パンチの独り言

(2010年2月1日〜2月7日)
(事実、峻別、逃避、異文化、無用、興味力、暴挙)



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2月7日(日)−暴挙

 数字を提示する事で、自らの主張を正当化する。こんな書き方をすると、いかにも恣意的な行為であり、嫌悪感を催すが、現実には、こんな手法が世の中に溢れ、多くの人々がそれに振り回されている。特に、報道の世界では、これを如何に巧妙に用いるかが重要であり、それに乗せられる人が続出することとなる。
 世論調査の数字は、大小の変化が核心となるが、少数派の意見は切り捨てられる。民主主義を多数決と結びつける人々には、当然と思える行為だが、本来の主義はそんな所には無い。一方で、何やら騒ぎが起こる度に驚かされているのは、ごく少数の意見を大きく取り上げる動きだ。1%にも満たない意見でも、重要と見なせば何度も取り上げる。10万人以上の使用者から100件程度の意見が寄せられても、命に関わる問題だからとなる。その通りかもしれないが、その他の声無き意見はどうなるのか。この辺りの扱い方が巧妙と評したくなる理由である。機械任せにできないという話も、暫く前の話を思い出すと滑稽にさえ思える。航空機のニアミスが起きた時、操縦士の決断に反して、飛行機は異なる動きをして、事故を避けたと伝えられた。一時期の批判続出に、開発担当者は、人間の判断の曖昧さを指摘し、最終決断さえも機械にさせる仕組みの重要性を説いた。多分、既に忘れられているだろうが、人間の感覚と経験が、これ程の習熟者でも不十分となりうるわけだ。何人居るか判らない程多数の運転者に対して、同じ事をする程の技術は未だ存在しないが、細かな部分については同様の事が起きている。それに対して、感覚こそがとする話や、声無き意見を無視する動きには、報道に携わる人々の無知さや横暴さが如実に現れているのではないか。

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2月6日(土)−興味力

 電車やバスの中で居眠りする人が目立つ。この国の人々は人前で寝る事を何とも思わないようだが、他の国では珍しいものらしい。息抜きの時間ならいざ知らず、大事な会議や集会の中でも船を漕ぐ人がいると、いくら何でもどうしたものかと思う。眠る行動の違いと見る向きもあるが、本当にそれだけなのか。
 乗り物の揺れにつられて、というのは確かにそんな原因が挙げられるだろうが、会議は別の理由の方が大きいのではないか。最近のように、印刷した資料よりも、映像で提示する事が多くなると、照明の具合も変化して、丁度良い心持ちになると言えなくもないが、根本にある議論の内容はどうだろう。つまらない議事では飽きるのも当たり前、とする話もあるけれど、大切な事を話し合うのが会議の目的ではないか。参加者がそんな考えを持つこと自体、巫山戯た話と言わざるを得ない。特に、選挙等で選ばれた人々が、船漕ぎに勤しむのは、情けない限りだろう。一方で、つまらないかどうかを決めるのは、話す側の資質次第とする向きもあるが、現実には、聞き手の資質による所が大きいのではないか。話が面白ければ、という反論もあるが、面白がるかどうかは、現実には受け手の感性による。会議が面白いとするのは不謹慎極まる事かもしれない。しかし、興味を持つかどうかは、議事進行に重要な要素である。眠り込む人々には、話の内容を理解する力が無いばかりか、それに興味を抱く力も無い訳で、そこに座る資格が無いとなる。理解力を話題にする事はあっても、興味を抱く力、興味力とでも言うのだろうか、こちらを話題にする事は殆ど無い。読書にしろ、聴講にしろ、有り難く戴くのでなく、自らの働きかけが必要であり、議論も同様なのだろう。

