パンチの独り言

(2010年1月18日〜1月24日)
(冷淡、誤謬、万化、真意、真価、懐古、傾聴)



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1月24日(日)−傾聴

 正しいからこそ、同じことを言うのだろうか。信念に基づいて、同じ言葉を繰り返す人のことではなく、誰も彼もが皆横並びで、同じことを繰り返す話の方だ。一般には、皆が同じ感覚を持ち、同じ印象を抱いたからこそ、同意見に結びつくのだが、それが正しいかどうかは、全く別の話となるのではないか。
 情報操作が行き届けば、歪曲された情報のみが行き渡ることとなる。それが正しいかどうかの判断は難しく、唯一の考え方に沿った展開が広がる。極端なことが起きれば、互いに異なる情報源を抱え、正反対の考えをもつ集団が形成される。それぞれに、正しいとの信念から、主張が繰り返されれば、一見矛盾に満ちた議論が行われ、それを見守る人々には、どちらに与するかにより、正反対の判断がなされる。情報が限られているだけに、狭い視野からの判断しかできないが、基盤とするものを定めれば、それ自体は正しいものとなる。だが、もしも情報が操作されていたとしたら、正誤の判定は簡単に覆されるだろう。こんな場合に重要なことは、どちらの意見に耳を傾けるかではなく、どちらの意見も同程度に聞く必要があることだろう。その上で、自分なりの判断を下せば、片方に偏った上での判断よりは、少しはましなものとなる。ただ、それとて、情報不足には違いないから、十分な精査の上でのものとは言い難い。最大の問題は、不十分な情報を垂れ流すことであり、本来ならば、全く流れてこないか、十分な量が流れるかであるのに、中途半端な形に操られていることだろう。情報を制する者こそ、と言われたのはもう随分昔のことだが、こういった形での操作が一般化したのは、ごく最近のことに思える。ただ、一部の人にとっては、あの頃の崩壊に邁進した時を思い出されるのかも知れないが。

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1月23日(土)−懐古

 写真機を手に、町を歩く人々が居る。それぞれに目的が違っているのかも知れないが、何かしらの情報源に基づく行動に思える。昔懐かしい町並みに、レンズを向ける姿からは、どんな意図があるのか想像できないけれど、これ程の数が繰り出すということは、何かに動かされているのではないか、と思えてくる。
 一度失われたものを再現するのは難しい。特に、町全体の環境が変わっていれば、そんな中に現れた古ぼけた建物に、逆の効果を感じる人も多いだろう。その意味では、懐かしい時代という売り込みで、町並みから作り直した所が登場したのは、当然のことかも知れない。ただ、それでも、観光に訪れる人たちにとっては、別世界に入り込むような感覚があるのではないか。そんなことを感じながら、懐かしい光景を楽しむ人が増えていることに、同意するつもりはないけれども、商売として成り立つ所を見ると、不思議な感覚と思えてくる。最も理解しがたい点は、他人が用意したものを懐かしむ心理で、自分たちの周囲に築くことなく、まさに普段の生活からかけ離れた所に、そういうものが存在することを要求することだ。本当に懐かしく、それを手に入れたいのなら、自分が住む世界に取り込めばいい。そんな気持ちもなく、ただ、時々眺めて懐かしむ、という精神は、彼らの間では共有できる感覚かも知れないが、こちらにとっては異次元の現象に思える。現実とは何か、そんなことを考える筈もなく、ただ、享受できるものを追い求める。自分の世界は、しっかりとした壁で取り囲み、他人の壁の中に入り込む。所詮、商売に過ぎないわけだから、入られる人々にはそれなりの覚悟があるのだが、入り込む方の心理は如何なるものか、理解しがたいものに思える。

