サービスと聞いた途端に反応してしまう。さもしい根性に、反省しきりと言われた時代は、遠い昔のことだろうか。最近は、何処まで奉仕できるかが肝心であり、受ける側はそれが当然と構えるのが当たり前となっている。こうなれば、それを売りとすることが第一であり、限界が見えないほどのことが起きるようになる。
限度が無くなれば、要求は高まるばかりとなる。しかし、当然のことを当然と見れば、敢えて声に出さずとも、奉仕は留まることもない。話題になるのは、支払うべきものの価値ではなく、それに付随して出て来るものの方であり、その価値こそが問題となる。だが、この論理は何処かおかしくないか。何も無しで、出て来るものの価値は、何処に被せられているのだろう。対価とは、質などの価値そのものでなく、貨幣価値こそが対象となる。となれば、無料からそれを捻出する為には、何かしらの仕掛けが必要となる筈だ。表向きは、種も仕掛けも無いように思わされるが、そんな訳はない。だとすれば、何処をどうしているのか。こんなことを気にすると、そんな必要はなく、ただ施しを受け入れれば良いと言われる。まあ、確かに、楽しめれば良いだけのことで、それがいつの間にか、自分の支払いに含められていたなどと、そんなことを考える必要はないのだろう。ただ、疑い深い性格ならば、棚から牡丹餅を信じる気持ちにはなれず、やはり、何かがあると思ってしまう。いずれにしても、どんな考え方をするかで、こんなものに対しても、正反対な思いを抱くのは、どれが正しいのか、という問いに対する答えが無いという意味なのだろう。
同じ人間なのに、どちらの側に立つかで、態度が全く異なる。自分の職場で、客を相手にする時は、平身低頭、何事にも我慢が基本となる。それが、客として訪れるとなると、態度一変、威風堂々と言うより、傲慢ささえ漂うようになる。こう書くと極端に見えるが、そんな行動をする人が多くなった気がする。
確かに、接客の基本は相手を第一にするところにある。しかし、それは必ずしも、客自身が何をしても構わない、という意味ではない。この国には、お互い様という考え方が長い間あった。外から様々な文化が流入しても、この考え方には大きな変化が無かったのだが、いつ頃からか自分を中心とし、立場による違いを際立たせる事に違和感を持たない人が増えた。間違いが起きた時、その場では叱責したとしても、後からは別の言葉をかけるなどの気配りがあったが、最近では、攻撃の手を緩める事無く、あくまでも責任を追及する姿勢が目立つ。この変化が何を導いたか、今の社会を眺めると、そこに大きな違いが生じている事に気づかされる。強い立場にあり続ける事は不可能であり、強弱の両方を経験する必要があるのに、どちらか片方に留まる気持ちが強くなる。勝ちとか、負けとか、そんな事に拘る姿勢もその現れだろうし、不安定な立場から、心理的な破綻を来す人が増えているのも、そんな事情によるものだろう。渦中にある人々にとっては、社会の体制がこの結果を産んでいると思えるようだが、現実を冷静に眺めてみれば、その原因の大部分は、彼ら自身の中から出ている事が見えてくる。そこにも立場の違いの現れがあり、被害者と加害者、どちらに居るかで変わってくるようだ。いずれにしても、両方を行き来するのが当然であり、それを承知の上で行動すべきなのではないか。
好きなこととなると、邪魔は許さない。とでも言うのだろうか、趣味に走りすぎて、危険な行動に気づかぬ人がいる。趣味だからということで、大目に見る向きもあるが、他人への迷惑が大きくなると、流石に許されなくなる。この間も、そんな事件が報道されていた。いつものことながら、理解できぬものだが。
