自由な発言の場である筈が、これ程の偏向を示すのは何故か。こんな様相を眺めるにつけ、自由というものの意味を考えたくなる。人の発言に惑わされ、それに流されて書き込まれるものが、本当に自由なのかは疑わしい。当人は、ごく当然のように、自らの意見を書いているつもりが、単なる模倣者になるわけだ。
指示を守り、その通りに行う事を繰り返してきた人々には、本当の意味での自由はあり得ないのかもしれない。それにしても、と思うのは、ほんの一部の人であり、限られた範囲内の自由が、本当の自由と信じる人の方が、遥かに多いのだろう。個々の判断に基づく、多様な発言の場と、謳われている所も、ある事件に関わる部分を読み比べてみると、その発想の貧困さに、呆れてしまった。犯罪者には発言の権利が無いとか、被害者の意見は真っ当なものとか、何故、前提にばかり振り回されるのか、単純な事に気づかぬ人々に、場を設けるだけでは駄目な事が、判ってくる。何処も彼処も、だからか、あまり取り上げられる事も無い話だが、横並びなだけに、彼らの抱く危機感とは、全く別質の感覚に囚われる訳だ。責任の何たるかも議論できない人々が、説明を求める中で、その責任を問う姿には、情けなさのみが漂う。罪を犯したとの前提から、謝罪を求める気持ちの現れなのだろうが、表向きの発言と心の中が、あまりに乖離してしまった為の、自己矛盾にしか見えてこない。矛盾に満ち満ちた考えに基づく意見では、それを招いた情報に振り回される結果になるのも、当然の事なのだろう。それにしても、こんなに簡単に操作される人々が、自分たちの意見に酔いしれる社会とは、一体全体何なのかと思えてくる。そんな事思わずに、素直に酔っておけば良いのかもしれないが。
ちょっと気が緩んでいたのか、大雪に悩まされる都市が多い。ずっと昔なら、この程度の積雪は当たり前、と言われるのだが、このところの暖冬続きで、雪が無いのが当然となっていたらしい。それでも、雪が降らない冬は無く、その為の備えもそれなりにされてきた。それがこの大雪で、既に予算は吹っ飛んだとのこと。
そういう土地で育った人間なら、こんな感覚もあるのだろうが、雪が珍しい土地に育った人間には、冬の間の生活は想像がつかない。雪掻きどころか、雪下ろしとなると、どんな事なのか、さっぱり解らない。最近は過疎化の波もあって、高齢化と共に、その為の人員確保が一大問題となっていた。それでも、どか雪が降らなければ、なんとか無難に過ごす事もできたのだろうが、こんな大雪が戻ってくると、さてどんな具合になっているのやら。ボランティアなる存在もあるようで、それぞれに活躍する場がある訳だが、この状況で手は足りているのだろうか。予算に関しては、こちらに使われるのではなく、道路の除雪に使われている。幹線ならば、それで済むのだろうが、小さな道路はその範疇には入らない。結局、地元の人たちが総出で、なんとかするしか無いのだろう。こちらでも、人手が足りないとなっているのではないか、と思えるが、では、どんな手だてが、となると容易に答えを出せない。仕組みはそれぞれに工夫がなされているとはいえ、予想外のことが起きれば殆ど役に立たない。結局は人の力を集める事なのだろうが、それが難しい時代になって、どうしたものか。金での解決は、この不況下ではやはり難しい。こんな所にも、八方塞がりの状況が生まれつつある。雪の降らない土地では想像もつかないが。
ネット上で情報発信をする人が、現場主義を批判していた。的確な情報を数多く手に入れる為には、渦中に居るよりも、離れたところで見渡す方が有効というわけだ。現場に出たとしても、そこで目に入るものは、ある意味で篩にかけられたものと言う。たとえ、画像を配信しても、カメラの後に何があるかは見えないと。
