パンチの独り言

(2009年12月28日〜2010年1月3日)
(辞退、労働、駄賃、中毒、計、不変、生身)



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1月3日(日)−生身

 自信喪失を問題視する話が流される一方で、過信か何かに思える話題も流れてくる。何とも不思議な情勢だが、同じ人間でないから、という声も聞こえる。だが、よく眺めてみると、同じ人が頼り無げに振る舞いながら、モニタを前にして思いの丈を打ち込む姿がある。自らの部屋の中で、自由に動き回るように。
 その場の状況を読み取れない人のことが、色々な所で批判される。そんな声の裏には、自由に振る舞えない自分を見つめる心がある。気儘に行動できる人を、様々な形で批判する人の中には、面と向かった形でなく、他人に同調する人がいて、確かに雰囲気は読めているようだが、その言葉には重さが感じられない。特に何か問題があるわけでもないが、対人関係の構築において、批判とか反対に遭うことを、極端に嫌う傾向がある。常に仲良く過ごすことを第一とし、関係が築かる前から、壊れることを恐れるのには、何処か異常な感覚さえある。こういう人々にとって、何の反応も示さない機械を相手にすることは、心の安定を招くことになるのだろう。そんな行動に耽る人が増えているらしく、そのこと自体を心配する声もある。ただ、何処に問題があるのかを明確に示すことは難しく、暫く様子を見る事が必要なようだ。原因も分からぬままに、結果を予測することも難しいが、それにしても、ただ騒ぎ立てるだけで、何も変えられない人々にも問題がある。程度問題ということもあるけれど、果たしてどの程度に広がっているのか、実情も掴めていない。ただ、ネット上の悪質行為は増えるばかりだし、規制の立ち後れも目立ったままだから、このまま進めば、何かが起きることは確実に見える。そのままにはしておけない気がする。

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1月2日(土)−不変

 変わらないことを喜ぶ人は珍しい。しかし、平穏無事に過ごせるだけで、十分だと思っていれば、普段通りに物事が進む方が、余程安心なのではないだろうか。いつも通りに事が運べば、不安を抱くことも無く、安心して臨むことができる。ところが、世の中には、そうでない人々が一杯いるように見える。
 変化が望まれた始まったものには、継続的な変化が期待される。常に新しいものが始まれば、それだけで安心ということらしいが、その一方で、不安感が常に漂うことがあるから、どうにも不思議な感覚となる。自ら望んだことで、自分の首を絞めることとなったのでは、それを避けることは難しくなる。こんな簡単な事さえ見通せなくなった人々は、次々に起こる変化に対応しきれなくなり、遂には崩れていく事になりかねない。今より良くなりたいから、という欲望は常にあるものだが、それが外的要因によるものとなれば、良悪どちらに転がるか解らないものだ。他力本願を繰り返すたびに、自らの心の安定は失われていく。少なくとも、自分の内側から欲望を満たす為の要素が出てくれば、もっとまともな状況になる筈ではないか。この辺りの状況は、当事者には殆ど見えていないと思える。何故なら、どんな場合にも変化が第一であり、どの方向かという考えが入っていないからだ。ただ闇雲に進むだけなら、何も考えずに、また、何も悩む事無く臨む必要がある。簡単に解りそうな事だが、そうもいかないらしい。もしそうならば、変化を招く事ばかりを追わず、まずは安定を第一と考えるべきだろう。上ばかり見ていても、何も落ちてきはしない。期待通りに事が進まぬ事に、不安に苛まれるくらいなら、下の方の安定に満足する方が、ずっと安心なのだから。

