パンチの独り言

(2010年1月4日〜1月10日)
(導入、どん底、責苦、遺産、招福、釈然、悪辣)



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1月10日(日)−悪辣

 着飾った人々が街を行く。以前とは日が異なるとはいえ、昔からの風習はそのまま残っている。新たな門出を祝う催しも、各地で開かれるが、その一方で、馬鹿げた迷惑行為を引き継ぐ若者に、呆れを通り越した反応もある。溜まっているものの捌け口として見る向きもあるが、その無軌道ぶりは異様にしか見えない。
 門出を祝う催しの一方で、何やら怪しげな動きが起き始めた。つい先日まで、派遣業の事務所だった所が空となり、ガラス張りの建物の内部には、何も見えなくなっていた。ある日突然、建物の前の駐車場が立錐の余地もないほどの車で埋め尽くされ、何とも異様な姿をさらしている。以前、何処かの貸しビルが同じような変貌を遂げていたが、全く同じ調子に見える。ガラスは目隠しされ、外から見えない状態にされたが、おそらく中では年寄りを相手にした催しが開かれているのだろう。生活に困る高齢者の話題は、尽きることがないように見えるが、一方で、こういった所に群がる人々がいる。怪しげな商品を売り捌き、次々にむしり取るように見えるのは、外から見た姿であり、部屋の中では、恰も高齢者の味方たる人物たちが、親切そうな笑顔を見せて、動き回る。町から町へドサ回りの劇団の如く、現れては消える集団は、あくまでも金を求めてのもののようだ。どんな手法があるのか、奇術のように年寄りを集め、一騒動を起こしたら、瞬間的に消滅する。騙される人が悪いのだという、彼らの主張は、明らかに間違っているものの、被害者たちに落ち度が全くないかと言えば、そうではないだろう。平穏な毎日を送る人がいる一方で、そんな所へ迷い込む人がいるのは、何か特別な動機が必要なのだ。何かに縋りたい気持ちを利用する集団は、古今東西絶えることはない。

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1月9日(土)−釈然

 物事を分かり易く伝える事は大切だ。難しく考えなくても、理解できれば有り難いと思う人は多い。でも、と思う事は無いだろうか。例えば、分かり易くする事で、逆に本質が見えなくなる事は無いのだろうか。そんな事を考えながら、新聞報道などを眺めてみると、何となく当てはまりそうな事が沢山ありそうだ。
 化石燃料の枯渇は、以前から重大な問題として扱われてきた。ただ、ここでの問題を曖昧にしたのは、埋蔵量の概算である。何十年も前から、すぐに枯渇すると唱えられてきたのに、依然として出回っている事に、騙されたような気になる。そんなあやふやな論点を基礎に、議論を展開しようとしても容易には結論が得られない。電気やガスなどの家庭への供給を考えた時に、この問題は重要であるが、一方で、目の前の問題として見えてこない事もある。そんな中で、省エネなる言葉が編み出され、様々な場面で用いられてきた。しかし、目に見えないものを実感する事は難しく、声の大きさの割に浸透は少なかったように思える。これは、使う量を減らしても、何が変わるのかが見えない事が問題だったのではないか。そこへ、温暖化なる現象を問題視する動きが起き、同じ事を全く違った形で説明する事で、何となく分かり易くなったように感じる人が増えた。様々な形での省エネは、これまでにも導入されていたが、こんな言葉の使い方次第で、話題に上る事が多くなる。ただ、この流れには危うさを感じる所もある。つまり、温暖化が進めば、理解度が更に進む筈が、別の流れが起きると、逆効果の方が大きくなる訳だ。原因と結果が曖昧な関係にあるだけでなく、現象自体が不安定な形で現れるから、寒いと感じればおかしいと思えてくる。最近は、更なる解釈がなされているけれど、こんな後付けではやはり信用は得られない。どうなることか。

