思われる。これが再び循環の別の相への移行を意味し、そこから何が生まれるか、見守ることになるわけだ。違うだろうか。

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12月14日(月)−孤独

 世相を反映してか、どうも暗い話題ばかりに注目が集まる。先行き不安は、既にコチコチに固まるほど高まり、あらゆる材料が悪化へと繋げられる。そんな中で、自らの命を絶つ人の数は減るはずもなく、防止策には手詰まりの感さえある。社会や家族との関わりなど、分析が出されるが、これという切り札は見つからない。
 何故、という問い掛けが事件の後に為されても、その答えを知る人は既にいない。その中で、心の葛藤と戦う人々の言葉が取り上げられるが、異口同音に反省だけが並び、答えは見つかりそうにもない。社会情勢の悪化が最大の要因と挙げられるが、それだけなのかは誰にも分からない。個々の事例を分析しても、その違いが際立つのみで、共通点を見出すことは難しい。そんな中でも、正解を見出そうと努力するのは、それだけ残った傷が深いということだろうか。もしも、個人の心の問題だけであるならば、時代背景の影響はこれ程大きくは出ないだろう。そこに社会の影響が出ていること自体に、現時点で議論されている課題とは違うものの存在を示すものがありそうだ。心理的な不安定が、一部の研究者が言及するように、素質的なものから来るとすると、社会との関わりはそれに更なる力を加えることを意味する。放置してはいけない、一人にしてはいけないと、他人との繋がりを重視する指摘があるが、一方で、過度の口出しを禁じる声もある。適度という、最も困難な基準を示したとしても、人間関係の構築を強要することの重要性は微妙な状況にある。ここ数年、こんなことが続いていても、同じ言葉が繰り返されていることに違和感を覚える人は、少なからずいることだろう。今一度原点に立ち戻って、考え直す必要はないのだろうか。

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