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2月5日(金)−無用

 販売店で怪訝な顔をされる。ギア変換を自動でなく、手動でやりたいとする購入希望者は減り続けているようで、販売活動の主体はATとなり、MTは特別扱いされかねない。新規に運転免許証を取得する人たちも、その多くは限定であり、敢えて面倒なことを避ける傾向にある。車を愉しむ感覚は変貌した。
 技術革新はこんな部分だけでなく、あらゆる所に及んでいる。以前なら機械といった感覚ばかりだったものが、精密機器と見るべき程の技術が注入されているが、全体の形にそれ程の変化がない為に、一般の認識はそうなっていない。電子機器の搭載も盛んであり、整備に必要な知識も、駆動機のものより、電気系統のものの方が遙かに多くなった。この波は運転する側にも及んでおり、昔習った技術が無用のものとなる場合もある。運転で重要なことは加速でなく減速であり、如何に安全に止まるかという点には、何の変化もない。しかし、運転技術に依存する割合は、技術革新と共に急激に減少しており、単純な操作で十分な効果が得られるような仕組みが導入されている。動いている部分を停止させることが、車体全体を止めるのに逆の効果を生じることが明らかとされ、欧州の企業がその仕組みを開発した。戦前からの研究が実を結んだのは70年代だそうだが、その後大衆車にも導入され、多くの人が無意識のうちに使っている。油圧を利用するだけの仕組みでは、何度も踏み込むことが効果を産むとされたが、こちらの仕組みでは一気に踏み込むことが想定され、回数を増やすのは逆効果とされる。ただ、この方式では一度回転を止めかけたものが、動き出すわけだから、運転に違和感を覚える人も多い。苦情も多いのだが、制動距離はより短いとなれば、機械に従うしかないわけだ。感覚は重要だが、こんな感覚は無駄となるのかも知れない。

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2月4日(木)−異文化

 春が来るのは当然、という考えに疑問を抱き、殺虫剤の危険性を訴えた本は、長年多くの人々に影響を及ぼしてきた。出版当時は様々な妨害があったそうで、その影響力の大きさが想像できるが、世界中で翻訳されたものが出版され、化学合成の悪影響が及ぶのを防いだとして評価が高く、考え方を学ぼうと読む人も多い。
 翻訳という作業は、読者を増やすために必要不可欠なものだが、名文家で知られた新聞人はその著書で、外国語を理解することとその意味を異言語に変換することの、二つの才能を必要とする難業で二度とやらないと断言するほどだ。確かに、自らの創作でなく、原著者の創作に沿って、必ずしも同じ規則に則らない言語で表現するのは、難しいことだろう。特に、辞書を繰ってみれば分かるが、ある言語の一つの単語が、別の言語では様々な意味を表すことは、言葉の置き換えにおける困難さを示している。始めに取り上げた本も、内容の素晴らしさのみが紹介されるが、翻訳の質は怪しいところが目立つ。訳者は文学者との紹介もあるが、匿名であり、正体が知れない。一般書として使うにしても、用語の誤訳が目立つのは、感心しないし、これを教育に使うとなれば、危ないと言わざるを得ない。当時の考え方で正しくとも、その後、思わぬ展開が起きたこともあり、いつまでも古典に依存する姿勢は、慎むべきではないか。批判的なことも含め、教育に活用するのなら良いが、信じ込ませるために使うのでは、危うさのみが際立つ。翻訳の役割の重要性は、別の場面でも気づかされる。推理小説の売れ筋で、検屍官を話題にしたものがあるが、この著者の翻訳で主題の違うものも出ている。ただ、文体の違いから馴染めないと感じるから、何かが違うのだろう。最新刊では訳者が違うのを不思議に思ったが、死亡記事が掲載され、頷くしかなかった。

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2月3日(水)−逃避

 勇気ある行動と言ってみたり、敵前逃亡と言ってみたり、同じことを眺めても、正反対の感想が出てくる。それぞれに感じ方が違うのだから当たり前だが、それにしても、その行動自体はどんなものなのか。どうも、個人差の話ばかりに注目がいき、社会的な尺度に話題が移る気配は見えない。不思議な時代だ。
 ある選挙が行われ、予想外の結果が出た。裏切り者は誰か、生贄を見つけ出そうとする動きが起きれば、次に何が起こるのか明白だろう。有ること無いこと、並べ立てる話が続出し、事実は闇に葬られる。だが、今回の展開は少々違っていたようだ。当事者が名乗り出ることで、憶測を遮る手立てが講じられ、一件落着なのだろうか。その後の流れに、人々の目は集まり、退くことに対する見解が出されることになる。ただ、早速のところでは、何とも中途半端な雰囲気で、これまた大衆の蒙昧ぶりを表しているとも思える。圧力を推測する者、明確な態度を見せぬ者、別の話題に移る者、どれも今の世の中の考え方を如実に表している。行動への責任は、人それぞれに持つべきものであり、それを果たす方法も、人それぞれという考え方が、現代社会では一般的となっているが、ここに大きな問題がある。自分の思いが遂げられなければ、辞めてしまう人間も、手がつけられなくなると、批判する側に回る人間も、自らの置かれた立場を考えない。そこに最大の問題があるのだが、それに気がつく人間は目立たなくなった。攻撃は最大の防禦という言葉を、こういう場合に当てはめると、攻撃は批判であり、それを受ける人間にならないことが、第一の目的となる。潔さを取り上げる人の意見も浅はかだし、組織の腐敗を嘆く声も上滑りだ。決断の責任はそれを続けることでしか果たせない。