これで最後、と訴えられた途端に、居ても立ってもいられなくなる、という人は世の中には沢山いるようだ。百貨店の閉店、商品の製造中止、数え上げればきりがないだろう。先日の事件をその一つと数えることに、反対する人がいるかも知れないが、同好の士といった雰囲気が流れていた。動く物に興味を持つのは、子供たちに共通の性質のようだが、中でも電車は時代の変遷と共に、様々に変化してきたとしても、人気の的であったことには変わりない。鉄夫とか鉄子とか、そんな呼称まで登場するに至り、彼らを単なる趣味に没頭する人間でなく、色々な面を持ち合わせた人として、紹介することが多くなった。一時の流行語で「オタク」なるものがあったが、その対象ではなく、少し違った人種として扱われているようだ。各地に博物館ができ、紹介の機会が増えたのも一因だが、やはり潜在的にも数の多さが重要な因子となっている。ただ、路線廃止や特別な名を持った列車の廃止などの際には、多くの「ファン」と呼ばれる人々が集まり、思い出の為と写真を撮る。その多くは、普段から利用するほどの人々なのだろうが、一部にはそんな時だけ登場する人もいて、不慣れな行動は危険を招くこともある。元々、趣味に没頭する性格は、危険回避に向かないと言われるくらい、周囲を見る余裕を持たないものだが、この事件もそんなところから起きたのだろう。しかし、自分の楽しみが最優先という心には、何か大きなものが欠けているようである。
中継を見ていると、失敗を恐れてはならない、という言葉が何度も出てくる。恐怖感の有無は人によるだろうが、取り憑かれてしまっては実力を発揮できない、と言われる。逃げ出すべきか、立ち向かうべきかは、人それぞれであり、自らの心理を含めて、どう対処するかがその場の展開に大きく影響する。
それなりの実力を備えた人には、こんな話が通用するが、初心者には無関係に思える。失敗は当たり前で、それを恐れる段階には達していないが、そんな場合にも、別の感覚が邪魔をするらしい。何事も無難にこなしてきた人にとって、失敗は他人から見て当然でも、自分の中では何としてでも回避しなければならない。そんな感覚を抱くかどうかは、まさに考え方次第であり、成り行きもそれに大きく左右される。ただ、避ける気持ちが強すぎれば、始めることも叶わず、手をつけないのが唯一の選択となる。一般社会でも、こんな光景に出会うことは多く、何かと理由をつけて、手を出さない人を見かける。こういう人と仕事をするのは苦行のようなものだが、その一方で、失敗を失敗とも思わぬ人との仕事も、中々の難業である。次々と片付けているように見えても、どれ一つ完璧なものはなく、必ず手当てが必要となる。まるで、新入社員の研修での組み立て作業のようなもので、現場責任者が全ての尻ぬぐいをするのと同じだ。もう一つの問題は、失敗という意識も持ちつつも、それを承知で先へ進もうとする人にあり、こちらは意図的なだけに解決が難しい。明らかな間違いを承知の上で、行うことを、時にダメ元、と表現するようだが、この態度をとる人が増えているように感じる。交通法規を破る行為と同様と見る向きもあるが、偶々のこととは違い、普段からの仕事でするのは、発覚する可能性が高いだけに、首を傾げるしかない。
流石に今は余り言われなくなったが、指示待ちが問題になった時期があった。問題を解決する能力を量る手立てはあっても、問題を見つける能力や答えのない課題に取り組む力を見極めることは難しい。分かりきった方法での測定は、傾向と対策の対象となり、結果的に、実力を見定めることができなくなったわけだ。
教科書通りの展開ならば、問題なく取り組むことができるのに、見たことも聞いたこともないものには、面喰らったまま時間が流れる。仕事を始める段階では、殆ど全ての人が未経験のことに取り組まねばならない。当然の了解事項の筈だが、準備万端の展開しか知らぬ世代には、学校に戻った気分になり、手取り足取り、懇切丁寧な説明があるのが当然と見える。指示待ちが取り上げられた時代には、この感覚が要求となって表れ、そこに世代間の格差が際立って見えた。ただ、それもほんの一時だったようで、最近はそんなことは話題に上らない。依然として存在する問題だが、それより大きな課題が立ちはだかっているからなのだろう。要求は、指示という形に向けられたのが、いつの間にか、全ての説明に当てはまるだけでなく、世間知らずの行動への話へと広がっている。言葉遣い、態度など、新入社員たちにとっての課題は数多くある。しかし、それを一つ一つ潰して行ってこそ、次の段階へ進めるという理解が当然だった。それがいつの間にか、潰す主格が自身ではなく、手助けをする人へと移っているようだ。悪態をつく若者に対して、注意をする人の数は減り続けているが、偶にそんな場面に出会しても、悪びれずに同じ態度をとり続ける。最終的には、誰も教えてくれないという言い訳が吐かれるが、知る必要を認めなかった人間には、何も見えなかったというだけだろう。教わる姿勢の欠如は、かなり大きな問題のようだ。