こんな意見が出るのは、現場主義が大勢を占めていたからだろう。いつの間にか大手新聞が縮小を余儀なくされ、大衆がネットからの情報のみに頼るようになると、この辺りの事情に変化が生まれる。ほぼ無料で入手できる情報に、どれ程の価値があるのか、という考えは既に古いとされ、当然のことと見なされる。しかし、現実には、情報を右から左へ動かすだけの仕組みでは、源が絶たれれば、それまでということだ。三次産業の中にも、様々な業種があり、直接的な関わりを持つものもあれば、一切合切が間接となるものもある。それに信頼をおけるかは、種々雑多なものに当たらねばならないが、そんな基本さえ欠落する人々には、操られることなど何も怖くないのだろう。それより重大な問題は、情報発信側の変貌だろう。単一の情報源に依存し、それを垂れ流し続ける姿勢は、操作の片棒を担いでいるとしか見えない。捜査の進展も、筋と称する人の話では、操作の可能性が大きく怪しげだし、海の向こうに派遣された大使の自作自演劇に関する話題も、一時の盛り上がりからすれば、異常なほど静かに思える。どちらにも当てはまるのは、昔は当たり前とされた、裏をとる作業の欠落だろう。単一の情報に依存することの危険性は、一般大衆より、情報源となりうる人々の方が遙かに大きい。それに気づかぬ神経に、現代社会の抱える問題の一つがあるのだろう。
他人との違いを要求される時代になってから、様々な歪みが蓄積し始めた。横並びを望む声が高まるのと同時に、違いがあるのは当然との解釈までもが、新規なものの如く扱われた。これ自体が歪曲と思うけれど、当人たちは悦に入って、違いに戸惑う人々を救っているかのように、振る舞い始めたのには閉口した。
違いに注目が集まる一方で、横並びを標榜する動きは強くなるばかりで、これはこれで非常に大きな問題を孕んでいるように思う。何か当たりが出ると、次々に追従する動きが高まり、ついには限界に達して、脆くも崩れ始める。それが明らかになると、独自性を見出せない人々は、次の目標を定め、再び追従を繰り返す。こんな仕組みが、モデルと称するものを立てることで、完璧なもののように扱われるのは、馬鹿馬鹿しさを感じるだけで、何の意味もないように思えたが、藁をもつかむ人々には、最後の頼りのように見えるらしい。こうすれば儲けが出るという手法は、多様な相手の存在を考えれば、単一である筈はないが、それをたった一つの正答のように扱うことで、儲けを企む人々がいる。このところの流れからすれば、こういった考え方の優位性が、全ての崩壊の原因とも見なせるが、本人たちは何処吹く風と思っているだろう。ある小売業において、好業績を上げる企業が取り上げられていたが、そこに展開されるのは、昔懐かしい八百屋や魚屋といった風情の商売手法に過ぎない。そんなものを殊更に取り上げる姿勢にも呆れるが、こんなものが忘れ去られた社会に、何とも言えぬ不安を抱くのだ。早晩、これがまた最新のモデルとして紹介されるとなれば、かの連中の厚顔無恥ぶりに呆れるだけのことだ。誰が騙されているのか、早く気がついた方が良い。
何かを調べたいと思えば、その端緒となるものを見出す必要がある。蔵書を探ってみて見つからなければ、近くの図書館に出かけ、図書目録なるものやカードを繰ることとなる。探し物そのものでなく、その周辺にまで思いを広げ、言葉探しに耽るのも当然であった。そんな話は、遠い昔の出来事に過ぎない。
現代社会でこんなことをしていたら、馬鹿にされるだろう。確かに、便利な道具を目の前にして、古色蒼然とした道具を振り回しても、大した成果は得られない。それに比べれば、探し物ずばりの言葉でも、検索エンジンは次々と参考になりそうな情報を提示してくれる。旧式の人間からすれば、それを機会と捉え、関連語彙を増やす努力をすれば、と思うところだが、現代人はそんな手間さえ惜しむようだ。確かに、それ程便利で効率のよい手法の提供は、多くの利用者を集め、そこから更に広がる企業活動は、様々な方面に良悪両面に渡る大きな影響を及ぼした。中でも、検索単語に応じた広告は、その効率性から高く評価されており、最良の手法とまで言われている。それによる打撃を最も受けた業界は、広告そのものであり、不特定多数への効率の悪さが、槍玉にあげられているようだ。提供される情報に、素直に従う人々の行動様式には、一抹の不安を抱く人々もいるが、これこそが最新鋭と目する人の方が遙かに多数であり、それに沿った展開は、急速な発展を約束するものとされる。現実は、まさにその通りの経過を辿っており、一切の反論や批判を排除するほどだが、これまでの成り行きからすれば、そんなに単純で安易なものとは思えない。横並びを好み、異端を忌み嫌う人々からの賛同は、現実には、儚く脆いものに過ぎず、早晩崩れ去ると見なせるからだ。今のところは、遠吠えにしか聞こえないかもしれないが。