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2月2日(火)−峻別

 いつもなら数台はいる違法駐車、すっかり消え失せてしまった。天候のせいもあり、いつになく早仕舞いとなったのか、綺麗さっぱり片付いている。本来ならこんなに走りやすいのかと、改めて思うわけだが、違法行為を繰り返す人々は何を考えるのか。こんな様子を見ると、自分のことだけは可愛いという思いが見える。
 他人事のように振る舞うと批判される人の多くは、自分事となると眼の色を変える。自他の区別を明確にすることは、彼らにとっては一大事なのだろう。こんな人種は昔からいたわけで、現代社会の病巣と扱うわけにはいかないが、それにしても、これ程目立っていたのか知りたいところだ。企業活動でも、政治活動でも、あらゆる活動にそんな傾向が目立ち、昨日と今日は違うことを言う。朝と夕では違うという表現ともう一つの表現を取り違えて、前任者と同じと揶揄された人もいたが、漢字の読み書きができない漫画オタクと同じとされては、かなわないと思ったのではないか。彼らの遣り取りを眺めるに、攻守ところを変えただけで、同じことを繰り返している。彼我の違いがあるだけで、中身が同じとは、互いに芸のないことと見える。立場のある人間には禁忌だが、無い人間には無関係とは、どちらにも関係ない人間には、不思議にしか思えない。いずれにしても、法令違反であることをやりつつ、立場の違いは問題とはならない。注目される連中もさることながら、世の中には自他の区別をはっきりさせる人が数多いる。しばしば、その行状が極端すぎて取り上げられることもあるが、普段は顧みられることもない。これが世間というものと言われるかも知れないが、嫌な思いをさせられるのは御免だ。

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2月1日(月)−事実

 目撃した人の話を聞いても、人それぞれに違うことを言う。何故と不思議に思う人もいるが、当然と受け取る向きもある。人々は、同じものを見ているようで、違う様相を記憶に留めるようだ。そうなれば、一人の記憶に頼るのでなく、なるべく多くの人々の声を聞く必要がある。ただ、多種多様だった時は、さて。
 その場で起きたことは変わらない。その場で見えていたことも変わらない。なのに、どうしてこんな事が起きるのか。全ての人の声を聞くことができたとしても、それが全てを表しているかは保証できない。身近な出来事でも、こんな事はしばしば起こる。では、過去の出来事を顧みた時、そこにあるのは何なのか。遠い昔の出来事を知ろうとすれば、文字で遺されたものに当たるしか方法はない。もう少し新しくなれば、写真や動画などの記録もあり得る。ただ、どちらにしても、誰かの作為や思惑が入っていないとも限らない。そんな中で歴史検証が行われるが、勝敗を決する史実の場合、敗者の見地は排され、勝者の言葉のみが残されることとなる。これが史実か、迂闊な判断は慎むべきだろう。正反対の見解を持つ国同士が、互いの共通理解を深めるためと称して、これ程明らかとなっている問題に取り組んだ。結果は明々白々、予想通りのものとなる。結論を出すことに対する責任は重く、相互理解に至るどころか、自己主張の場となってしまう。このこと自体を批判するのは簡単だが、問題の本質を見ないと言い返されるのを覚悟しなければならない。データとして絶対視される数値でさえ、不確定なものが並ぶ状況では、何を拠り所にすればいいのか、分かる筈もない。こんな状況で、無知未習を問題視するのは、自らの蒙昧ぶりをさらけ出すことにしかならない。

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