相変わらずの「喉元過ぎれば」なのかとも思う。仕分けの顛末はどうなったのか、話題にする人も少なくなった。予算折衝に係るものだから、それが終わればそれまで、ということだろう。にしても、あれほどの話題を振りまいたものが、それで終末となるのは、如何なものか。騒がせだけでなく、騒いだ方も、だ。
一部には、あの作業によって考え直すきっかけができた、という声もある。当事者、関係者には、忌憚なき意見は効果を及ぼしたのかも知れないが、肝心の決定権を持つ人々には、まさに始めに書いた言葉通り、黒々とした腹の中に収まってしまったに違いない。無駄を省く必要は何処にあったのか、既にそんな論点も霞んでいるが、こちらは編成の度に持ち出される。その点では、永遠に片付けられない課題となり、魚の骨のように始末に負えないものだろう。だが、改めて考えてみると、あの時の選別の基準は、全く別の所にあったように思える。政権を取った政党にとり、最終決定権を得たことは、予算の額だけでなく、使い道への関与に絶対的な力を示せる。従来からの主張の中に、その対象を探せば、今回の基準も姿を現すのではないか。確かに、書類作成はあの省が行い、思い通りに事を運んだが、その際の媚びの売り方も中々に思えた。つまり、相手の喜びそうな話題を、中に忍ばせていたというわけだ。無駄という的は第一にあるものの、そんな基準はどうとでもなる。その上なのか、下なのか、差し込まれていたのは、天下りという現象だろう。全てを見直したわけではないが、決定理由に示されていたものは多い。だが、そう考えると、件の省からのものが少なかったことには、とんでもない思惑があったとなる。
推測はあくまでも推測に過ぎない。そんなことは承知の上で、様々なことを述べねばならぬ人は、確かに辛いものかと思う。しかし、その一方で、推測も憶測も何もかもごたまぜにして、書き並べる人がいるのも事実だ。信頼できるか情報源として重要なことだが、兎に角集める必要がある時には、こんなのも並ぶ。
国の違いは、使う部品との追加情報があり、それが違うからこちらは安心と、報道された。真偽の程は、製造企業の言葉だから、考える必要はない。それで十分なことであり、余計な推測は単なる思い過ごしとなった。それはそれとして、最近の傾向はこんな所にも現れている。小出しにする、舌足らずになる、思惑を盛り込む、といった恣意的な流布は、それを頼りにする人々には、迷惑千万といった所だろう。ただ、その過程では、そんなことが分かる筈もなく、振り回されるだけのことだから、いかんともし難い。精々、信頼できる筋を、自ら確保することが必要と思うだけだが、おそらくこれが一番難しくなっているのではないか。情報統制は言い過ぎとしても、思惑蠢く社会の中で、果たしてどんな筋が信用に値するのか。その判断さえも、不確かな情報に依るしかない。源となりうる立場なら、真偽交えて流してみれば、その信頼度を測ることができるだろうが、そんな人は一握りに過ぎない。彼らからすれば、ひょっとすると、絶対的に信頼できる存在などありはしないのかも知れないが、もしそうであれば、一般大衆にとっては、自分に都合の良い情報を握って喜ぶぐらいが精一杯だろう。まあ、そんな程度に気楽に構えておけば、大した心配もせずに済む。全てを正確に、と望むのは諦め、別の展開を自ら築けば良いだけのことだ。
織機製造を手がけた企業が、交通の未来を背負うと見られた自動車産業に、いち早く手をつけ、徐々に実力をつけた結果、その発明を為した国での販売一位を獲得するまでになった。海の向こうなら、早速成功物語として語られそうな話だが、成長の難しさだけでなく、安定の困難に直面し、厳しい状況にある。