暖冬、厳冬、冷夏、猛暑、平均的な気候からずれた時に使われる表現だが、これらを束ねた表現として頻繁に使われてきた、異常気象という言葉を聞く機会が少なくなった。おそらく、それまでならば、平均からの逸脱が第一とされていたのに、ある傾向にあるものに使う表現が登場したからなのではないだろうか。
この星が徐々に暖かくなる傾向にある、という解釈は当然の如く扱われるが、研究者の中ではまだ議論の的のようだ。まして、その原因をある気体の占める割合に結びつける話は、何の検証もないとする専門家もいる。そんな中で、何故温暖化という言葉が市民権を得たのか、と言えば、それは経済との結びつきとするのが妥当だろう。如何にも起こりそうな計算予想を打ち立て、それに基づいて様々な対策を講じることが、現代社会の課題であり、未来への責務であるとする人々も、計算による予想がどれ程の確実性を持つものか、はっきりとは認識していない。にも拘わらず、数値の独り歩きはその勢いを増し、曖昧な根拠に基づく目標値まで設定する始末、どうなることかと思う人も多い。予想の不確実性を議論しようとすると、感情的と思えるほどの反応を示す人々に、今回の冬の気象の解説をして欲しいと思う。一部には、如何に異常なことが起きたのかを説明する人も出てはいるが、温暖化に沿った展開に固執する人々は、知らぬ存ぜぬを決めているように思える。ある観点からは確実な予想とそれを実現する能力が備わっているとするようだが、現実にこのような変動は予想外のことだったろう。何事にも提言とか標語が必要となるにしても、それによる設定が余りに逸脱したのでは、空振りに終わるしかない。極端な偏りに不安を覚えるだけでなく、それによる悪影響を心配する声は、また打ち消されるだけなのだろうか。
ゆとり世代と揶揄される年代の若者が事件を起こすと、全体攻撃がいつもの如く始まる。その上で、社会の問題として取り上げられ、責任の所在が曖昧になる。既に成人となる者も含め、それなりの判断がつけられる物が首の上に乗っかっている限り、全ての責任は本人にある筈が、こういう誤魔化しが横行する。
確かに、社会情勢によって左右される人の数は多い。労働環境の悪化は、失業を産み出し、それによって厭世観ばかりが増長されるとか、周囲からの制限が少なくなり、自由度が増したことにより、身勝手な行動が増えるとも言われる。そういう人間が世の中に溢れていることは確かだが、それがまるで当然のことのように扱われるのでは、まともな行動様式を維持する人々には、風当たりが強いだけになる。世の中全体に、弱者への配慮ばかりが強調され、ごく普通の人間を冷遇するようで、これ程馬鹿げた時代も珍しいように思う。特に、そんな時期が長く続いたことから、弱者の思い上がりが高まり、権利主張ばかりが飛び交うようになると、そこには荒んだ心と利己的な考え方だけが浮かび上がる。厳しい時代に生きる為に、ゆとりが必要との考え方に、大きな誤りはなかったのだろうが、その扱いには間違いばかりが目立っていた。その結果として、身勝手な行動を繰り返す若者に、厳しい対応を迫る大人たちは、自らの責任を果たしてない、などと批判される。しかし、依然として、弱者保護しか見えない愚かな大人たちこそ、この状況を作り出した張本人なのではないか。大人気ないという言い回しを多用し、如何にも大人ぶった人にこそ、大きな問題がある。そんな人の行動を見るに、社会問題を出す前に、家庭内を眺めるべきと思う。