パンチの独り言

(2010年2月8日〜2月14日)
(勘定、無知、意欲、鋭敏、表裏、無心、無為)



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2月14日(日)−無為

 二週間程前だろうか。近くの天神で開いたばかりの梅の花の匂いをかぐ人の姿を見かけた。もう、春の訪れかと思わせたが、やっと立春となれば、まだ寒さの底である。暖冬の予想は何処かに消し飛び、温暖化の兆しが少しも感じられない。人間社会の騒動に無関係に、自然の動きは何らかの規則に従うのか。
 気温の変化によって一喜一憂するのは人間だけなのか、それとも自然の動植物もそうなのか。聞いてみたとしても、誰も答えてはくれないだろう。ただ、花が開いたり、姿を見せたりする事で、季節の訪れを報せてくれる。数字で示す事を覚えた動物から見れば、勝手気侭に、気分次第で決められる生き物たちの行動は、何とも不思議なものに思えるだろう。しかし、逆から見れば、瞬間瞬間に示される数字に左右され、あたふたする方が可笑しく見えるのではないか。自然の生き物たちも、人間の活動に左右されるものがあり、その分布を大きく変化させるものも少なくない。それを引き合いに出して、温暖化の動きと捉える向きもあるが、本当のところは未だにはっきりしないのではないか。人口密度の大きな地域では、局地的な変動が大きく、星全体の話をするのとは、全く異なる事もあり得る。どんな捉え方を、どのようにするのかを議論するのも肝心で、何か一つの目標に向かって、全体が邁進するのは、何とも不思議なものである。特に、数字に魅せられた動物は、その魅力を金銭の多寡として捉える。思惑に満ちた解釈や、恣意的な議論誘導など、私利私欲に溢れた言動に、どれだけ振り回されるかも、結局はこの動物種の抱える根本的な問題なのでは無いだろうか。そんな事とは無関係に、この星は太陽の周りを回り続けるのだが。

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2月13日(土)−無心

 安定した時代には、他人を気遣う余裕もあるということなのだろう。様々な援助が、困難に直面している人々に向けられる。当然のことながら、それによって救われる人がいる半面、更なる支援を欲する人々が残る。ここから先の判断は難しく、まるで海綿が水を吸い取る如く、功を奏しなかった時、どうすべきか。
 安定成長が達成された時代、徐々に援助の心は芽生えてきた。しかし、頂点から転げ落ち始め、格差ばかりが目立つ時代となった時、二つの極への移動が顕著となった。つまり、施す側に留まるか、受ける側に回るか、ということである。全体としての豊かさは、依然として維持されているから、救済の手が消えることはない。しかし、転落の憂き目にあった人々には、救いの手を欲する気持ちが起きても、伸ばす気は何処かへ消し飛んでしまう。全ての人に当てはまることではないが、社会の趨勢はこんな具合に変化し、優しさという言葉が、気持ちのこもらないものとなりつつある。助け合いといった相互の作用も、いつの間にか忘れ去られ、一方的な動きのみに注目が集まれば、今のような状況も理解できる。ただ、それが社会のとるべき姿かと問われれば、正反対の答えを返す人も多く、現状がかなり異常な所にあることが分かる。経済的な貧しさだけでなく、心の貧しさまでを手にした人々には、双方向の働き掛けは有り得ず、一方的な要求のみが表面化する。本来なら、厳しい言葉も可能なのだろうが、ここまで傾いた考え方には、聞く気が起きることはないだろう。所詮は、少数に過ぎない話と片付けることも可能だが、現状とこれまでの変化からは、その分析が妥当かどうか、自信を抱くことは難しい。荒んだ心を癒すのは何なのか、まだ見えてこない。