突然飛び込んできた情報に、始めは首を傾げるばかりだったが、その後の対応に齟齬が生じ、一気に奈落の底に落とされたような状況に陥っている。現状を眺めれば、そんな形容が適当と思われるが、関係者たちにとっては、不況そのものに続く、思わぬ苦境といった感があるのではないか。特に、性能や質の高さを誇り、消費者の信用を長い期間をかけて築いてきただけに、今回の動きは違和感を抱かれたように思える。加えて、こちら側の事情を見渡すと、向こうの対応との違いに、理解できないと思う人もいる。同じ車種にも拘わらず、あちらは駄目で、こちらは良いと言われても、すぐには納得できないという思いに対して、ただ、あちらは危険だが、こちらは安全などと、説明にならないことを言われても、困るだけの話である。報道の不手際を繰り返すのも何だが、この際も、どう違うのかの説明は殆ど聞かれない。現時点で同車種に乗る人にとって、単に不安を煽られるだけで、何の解決策も示されていないわけで、幾らそういう時代だからといって、すぐに納得することなどできないだろう。ここからは推測に過ぎないが、両国での最大の違いは、運転席の位置にある。販売国の事情を汲み、その位置を変えるのが当然と思うのは、こちらだけの事情であり、あちらにはそんな感覚は存在しないのだが、実際に運転すると、細々としたものの位置に違いが見られる。ペダルもそうであり、ひょっとすると、壁との間隔などが微妙に違うのだろう。そこを汲み入れての改造の筈が、不十分だったとすれば、対応の違いも理解できるのではないか。
死語と言うと、一部の知識人から叱られるかも知れないが、「マッチポンプ」という表現は聞かれなくなった。辞書にも載せていないものがあるが、あるものでは、「自分で問題やもめごとを起こしておいてから収拾を持ちかけ、何らかの報酬を受け取ろうとすること」と説明する。要するに、二役を演じることだ。
単なる一人二役ではなく、始めと終わりの二役を演じることが重要で、原因と結果の両方を作ることとなる。この表現自体は聞かれなくなったものの、こんな演技をする人は毎日のように紹介される。ただ、実名が出ることは少なく、情報源として伏せられ、結果が現れる頃には、顔が出るわけだから、始めの部分に関しては想像するしかない。放火と消火といった物騒な話でなくとも、恣意的な動きには、総じてこんな伏線があり、勢力争いなどでは、互いの策略のぶつかり合いという様相を呈する。関係者とか内部告発とか、そんな言葉の裏には、こんな思惑が蠢くことが多い。その一方で、世論調査の類にも、その手の戦略が盛り込まれていることに唖然とする。度重なる報道で、恣意的な誘導が施された後に、調査を実施すれば、思惑が功を奏したかどうかが確かめられる。当人たちは、その程度の考えで行っているのだろうが、それが報道という形をとった途端に、恰も公正なるものと扱われ、民意を如実に表したと解釈される。原因を作った人間と、結果を分析する人間が、同じ集団に属しているのは、本来公平性を欠くものであり、当然排除されるべきだが、そのような配慮は為されていない。それに輪をかけるのは、多分購読者、視聴者たちの無思慮であり、無分別なのだろう。冷ややかな視線を送る以外に手立てはないが、自壊の道を歩む人々は、自戒の念を浮かべることもないのだろう。
詐欺の被害が減っているとの報道があった。奇策が功を奏したとも伝えていたが、どうだか分からない。何しろ、所詮は鼬ごっこの話であり、ああすればこう出るといった類なのだ。要するに、被害者にならない為に必要なことは、が肝心なのだが、何故いとも簡単に騙されるのか、さっぱり理解できないのだから。
そういう思いを抱く反面、どんな手練手管が施されるのか、興味深くもあり、恐ろしくもある。ただ、日頃からそんなことに接すると、子供騙しに過ぎないものが多く、結局、何故という所に至る。まあ、心理を揺さぶることが重要らしく、脛に傷持つ人々にとっては、陥れられてしまうようだ。金に困った人々には、それが第一となり、自らの行為が犯罪となるかの判断が、何処かへ飛んでしまうと聞く。それと同じように、高収入を望む人には、金額の多寡が第一となる。面白いのは、この手の詐欺紛いの中に、時給の高さを謳うものがあり、同時に在宅作業であることを魅力の一つとして示す。通常の感覚からすれば、誰の監視もなく労働時間を規定することは難しい。だが、喉から手が出るほど金が欲しい人々にとっては、高時給の上に、自宅で働けることは二重の魅力と映るらしい。