パンチの独り言

(2009年12月21日〜12月27日)
(宵っ張り、唐突、ベア、極論、迷子、衰退、誤認)



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12月27日(日)−誤認

 衰えた地方都市から、盛りを迎えた中心地に出向くと、その格差に愕然とする。更なる驚きは、購買意欲の減退を声高に訴える声が、そこでは全く聞こえない事だ。一体全体、この国の具合はどうなっているのか。不思議に思っても仕方ない、これが現実なのだから。では、何を誤解して、あんな蘊蓄を流すのか。
 要するに、悲観的な物語の受けが良く、保身に走る人々には、それが一番の護身術となるからだろう。現実に売り上げの落ち込みはかなりのものらしいが、その原因を個人の欲望の減退のみに求めるのは如何なものか。情報社会などと呼ばれる中で、がせネタが大手を振って走り回り、まことしやかな後付論理が罷り通る。筋書き通りの展開を望む人々にとって、これ程便利な時代はないだろう。有る事無い事、どちらにしても、掲示された情報のみが受け手には真実と映る。気分を落ち込ませる話ばかりを流し、それによって悲観を植え付ける事が、最優先課題の如く振る舞い、どうにもならないほどの状況に陥る。そうしておいて、大変だと叫べば、狼少年にはならずに済むだろう。しかし、現実にはマッチポンプの如く、全てを掌中に収めているだけで、身勝手な振る舞いを正当化しているに過ぎない。分析もまともにできず、付け焼き刃の論理を展開するだけでは、本来ならば地位の確保も難しいが、こんな世の中では却って便利に映るらしい。夢と希望を与える約束が、次々と反故にされつつある時、躍起になって批判に走る人々は、自らがそんな戯れ言に簡単に乗せられた事を忘れている。一体全体、首の上のものを無くした人は、どれ程増えたのだろう。反射的に行動するにしても、余りに短絡的な展開に、呆れるしかない。そんな事を眺めながら、暮れていくのだろうか、この年も。

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12月26日(土)−衰退

 停滞しているからか、賑やかさはさほど感じられない。人通りも少なく、飾り付けも殆どない。そんな中で経済活動を云々しても、明るい兆しが見えてくる筈も無い。地方都市の大部分はこんな状況にあるのだろうか。そこに住む人たちも、それが当然と見なし、ただ漫然と衰退の勢いを眺めるのみなのだろう。
 成長の中では、何の心配も無く、ただ勢いに任せて、それに乗っていればよかった。それがいつの間にか、右肩上がりの傾向は無くなり、下り坂を降りるばかりとなり、どうすれば良いのか、さっぱり解らない状態となった。そんな地方の活性化と称して、様々な試みがなされ、その中には成功事例もあったようだが、多くは大した影響を及ぼすことも無く、時間だけが流れてしまった。社会全体に衰退とか閉塞といったことが当てはまり始め、無い袖は振れないといった風潮が強まるにつれ、穴の中に閉じこもるといった傾向が目立つようになる。外からの援助は殆ど無く、互いに助け合うといった思いつきも底を尽きた。こんな時には、自分たちの力で何とか打開策を講じねばならないが、どうにも動きが鈍すぎる。通り一遍の方法の適用ばかりを繰り返してきた人々にとって、新しい形の導入は難しいようで、八方塞がりの感は否めない。仕方が無いと打ち捨てておけば、衰退の勢いが緩むことは無く、次々に変化が起きることとなる。人がいなくなり、人が来なくなれば、そこは町としての形態を保つことができなくなるから、どうにもならない筈が、なされるがままに任せてしまう。自らの力を必要とする限り、そこに住む人々の中に、何かが生まれない限り、何の変化も起こらず、勢いは止まらない。何が必要なのか、解っていても動けないか。