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1月22日(金)−真価

 安売り合戦が起こり、客の奪い合いが熾烈となっているが、その一方で、デフレスパイラルなるものを持ち出し、将来への不安を訴える声が大きくなっている。図式はごく単純なものだが、それが現実となったことはなく、悪夢に過ぎないとする向きもある。真偽の程は如何にしても、不安感は重要な要素だろう。
 図式通りかは不確かだが、それが始まる以前から、既に低賃金の問題は拡大しており、それに拍車がかけられるかが、肝心な所ではないか。そんな中で、信頼を失った組合は、戦意喪失とも思える雇用確保の方針を打ち出した。この情勢で、その選択は最善と見る向きもあるが、賃金低下を論じることなく、地位保全のみを問題とすれば、悪化の勢いを止めることは難しい。この辺りの把握力の減退が、資本主義の限界を示しているように見えるが、だからといって、より良い方策が見えてくることはない。観点を変え、戦略を組み直す必要があるが、他所と同様に、組織の構成員にその能力を期待することはできない。改革が煩く取り上げられた時、余所事のように見ていた人々は、自分たちの足元にも同様の問題が蠢くことに、気づくことがなかった。その時点での手当てが適切なら、これ程の荒れ様は無かったのだろうが、時既に遅しとなった。応急手当の連続は、負の連鎖を止めることもできず、場合によっては、逆に速度を増すことになった。これらの問題の根本にあったのは何か、今更論じても無意味だろうが、考えてみると、そこには価値判断があるような気がする。価値を正当に見極める力を持っていれば、正反対の決断もできたのに、継続のみに拘った結果、真の変革を引き起こすことができなかった。正確に言えば、しなかったと言うべきか。

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1月21日(木)−真意

 政治に限ったことでなく、報道姿勢の問題が取り上げられることが多くなっている。偏向は明らかな問題だが、それを批判された途端に、反論を始める姿勢にも、彼らの言葉の中にある「信頼」が失われつつあることが、現れているように思う。もう一つの問題は、正確な伝達が疎かになっていることにある。
 言葉や画像で伝える時に、意味が伝わらなければ何にもならない。言葉の選び方、並べ方が重要となるのは、その点なのだが、最近の傾向は、ぼんやりとした形で伝え、後々の逃げ道を残そうとするところにある。誰からの情報かを明示しないのは、情報源の秘匿の問題から当然に思えるが、事が公的なものとなると、匿名性は偽情報の温床となりかねない。この点に関する情報の取扱は、近年杜撰さを増すばかりであり、井戸端会議の噂話と変わらぬ姿を曝している。一方、言葉の選び方にも不適切な点が満ち溢れ、受け手の勝手な解釈が許容されることで、却って混乱を招く結果となる。発言者の不適切によるものもあるが、報道に携わる人間は、その舌足らずを補うことこそが役割であり、その確認を怠ることは、職務を果たしていないこととなる。大手航空会社の破綻に関する公共放送の報道で、監督官庁の長の発言が伝えられた。その中に、「2社体制を見直すことも考えておかないといけない」との発言が引用され、その後に、「国際線の大手2社体制を見直すこともありうる」と説明された。原稿を書いた人間は、これで十分に意味を尽くしたと思ったのだろうが、見直す結果何が起こるのか、全く分からない。他の報道では、「将来的に、”国際線の1社体制”」との説明が加えられていた。発言者の舌足らずもあるが、それに補足説明を加えることの重要性が見えるのではないだろうか。

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1月20日(水)−万化

 変える、新しくする、といった言葉の流行が起きてから、一年ほど経過しただろうか。世界各地で大きな変化が生まれ、それを歓迎する声も高まったのだが、その後の流れは淀んでしまったように見える。本来、急速な変化は望まれないのに、それを望む声を背景に起きたことは、結局、期待通りには動かなかった。
 大きな変革が生じた時、引き継いだ人々にとっての課題は、何をどう変えるかを見定めることだろう。その意味で、海の向こうの変化は、十分な調査に基づくものだけに、他とは違って、的確で迅速なものとなることが期待された。ところが、結果として目の前にあるのは、予想だにしなかった為体であり、まるで的を失った矢の如く、無意味な射出が続くばかりとなった。大衆の期待した的は、何処かに忘れ去られ、国家にとって重要な的ばかりに注目することで、こんな事が起きたのだが、現実には、どちらの的も射抜かれていない。何ともはや、情けない状況だが、準備万端に見えただけに、落胆も大きいのだろう。それに比べて、こちら側は、見通しの甘さや準備不足が目立つばかりで、無為な一年を過ごすこととなるが、逆に見れば、それによって、状況把握と標的選択が、時間をかけて行えたのではないか。どちらにしても、任期があるものだけに、その中での総合的な成果が問われる筈である。その意味では、二年目の重要性は、改めて指摘する必要もないほどだろう。ただ、同じことを繰り返すことは無理であり、少なくとも、自らの中での更なる変化が必要となる。それに対して無策を続けたなら、期待が萎むだけでなく、国情にも大きな影響を及ぼすこととなる。真価を問われるのはこれからという認識があるかどうか、定かではないが。