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2010年1月1日(金)−計

 特別な日のように見えて、実際には何も変わらない。当然のことで、人間が関わる部分での特別なだけで、自然はぐるぐると循環する中の一日でしかない。しかし、心の問題では大きな一日であり、これをきっかけにしたい人々には、当然のように特別な日となる。だからこそ、人それぞれの違いが出てくるのだろう。
 節目節目に色々なことを思う人にとって、こういう形で一日を迎えることは喜ばしいのだろう。今年こそは、との思いがあれば、明るい見通しの無い人々には、なんとか無事に過ぎて欲しい、との思いもある。しかし、毎日毎日のことを思えば、そんな長い期間ではなく、もっと目の前のことを、なんとか無事に済ませることの積み重ねこそ、重要なのではないか。将来の見通しがいくらついても、明日の見込みが違ってしまうと、どうにもならない。日々の暮らしこそが基本であり、その積み重ねが月日となり、年月となっていくのである。そんな当たり前のことも、目の前に問題を抱える人々にとっては、違う見方をしたくなるものなのだろう。すぐそこの問題に苦しむより、ちょっと先の楽しみを思い浮かべたい。そんな気持ちから、特別な日を喜びと共に迎える。そんなものなのかもしれない。こういう思いを台無しにするより、やはり、皆と同じように、一年の計を考えたくなるものなのだろう。そんな気持ちを萎えさせるような言葉は不要であり、皆と同じように動けば良いだけのことだ。それを済ませてから、さて、今日は、明日は、と考え始めても、何も遅いことは無い。どうも、積み重ねをきれいに積もうと思い過ぎ、却って手を出せなくなるのが、今の考え方かもしれない。

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2009年12月31日(木)−中毒

 この国の将来を考えた時に、最大の問題は何か、そろそろそんな話題が取り上げられる季節が来た。少子高齢化、という言葉も既に使い古され、今更そんな事を取り上げても、目新しさはない。しかし、こういう話の中で、珍しさが必要なのかという事が問われない。本当に最大ならば、暫くは最重要の筈なのに。
 そういう不見識を問うても、画面や誌面に名前が踊る人々は、自らの事とは思わないだろう。見識の高さが選ばれた理由であり、問題の本質を見極める力があると信じている。しかし、呼ばれた本当の理由はそんな所にはない。御都合主義が強まり、保身に走る人々が社会を埋めるようになってから、批判的な言葉を排除し、筋書き通りの展開を望む人が増えた。そうなれば、議論の誘導も当然の権利となり、社会的中立より、ある意味の極端さが必要となる。そんな中で意見を求められるのはどんな人間か、大体察しはつくものだ。人口の増減は、様々な影響を及ぼすだけに、確かに重要な課題となる。しかし、量の問題だけを取り上げるのは片手落ちで、質を論じる事を忘れては、本質を見誤る事に繋がるのは必至だろう。勝手気儘に振る舞う若者を、見て見ぬふりをする人々、そんな図式が社会のあらゆる所で展開され、うっかり踏み出した途端に、命を失う危険さえある。これ程歪みが高まった時代もないだろうが、その一方で、無気力に、同じことを続ける人の存在は、目を向けられる事が少ない。以前は、車内での漫画雑誌が話題になったり、迷惑な音楽鑑賞が取り上げられたが、最近は、何処でもゲームセンターといった雰囲気が漂う。一つの事に打ち込む姿に感動したのは大昔であり、この頃は耽溺する姿に哀れさえ感じられる。そんな空気の中で、将来を語る意味はあるのだろうか。

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12月30日(水)−駄賃

 ここを定期的に読んでくれているのは、3人ほど。以前より更に減りつつある。ブログという仕組みが作られ、皆が思いを綴る機会を与えられて、世の中にはそんな雑文が溢れ返ることとなった。そんな中で、この場所はそういう分類とは異なり、単なる個人のHPという扱いになるから、同じように見られることは無い。
 それでも、自分の思いついたこと、気になったことを書いておく場所として、とても重要な所と思い、ほぼ毎日、既に8年近く続けているのだろうか。具体的な表現をなるべく避け、極端で言い切る形を忌み嫌う形式では、多くの人の注目を浴びることは無い。ブログと違い、何処かとの繋がりが出てくる訳でもないから、時々迷い込む人々は、おそらく偶然の産物として、検索に引っかかった場所へ訪問しただけなのだろう。殆どは二度と訪問することは無く、一見さんがそれっきりとなる。具体的な言葉を使えば、時事問題との兼ね合いからは、もっと検索され易くなるだろうが、うっかりすると歓迎できない客を呼び込むことにもなる。本質的な話を取り上げている時も多いけれど、それが人によっては気に食わないものとなる可能性もあり、良識に頼る立場としては、うっかりは避けたいものである。何故こんなことを続けるのか、自分にも明確な答えは見えないが、書くことの面白さ、愉しみが関係しているのだと思う。職業としての書き手とはならずとも、こういうことを繰り返すことで、何かをまとめ、的を絞る作業は、大して苦にもならずに済むようになった。手短に纏めることは、人によっては苦痛を伴うらしく、なんとか避けて通ろうとする。しかし、現実にはそんな能力が最も歓迎されており、活躍する場面は多いのである。お駄賃と呼べるものかもしれないが。