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12月25日(金)−迷子

 理論的に正しいとされても、実生活では間違いとなる事もある。理論の検証が不十分なのか、適用対象の吟味が不十分なのか、即座に答えを導く事はできないが、最近の動向から見えてくるのは、絶対的に正しい答えは、これ程の変動を伴う事象を相手にしては、存在しないのではないか、という事だろう。
 実験とは研究の現場でのみ可能と受け取られるが、このところの経済変動はまさに社会実験の一つと思われる。様々な手当てを試み、予想外の結果を得て、更なる改善を模索する。そんな遣り取りからは、表面上は如何にも考え抜かれた手立ても、現実には想定が行き届かず、検証事例の範囲外から、色々な影響を受けた事が分かる。徐々に明確化してきたのは、進むべき方向を定める人々にも、その後の展開を読み切る事はできず、柔軟な対応こそが第一ということだろう。頑なに当初の計画を推進する事ばかりに拘ると、その後は奈落の底へと導かれる事となる。社会全体としてみれば、そういった対応の誤りによる被害は甚大となるが、張本人たちは一時的に舞台を降りれば済むだけで、現代社会では命まで奪われる事はない。一方で、批判や支援などに専念してきた評論家たちも、状況の変化に応じて、言葉の操り方を変えるだけで、生き残りは苦もなく実現される。ただ、このところの変化は興味深いもので、口先だけの人々だけでなく、それなりに貴重な考えを披露してきた人までもが、言葉遊びに興じる雰囲気を出し始め、進むべき方向を見失ったかのように見える。所詮、評論家の戯れ言と見るのは簡単だが、現実には、分析さえもできぬ状況に陥っている事を表しているのではないか。こんな時には、個人が自らの責任で行動するしかないように思う。

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12月24日(木)−極論

 極貧生活を見せられ、悲哀を感じた時代は遠く過ぎ去り、まるですぐ其処にあるかのように感じさせられる時代となったようだ。現実は兎も角、そんな報道姿勢が目立ち始め、不安を煽る方針は揺るぎないものとなった。だが、特異な例なのか、有り触れた例なのかの検証もなく、垂れ流す事には信頼が揺らぐに違いない。
 数学の世界では、論理とか理論が最優先される。その為、統計や確率などという、検証を必要とする対象は、学問としての価値を認められなかった。最近、やっとのことでその地位を確立したかと思えたが、本来の脆弱性の為か、様々な批判が浴びせられている。平均的な事柄と、目の前の現実との乖離が、数値からは理解できない事が一つの指摘であり、先日読んだ本では、特異な例への適応が不可能である以上、無意味な論理と断定されていた通り、適用対象を考慮することなく、闇雲に信じ込む事の危険性が指摘されている。その一方で、人間心理にとっては、印象的な見せ方をされるほど、的確な判断ができなくなる問題も大きい。始めに取り上げた事柄も、まさにそれが当てはまるものであり、悲劇的な物語であればあるほど、効果的なものとして業界で扱われるのは、それが多くの人に当てはまるからではなく、心理的影響が大きいからに過ぎない。それにより、自らの生活に幾らかの不安を抱く人々は、極貧というその先にあるかも知れない地点に、興味を抱くだけでなく、同化される事となる。確かに、ある程度の予測を基に、将来設計が必要となるが、その見通しが的外れであれば、無駄になるばかりとなる。そんな情報に振り回され、危機感を抱く事は、実際には無駄なだけで、何の役にも立たない事を、少し冷静になって、考える必要がある。それを統計分析と呼ぶのなら、利用価値は十分にあるわけだ。

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12月23日(水)−ベア

 他店より安い、以前より安い、といった言葉が大きな文字で示される折り込みが毎日のように舞い込む。安さが最大の要素として受け取られるようになってから、こんな事が繰り返され、同じ商品での限界から、自社開発に移行する所も出た。苦しい家計を遣り繰りする側には、何とも有り難い事のように映る。
 そんな流れに危機感を抱く人々から、毎度の如くの言葉の連呼が始まり、両者の見解が平行線を辿る、いつもの活劇が始まった。とは言え、多くの人々は収入の多寡に関わらず、依然として安い事にのみ関心がある。そんな風潮の中、新たに職にありついた人々は、自分たちの収入の変遷に、不安を抱いているのではないか。成長期には当然の事であった、定期昇給に合わせた基本給の上昇、それが組合の活動の変化と共に、動きを抑えられてしまった。今では、上がる事は当然ではなく、余程の幸運によるとまで言われる。こんな時代に、どんな生活設計をすれば良いのか、答えは容易には出てこない。賞与などを頼りに、借金を重ねた年代の人々が、此処まで来て苦しい遣り繰りを訴えるのは、見通しの甘さと言われればそれまでの事、最低賃金が維持されたままの年代には、戯言としか映らないのではないか。こんな世相だから、少しでも節約を、という思いも分からなくもないが、一方で、八方塞がりへと向かう図式と見れば、不安が募るばかりとなる。購買意欲の問題を取り沙汰する向きもあるが、将来が暗いとなれば、そんな意欲を期待する方がおかしい。基本給の上昇は夢としても、何らかの変化を期待せねば、最下層からの脱却は望めない。こんな思いを描く人々に、踏ん反り返る人々は、どんな言葉を与えるのだろう。