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1月19日(火)−誤謬

 テレビの見方は様々だろうが、元々落ち着かない上に、広告になると別を見たくなる。公共放送と呼ばれた筈が、最近はそこでも自局の宣伝に余念が無く、操作を促されているように思える。実際には、変化はかなり深くまで及んでおり、大衆化が低俗化、民間化の如くに映ることも多々あり、末期症状に見える。
 広告で支えられているのではなく、受信料によって経営していると、強調する姿勢は硬化するばかりだが、その実、内容は急速に民放に近づき、世論を味方につけようと、躍起になる姿が露わになりつつある。当然、番組内容は質の低下が否めず、大衆の好みに近づこうとの意図が露骨に現れる。それでこそマスメディアとする向きもあろうが、従来の質の高さを誇った経営姿勢は、何処へ消えてしまったのだろう。誰を味方にするかを見誤れば、滅亡の一途を辿ることになるが、一種そんなことを想像させるほどの状況に陥りつつある。以前ならば、中立を貫く為に、偏向した情報は排除していたものが、最近は、ゴシップ紙と見紛うほどの動きを見せる。確かに、皆が知る情報を流すだけでは、支持を得られないのかも知れないが、確実なものの確認の為と思えば、その意義は大きい筈だ。にも拘わらず、ニュース番組で、自らの稚拙な意見を披瀝し続ける一方、事件の本質をねじ曲げた情報を流し続ける。違法行為の判断は、司法に委ねられるものであり、民意を云々するのは、たとえ相手が選挙で選ばれようとも、明らかな誤りである。こんな低俗な判断が、公共の電波に乗せられるのは、銭稼ぎに奔走する局だけで十分であり、国民から料金を徴収してまですることではない。昔を知る人々は、盤石な構えを貫いて欲しいと思っているに違いない。

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1月18日(月)−冷淡

 節目を迎え、様々な催しが開かれた。風化させないように、との意図から、色々な観点に基づく企画が為されたが、強い違和感を覚えることがあった。忘れられないように、という感覚は大いに理解できるものだが、そこに取捨選択がないままでは、却って焦点が暈かされてしまい、何を心に刻めばいいのか不明確となる。
 災害の規模や、その経験から見えてきた事柄を伝えることは、どれも必要不可欠であり、津波の被害から分かるように、語り伝えることの重要性は大きい。そういう考えに基づく内容については、何も異議を唱えるつもりはないが、それに付随する事柄については、どんな意図に基づき、何を伝えたくて、意図されたのか、理解に苦しむ。そこで起きた悲劇や人間模様を伝えることは、物語としては必要な要素だが、風化を防ぐ為の手立てとは思えないし、その悲しみや亡くなった人々のことを忘れること自体に、関係者以外との関わりを採り入れるのは、何処か理解しがたい部分がある。最近の傾向なのか、国民性の問題なのか、その原因は定かではないが、このような企画を重視する姿勢に、問題意識の薄さが感じられる。ほんの偶にしか起きない天変地異では、その記憶を保つことは困難を極める。それでも、何処か隅の方に覚えておくだけで、その場での対応が適切となることは確かだから、何とか全体として維持できるように努力することは必要である。そこには、同情とか悲しみとか、感傷が入り込む余地はなく、単純に何が起き、どうすべきかを伝えるべきであり、記憶の強化を目的とした悲劇的展開は、余程の場合でない限り効果を上げない。おそらく、そんな効果を狙ったのではなく、劇としての興味からの企画だろうが、混乱を招くことしかないように思えた。

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