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2月12日(金)−表裏

 攻守ところを変えて、となれば、相も変わらずと思うだけのこと、所詮人間の考えること、攻守が交代しても、大した違いが出てこない。安定した世界が、迷走した挙げ句に、立場を一変させた時、その変化に期待した人も多かった筈だ。しかし、現実は役者の交代だけで、劇の筋書きは全く変わらなかった。
 何を指しているか、分からぬ人はいないと思う。事件を起こし、その責任を問われた時、組織を離れることで幕引きをする。全く同じ展開が、これまでに何度演じられたことか。唯一の違いは、組織が変わっただけのことで、立場による攻守の割り振りは変わっていない。権力を持てば、それだけ責任も重くなると考えるのは、ごく自然の流れだろう。しかし、同じ顔が役が変わったからと言って、しゃあしゃあと決まり文句を吐いているのを見ると、この世界にいる人間の品格に、疑いを挟まざるを得なくなる。どちらの言葉にも、それなりの責任が伴われるが、正論という見方からは、矛盾に満ちた発言であり、答えを導き出そうとする気持ちは、微塵も感じられない。それ程の注目も集めない事かと思えば、報道の操作に振り回される愚民たちは、大いに興味をそそられているらしい。暇な人々を相手に、自慢話を続ける業界人は、一体全体、何を目指しているのだろうか。決まり文句は、殆ど無用の長物に過ぎず、取り上げる価値は全くない。にも拘わらず、複写のように誌面を埋める作業に、精を出す人々がいる事に、呆れるばかりとなる。どちらの品格も並以下となれば、相手をする必要もないから、離れていく人は増えるばかりだ。業界の危機を訴える人々も、自分たちの仲間の行状に、何の意見もないのかと思ったりもするが、所詮同じ穴の狢ということだろう。

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2月11日(木)−鋭敏

 寒暖の変化に戸惑うことが多い。測定された気温は同じでも、どんな変化によるかで、人間の感覚はまるで違うからだ。その一方、技術者にはほんの僅かな違いも感じ取る人がいて、驚かされることも多い。両者を比べると、感覚の鋭さという表現でも、全く違ったものを指すことに気づかされるのではないか。
 肌触りや手触りなど、自分でも驚くほど違いに敏感なものがある一方、時間感覚などは、人による違いだけでなく、対象となるものによる違いも歴然とする。大地震の後に、揺れていた時間を尋ねると、各人の答えの違いだけでなく、より長く感じる傾向が目立つ。衝撃が大きいほど、その傾向は強まるらしいから、心理的な影響が大きく出るのだろう。その意味では、人の感じた数字が必ずしも正しい値を示すわけでなく、感覚としてのみ通用するものとなる。制動装置の不具合として、大きな騒動に発展した話も、始めに伝わった所では、「一秒間」何も起きなかったと言われた。感情的とも思える反応が起きたと感じたのは、この後の成り行きからであり、これを頼りにその後の報道を続ける所もあるという。だが、免許を持つ人なら思い出すだろうが、「一秒間」に走り続ける距離は、時速60キロなら約15メートルとなる。これ程の距離、無制動で走ったら恐怖を感じるに違いない。その後伝わった製造側の説明では0.06秒とあり、これだと1メートルしかない。どちらが正しいのか、俄には判断できないものの、時間感覚の危うさからは、前者のみを伝える姿勢には、意図を感じてしまう。滑りやすい路面という特殊状況では、全く異なる現象が起きるだろうが、それとてほんの一瞬が長く感じられる可能性は否めない。数字の重さは認識しなければならないものの、こういう分析くらい、示しても良さそうに思う。

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2月10日(水)−意欲

 優しい社会、響きの良さから、好んで使われる言葉だが、解釈の誤りとしか思えないものがある。その一方で、厳しさに対する認識が徐々に変化し、その必要性を訴える声も大きくなった。一見矛盾する成り行きだが、固定化する必要は全くなく、ある範囲で揺れ動くこと自体は、ごく健全な状況であろう。
 厳しさに関する話は、バリアフリーと称する仕組みの導入がきっかけになっている。弱者の為に、あらゆる障害を取り除くことを目標とした運動は、様々な場面に変化を促した。段差を除き、字を大きくし、音や振動で知らせ、機械駆動の補助をつける。これらの試みは、実際に障害を感じていた人々には、大変好評だったのだが、その一方で、障害の程度によっては、逆効果と指摘される事例が出てきた。車椅子や感覚障害者のように、明らかに取り除くべき障害を感じる人でなく、齢を重ねることによる体力の衰えが障害を感じさせる様な場合、必ずしも除去が全体的な効果を生じるとは限らないことが見えてきたわけだ。運動能力の減退は、動かさないことによるものが最も激しく、自発的な運動が、それを減速させることは明らかである。しかし、障害の有無は、両刃の剣であり、どちらに影響するかは定かではない。その為、人によっては、衰えが速まることになる。優しさが仇になるとは、まさにこんなことかも知れない。もう一つの優しさに対する誤解は、施しの姿勢ではないだろうか。困っている人を助けることは、悪いと言われることはない。しかし、それを制度で定めるとなると、様々な問題が生じるものだ。住む所もない人に、場所だけでなく金銭的な援助をする話は、何度も出てきたが、貰い逃げは後を絶たない。厳しさとして、交換条件を提示すると、優しさの主義から外れると批判が出る。融資話で、そんな展開があったが、こんな所に、大きな間違いがある。