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12月29日(火)−労働

 海外からの報道だが、以前から不思議に思いながら眺めた光景がある。何かの記念となる日に、画面からは家を持たない失業者たちに食事を配る人々の、明るい笑い顔が流れてくる。社会が支えるべき人間といった感覚が、そこから滲み出てくるが、何処か理解しがたい違和感が漂う。どんな背景があるのかと。
 異なる社会制度から、異なる考え方が出てきた結果と思ってきたが、最近の国内事情を眺める限り、何処にも違いがない状況が生まれた。問題点を声高に訴える人の論旨は、全く理解に苦しむものだし、そこに集まる人々の暈かされた顔にも、何処かに不思議な雰囲気が漂う。働いている人々の慌ただしさに比べ、そこに映される失業者たちからは、避難民に似た、何か大切なものを失ったかのような気配が感じられるのだ。一気に噴出した経済危機に対して、様々な方策が講じられ、少しずつだが回復の兆しも感じられてきた。その一方で、不安定な労働環境を改善すべく、更なる対策が講じられつつある。しかし、その成り行きを見る限り、将来への不安が解消されるどころか、別の不安が膨らむばかりという声も聞こえる。一つ一つの対策は、それぞれに考え抜かれたものだが、その適用に当たっては、想定とは異なる事例が増え続け、そこから新たな問題が生じる。それを一気に解消する事は困難であり、様々な制限を徐々に加え続けるしか、方法は無さそうに見える。しかし、法律での制限は、極端な事例にしか適用できず、結果として、その網の目を抜けてしまう場合が増大する。労使双方が満足できる制度の整備は、現実には不可能と思われるのは、実際には、働き方の変化から来ている事をそろそろ認めた上で、この問題を考えないと無理なのではないか。誰かの都合だけで定められた制度では、別の誰かは満足できない。

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12月28日(月)−辞退

 社長になるのは無理でも、部長くらいには、という思いを抱いて就職した人が多かった。成長期にはごく当然に思えた傾向も、いつの間にか不自然に感じられるようになり、昇進を望まぬ人が出始めるに至って、ある極致に達したと言えるのではないか。そんな職種が増えたせいもあるが、もっと大きな要因があるようだ。
 人を使うと言うと語弊があるが、ある集団を束ねる役割は、組織においては重要となる。年功序列だけで決まるわけでもないが、それなりに経験がものをいう事もあり、多くの場合は年齢の要素が強く出るようだ。それがごく当たり前のように流れていた時代には、少しくらいの違和感を抱いても、それなりに対応する事が構成員の務めと言われてきた。周囲がそんな流れを作れば、窮屈な感覚を持っていても、それなりの役割を果たす事ができた。ところが、いつの頃からか、そんな図式に当てはまらない人が目立ち始め、それらの声が大きくなるに連れて、違和感が膨張して、抑制できなくなる人が増えた。声を上げられない組織では、何の動きもなかったが、特に公務員の世界で異常事態が生じ始めた。何処をどう受け取ったのか、自らの能力を自ら評価し、無駄を省こうとする心が動く事で、昇進の辞退という動きにまで発展する。適材適所を考えた上の事、とまで言い始めるようでは、どうにもならない事だろう。他人に仕事を振るよりも、自分でした方が簡単という判断は、ごく当たり前のように見えて、その実、傲慢な考え方でもある。引き継ぎが円滑に行かなくなった時代から、この傾向が急激に高まり、それまでの慣例が通用しなくなった。一時的には、個人の問題のように見えたが、実際には様々な組織に飛び火し、かなり大きな問題と化している。どうしたものか。

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