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1月8日(金)−招福

 この季節になると必ず話題になるものに、福袋がある。様々な形で福を手に入れようと、年中行事が催されているが、それに乗っかる形で商売の手法の一つで、どちらの側にも福をもたらすものなのだろう。生憎、興味のない者には理解できない部分が多いが、これ程の騒ぎになるからには、何か意味があるのだろう。
 時期を選んで売り出しをするという方法も当然あるのだが、それとは別に、こんな機会を設けるのには何か訳があるのだろう。それにしても、よくある大売り出しより更にお得なことがあるとは、俄には信じがたいが、こんなに客を集めることができるからには、余程の意義があるに違いない。ただ、全体に停滞気味の経済状況では、少々のことでは効果を上げられず、昔と比べたら、かなりの無理を通す在庫一掃売り出しの感もある。正札ならば、と説明することに、どれだけの意味があるか分からないが、海の向こうで話題になるクリスマス後の売り出しと似た所があるのかも知れない。しかし、この手法はどうも限られた国でのものらしく、品物を確かめる必要を感じる人々には、全く受け容れられないようだ。そんなことが話題になっていたのも、昔は、在庫一掃のことばかりが中心となり、売れ残りの始末といった感が強かった。最近は、そんなやり方では見向きもされないとのことで、単に正札からの割引率の問題だけでなく、時季に合わせた人気商品の提供が主体となっているらしい。それでも服となれば、気に入る気に入らないの問題がつきまとうが、これについても、客側の工夫で乗り切るようになっているようだ。商売にとって、賑やかさが第一であるからには、ほんの一時のこととは言え、この国でこういう催しは依然として重要な役割を負うのだろう。

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1月7日(木)−遺産

 予算の無駄を省く為と称して、様々な試みが為されたようだが、さて、結果はどうなったのか。蛇の道は蛇ではないが、何やら上手く取り繕う工夫が為され、いつの間にやら骨抜きに、ということも多いのではないか。特に槍玉にあげられたものの一つに、箱物の建設があるが、意味の有る無しとは無関係な議論のようだった。
 特に、文化を重視し、それを後世に伝える為の手段としての施設は、その時より後々になってから重要となる。しかし、これ程世知辛い世の中になってくると、そんな心の余裕は全くなく、すぐに切り捨てる為の言い訳を考えることになる。その一方で、海外で評価が高いからと、いつもながら、外圧に弱い所を見せるのも、どうかと思う部分がある。いずれにしても、遺せるものは遺した方が良いわけで、その為に必要ならば、箱物と雖も、と決断すべきだろう。何しろ、失われてしまえばそれまでとなるのだ。ただ、このところの流れを見ていると、玉石混淆、ありとあらゆるものが遺されていく中で、その価値を見極める必要が出てきている。絵画などの芸術作品は、それでもかなりの割合で維持されているが、一方で、文学作品は別の形での保存が施され、そのものでの維持は難しくなっており、作家の変遷といった扱いは軽くなるばかりのようだ。記念館も飽和状態となり、著名な作家でも保存が困難となっている。ここでも経費との兼ね合いが出てくるが、この国では個人所蔵のものについては、相続という高い壁の存在から、蒐集家の死去を機に、寄贈という話が持ち上がる。芸術作品を散逸させない為に重要とはいえ、箱を新たに築くとなれば、このご時世に無理難題が持ち上がる。さて、どんな工夫が為されるのか、土地財産ごとの寄贈という決断もあるようだが、維持費を考えると、どれも簡単では無さそうだ。

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1月6日(水)−責苦

 個人攻撃が激しくなるにつれ、その難を逃れようとする人の数も増えている。その戦術の基本は、目立たぬことのようで、何もしないのが一番となる。これが事実ならば、この国の将来は他人を貶める事に耽る、何の役にも立たない人間に託されることとなる。幾ら何でも、これは酷すぎる話だが、どうなるものやら。
 攻撃は最大の防禦とも言うから、自己防衛の為に他人を責めることに専念する人もいる。自分なりの仕事を積み重ねつつ、人の批判を繰り返すのであればまだしも、最近は、それしかできない人が増えているようだ。それより深刻に見えるのは、そのような人々に対して、蔑みの視線を送るのでなく、尊敬の眼差しで見る人が増えていることで、何やら大きな間違いが世の中に広がっているように思える。確かに、問題点を指摘することは重要であり、それらを踏まえての修正が、常に必要となる。しかし、重大な問題を見過ごし、重箱の隅ばかり突く、本質の見えない人々の存在には、呆れるのを通り越した感がある。ただ、批判ばかりする人のことを腐してばかりいられないのは、その批判の矢面に立たされている人々の、何とも情けない行状が目につくことで、幾ら自らの信念に基づいたものとはいえ、ここまで歪みを大きくした人々が、未だに大きな発言権を有していることには、かなりの矛盾を感じている。さっさと舞台から下りたと見せたのは、結果的には責任逃れに過ぎなかったと見えるが、下野したのであれば、それまでのことではないか。わざわざ発言を求め、依然として力があるように見せるのは、本人だけでなく、相手をする側にこそ問題がある。攻撃と防御、どちらも責任感の欠如の下では、何も成立しないということか。