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2月9日(火)−無知

 「恥知らず!」と言われたら、厳しく叱責されたと感じるのが普通だ。しかし、言われた本人がどこがそうなのか分からなかったとしたら、何の効果もない。恥とは、それが恥と知っているからこそ意味を持つ。もし、知らずにやっているとしたら、こう言われても何も感じないだろう。糠に釘とでも言うのか。
 最近の傾向で、これを更に際立たせているのは、こんな叱責を受けた若者が、誰も教えてくれなかった、と言い訳をすることだ。本人は真面目に言っているのだからと、大人の対応を促す声もあるが、教えられなければ分からない、という言い訳は、恥知らずの状況で通用するものだろうか。世間の常識は、誰もが社会の中で育つことで身に付けるもので、生まれながらに身に付けている人はいない。だから、教えられなければ、とする短絡には、呆れるばかりである。確かに、年端もいかない子供たちには、通用するかも知れないが、成人した人間にとって、そんなことを言うこと自体が、恥知らずなのだとしか思えない。何でも教えてもらえる、という考え方は以前はなかった。教わるという言葉には、別の意味が込められている。確かに、辞書にある意味としては、教えてもらうに違いないのだが、そこには、主体としての臨む姿勢が現れているからだ。手取り足取り、という幼児の経験を、成人後も期待する心理には、常識を身に付けようとする姿勢は存在せず、何もかも他人任せとなる。自立という言葉の重要性を考えても、こんな人々には当てはまらないとなる。教育体制の問題を取り上げる人もいるが、こんなことに責任を負えるのは家庭しかない。それ程荒れ果てた「家」という存在に、期待することは困難に違いないのだが。

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2月8日(月)−勘定

 人を信じるか信じないかは、勝手な判断によるものだ。厳しい意見に対し、拒絶反応を起こすのであれば、その人の話を信じる気持ちは失せる。嘘八百が連なる話では、信じる必要など無いだろう。ただ、多くの人の賛同を得る話は、たとえ伝聞にしても、変な脚色をせず、意見を加えるにしても妥当な範囲に留まる。
 結局、信頼を得るかどうかは、厳しさよりも正しさが優先され、思惑を入れ込む人々には当てはまらないこととなる。不特定多数を相手に、情報を供給する業界は、その意味では、正確なものを提供することが務めとされてきた。たとえ、営利を目的とした企業でも、この業界に関わる限り、特定の人の利益になるような行為は、自ら禁じる傾向にあった。そんな使命の下に行われる情報提供は、当然ながら信頼を勝ち取り、受け手との間での関係が築かれてきた。ところが、最近の傾向は正反対に向かっている。思惑に満ちた情報の改竄や選別が行われ、質の低下のみならず、倫理観の喪失までが露骨に現れている。感情的な報道により、一般大衆が振り回されていると批判した現場の声も、まさにそれを表しているが、これが政治的な判断によるものかどうかは、定かではない。確かに、政治的な介入も多くあるだろうが、元々、忌避してきた勢力に擦り寄ることは、まだ起きていないのではないだろうか。それより、この業界の抱える問題の方が、存続さえも危ぶむ声が出ているほどで、大きく立ちはだかっているように思える。社会的な意義が大きいのに、その存続が危機的状況にあるのは、収支の崩壊に原因がある。広告に依存した体質にとって、現状は混迷を極め、再建は容易でない。企業の寄与を促す為の、意図的な報道としても、不思議はないだろう。感情的でなく、冷静な計算に基づいた動きとすれば、大いなる悪意が見えてくる。

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