そういう欲求に駆られることで、正常な判断力を失うのか、はたまた、そんな境遇にあるのは、元々判断力の欠如が顕著なのか、いずれにしても、騙される人が居るからこそ、いつまでもこの手の話が尽きないのだろう。後に明らかになるのは、専門家なら一時間で済ませられる仕事でも、初心者は数日かかっても終わらせられないことで、そこでの騙しと、それに加えての初期投資という手段で、単に役立たずの物品を高額で購入させられるだけのことだ。こんな単純な図式が見えなくなるほど、欲は人の目を曇らせるのか、あるいは思考力欠如なだけなのか。
ある組織の横暴さを追及する勢力と、その必要性を評価する勢力の争いは、当分の間続くのだろうか。分立を説く人々からは、必要性への言及は多くあるが、だからと言って、現状が評価に値するかは別のことらしい。興味深いのは、嘗て組織に属していた人々の反応で、これも賛否両論といった様相である。
三つの権力の均衡が現代社会を支えている。一般庶民には、何の意味かさえ分からないことに、これ程躍起になるのは何故か、無関心社会においては、理解されないどころか、例の如く、関心を向けられることもない。ただ、彼らの関心が向くとすれば、そこには権力争い、違法な金の遣り取りなどといった、下世話な話題が盛り込まれた時だけだ。そもそも関心のない人間に、意識調査を施す意味はない筈だが、毎度お馴染みの世論の動向が報告される。賛否を問うたとしても、流布されるネタに振り回されるだけのことでは、どれ程の意味を成すか怪しいものだろう。にも拘わらず、こちらも毎度の事ながらの「世論」を翳しての批判となれば、基盤の脆弱さを抱えた上でのこととなる。正論を吐いているように見える人々も、確固たる論理を持つわけでなく、そんな状況だからこそ、大衆の声としての世論を味方にと思うのだろう。しかし、法の下に裁くべき人々は、大衆の感覚からかけ離れ、ただ法を唯一の頼りとして動かねばならない。その基本姿勢がいつの間にか失われ、茶番とも思える劇を演出するとなると、信頼は大きく揺らぐのではないか。調べる上で、本当に重要なことは伝えないと論じた人も、情報漏洩については触れようともしない。この国の人々の欠点の一つに、仲間意識の問題があると言われるが、こんな所にそんな様子が窺い知れるようだ。
最近は少なくなったが、ある時期に道路工事が頻繁に行われる時代があった。無駄とも思える繰り返しに、利用者からの不満は大きかっただろう。だが、歩道工事に関しては、それ程の反対は出ない。障害者の為に段差を無くすとなれば、弱者保護の意味から、安易に批判することは許されないからなのだろう。
障壁を取り除くことの意味は大きい。それによって自由な行動が保証されるのなら、推進すべきとの判断も理解できる。ただ、新しい道路でそれが行われるのを見かけると、計画性の欠如ばかりが前に出てくる。はじめの工事で行わず、再び掘り返すのは無駄と。そんな整備に力を入れても、全ての障壁を除去することは難しい。折角途中までは滑らかに移動できたのに、ある所で途切れているばかりに、行動範囲全体が制限されることも多い。こちらに関しては、整備の進捗を待たねばならないが、その一方で、障害者と思われる人々の意識にも、気になる所がないわけではない。例えば、段差を避ける為に車椅子で車道を移動するのは、やむを得ないのだろうが危険が伴う。弱者の立場から見れば、強者と思しき人々が配慮すべきとなるだろうが、一方で自己保身に走ることも重要ではないか。当然の権利と思っているかは確かではないけれど、ちょっとした配慮で思わぬ事故を避けることができるのも事実だろう。街路樹の根で凹凸ができた歩道は危険と、車道を歩く盲人には別の危険が見えず、遠回りは面倒と、横断歩道のない道路を横切る老人には節約の考えしかない。危険回避の方策は種々あれども、それを講じるには、一捻りが必要ということか。そう思えないこともないが、現実には、互いに規則を守るという原則が全てだろう。保護への依存を考えないことが、第一ではないか。