個人差というものは、幾つになっても存在する。死を迎えるという結末は同じだとしても、そこに至る道筋はそれぞれにより違ってくる。当然、様々な能力にも差があり、元々ある差の上に、失う過程が違う為に、更なる広がりを見せることとなる。こう見ると、ごく当たり前に思えるが、いざ自分のこととなると。
最近は年齢別の競技会が開かれるなど、能力別ではなく、加齢現象としての衰えを採り入れる考え方が一般化している。そこから見えるのは、年をとるに従い能力が衰える速さを、如何に小さく保つかという努力だが、これはまさに衰えには逆らえないことを表している。ところが、それを現実として受け止めない人々がいて、時に大きな問題を生じていることも事実だ。目の衰え、反射速度の衰え、更には微調整の衰え、といったものに襲われ、道を横断するのさえ、恐ろしく感じるようになる人がいる一方、そんなことを気にも留めず、自転車や自動車を走らせる人がいる。自信の表れと見てもよいが、実際には、少し前と比べたら、様々な違いが表面化している。免許の自己返却とでもいうのか、そんなことが大きく取り上げられたのも、これが社会問題となりつつあるからだろう。身近な存在が、そんな事例に当てはまるようになると、現実として受け止めねばならず、深刻な問題となることもある。しかし、子どもや家族がいない存在には、そんな機会も得られない。また、たとえ家族がいても、頑固さからとか、疎外感の問題とかで、勝手な判断が許されている場合、改めて考えることもない。そんな結果、高齢者の逆走が起きているとしたら、何を考えればいいのか。近所付き合いもきっかけになったはずが、全くないとなれば役立たずである。個人差が大きければ、強制も無理なわけで、さて、妙案はあるのか。
便利な仕組みが導入される度に、それを逆手にとる輩が登場する。鼬ごっこと言ってしまえばそれまでだが、明らかな犯罪行為が無くならないのは、新たな仕組みの導入前に、それに対する制限を加える措置がとられていないからだ。後手後手に回ると評されることが多いが、元々、そんな気が無いようにも見える。
こんなことを毎日できるのも、ある仕組みが導入され、それが普及したお陰だが。それによって始まった犯罪行為の被害者は、増えることはあっても減ることはない。次々に罠にかかる動物の如く、一つ学習しても、新手が登場することで、被害が拡大する。欲に基づく人間の創意工夫は、限界を持たないかと思えるほどだが、所詮人間のやることだから、どちらにも絶対的な存在がないと思えば、納得できるのかも知れない。HPを改竄し、信じ切った訪問者を奈落の底へ落とそうとする輩も大したものだが、そんな新手を使わずとも、と思い続ける犯罪者もいるようだ。電子メールを送りつけ、相手の個人情報を引き出した上で、更なる企みを膨らませようとする輩も、後を絶たない。管理者のふりをして、パスワードを聞き出そうとする古い手を、いまだに使い続ける犯罪者がいることは、それに騙される「善良な」人々がいるという証拠だろう。海外の銀行から次々に送られるメールに、困惑した人も沢山いただろうが、あれとて、何万、何十万の中から、「善良な」被害者が登場すれば、それで十分なのだ。以前より、その効率が上がったと見る向きからは、DMのように初期投資を必要とするものより、電子メールは遙かに少ない経費で済むという指摘がある。人を騙す行為に対して、従来の罰則では不十分という声も多く、この辺りの工夫も必要なのだろう。それにしても、人を罰する為の工夫とは、世も末と言うべきか。