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12月22日(火)−唐突

 突然の発表、という言葉に驚くこともある。それを素っ破抜く報道に、感心することもある。以前なら、そんなことがあったとしても、肝心な部分だけは抑えておいて、その後の展開には不安を漂わせなかった。ところがいつ頃からか、突然は本当にそのものであり、何の根回しもなく、思いつきを触れ回ることとなる。
 もう一方の報道も、頼りになる情報源があるわけでもなく、ただ設けられた席からの情報のみに頼るようになった。その結果、何の秘密もないというより、操作された情報のみが世の中に出回る。となれば、肝心要の部分が明らかになることもなく、そこにある思惑だけが強調されることとなる。そんな中での、本当の意味での突然は、まさに何の準備もなく始まり、行き着く先も見えぬままに突進することとなる。一種茶番とも思える成り行きに、人々は戸惑うこととなるが、これが既に日常的となった現代では、その手口そのものに驚く人はいない。それより、その後の展開に振り回され、無意味な徒労を繰り返させられることに、不平不満が募るだけのことだ。政の世界に鳴り物入りで登場した手法は、その後の崩壊を予感させるものだったが、どういう訳か、一般社会にも広がることとなった。その要因の一つは、事前に用意するものが無く、勝手気儘に振る舞うことの気楽さで、始まった後のドタバタには、そういう連中は一切責任を感じないという風潮にある。きっぱり言い切るという役者の如くの振る舞いに、憧れを抱いた人々は、その無知さを反省することもなく、同じ轍を踏み続ける。下らない提案を繰り返し、全体を疲弊させるだけの結果を生じるから、そこには何も生まれない。そんなことをする連中をそろそろ窓の外に追い遣らなければ。

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12月21日(月)−宵っ張り

 初めて見た時、驚いた人もいるのではないか。現代社会の状況を如実に表すものとして、広告を第一に挙げる人は多いが、そんな所に異様さが現れることも多い。その広告は、夜中にある塔の消灯を見に家族で訪れるという話で、一家団欒の雰囲気を醸し出すものと思われたようだ。だが、何故子供を真夜中に連れ出すのか、不思議に思う。
 この異常さに気づかぬ人々は、酒場や遊技場で見かける子供の姿や異様な行動をとる家族にも、異変を感じないのだろう。危険運転云々のきっかけの一つとなった事故も、そんなことが取り上げられることもなく、ただ酔っぱらいの行状だけに注目が集まった。自分中心の行動をする親にも困るのだが、子供の為と称して非常識極まりない行動をする人々にも、一種異様な雰囲気を感じる。核家族と名付けられた人々が、それまでの伝統を打ち破り、数々の変革を編み出したことは、ある見方からは評価に値するのだろう。しかし、そこに現れた非常識行動に、歯止めのかからぬ仕組みは、結果的に一部の常識的な考えを弾き飛ばす原動力となった。特に、目的意識を持つ行動には、反論の余地はなく、常に意義ばかりに議論が集中し、そこから生まれる副作用に目を向けることはなかったようだ。そんな中で、意欲を増す為の方策や能力を伸ばす為の手法に、多くの人の注目が集まり、子育て本来の姿は見失われた。その勢いに押された人々には、余計な発言を避け、他人事と振る舞う選択のみが残された。結果、社会の荒廃は留まる所を知らず、始めの話のように、依然として異常な行動がごく当然の如く扱われる。何故と思うこともなく、誰かの為というお題目に振り回される人々に、何かを考える暇など有りはしない。矢鱈に習い事をさせ、余裕を奪うことが将来の為とするのは、非常識と言われたとしても、何の反応も返ってこないのだろうか。

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