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1月5日(火)−どん底

 以前から何度も書いていると思うのだが、人々は何故これ程までに口々に文句を並べるようになったのだろう。こんなことを書くと、そんなことは前からあったと反論されると思う。その通り、自分たちの周りにはそんな人々が一杯いたことは事実だろう。問題は、それを殊更に取り上げる側の感覚にあるのだ。
 正義の味方とは言わないまでも、何となく、そんな雰囲気を漂わせる集団がいる。彼らは、何かと弱者の救済を訴え、その問題の大きさを説いて回る。誰からも見向きもされない人々に、光を当てることの重要性が、いつ頃からか特に強く取り上げられるようになり、現在の状況に至ったように思えるが、果たしてそこに何かしらの思惑はないのか、どうにも不思議に思える部分がある。弱者救済は確かに重要な課題であろうが、どうやって、その弱者を選び出したのかについて、全く知らされないのは不可思議である。強者として目立つことは決してあってはならないが、弱者として選ばれることを望む、という人々が世の中に溢れ始めると、世も末という気持ちが起きてくる。何を競うかと言えば、どれだけ不幸かを自慢し合うようになっては、どうにもならないのではないか。画面に映る人々が並べる不平不満に、マイクを向ける側は同情を隠せない様子を示す。しかし、そこにあるのは単なる同情ではなく、別の感情が入り交じった、如何にも複雑な様相を呈するものなのではないか。一方で救わねばならぬと言いながら、その感情を逆撫ですることを続ける。所詮その手の輩だと言ってしまえばそれまでだが、こんな状態がいつまで続くのだろうか、と思う。文句を並べるより、確かな動きを優先するべきなのだろう。

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1月4日(月)−導入

 新たな仕組みの導入が謳われているが、その初日にどんなことが起こるか、関係者は皆それぞれに緊張しているのではないか。どんな違いがあるのか、今一つしっくりこない説明が繰り返されているけれど、効果の程への期待より、何か新たな問題が生じるのではないかという心配の方が、ずっと大きいように思える。
 電話での注文から、一体全体どの位の時間がかかったのか、今となっては想像できないほどだが、昔はそんな調子だったらしい。更に遡ると、電話の整備も不十分な時代があったのだろうから、どんなことが行われていたかにさえ、想像が及ばない気がする。そんな時も今は昔、一瞬の差に利益を求め、先を越そうと躍起になる時代となった。となれば、時間差を利用した商売も、成立することはなくなる。確か、映画で取り上げられていたように記憶しているが、競馬の賭けを扱う場所で、実際の競争から数分の遅れでラジオを流していた場面が出ていた。それによって、既に結果の分かったものを扱い、儲けを挙げていた胴元の話なのだが、受信機が普及することで、無意味な企みとなったわけだ。時差を利用して利益を上げる手法は、他にもあったように思うが、どうもこの手の話が大きく取り上げられすぎるように思う。確かに、違法行為もあっただろうし、合法状態でも長続きしない手法だったこともある。しかし、所詮は一時的なものに過ぎず、対策が講じられればそれまでとなる。ただ、次々に起こる話を聞く度に、そんなものを考え出す人々の欲望の深さに、何か別のことを考えさせられてしまう。技術の進歩が実現するだけのことだが、そんなことの為の進歩だと思うと、何やら科学技術も汚れたものに思えてくる。

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