若者たちが苦境に追い込まれている、という話が沢山伝わってくる。数字を見れば歴然としているものの、その源となっているものを眺めてみると、首を傾げざるを得ないものも多いから、同情へ繋げるべきか、簡単には結論づけられない。ここまでの流れを含め、どんな事情、背景があるかを無視するわけにはいかない。
社会がその構成員に対して、全体として責任を負う事は、当然のように見られている。ただ、構成員たちが、それぞれに身勝手な考えに基づき、行動を決めていったとしたら、責任の感覚はどんどんずれてしまうだけだろう。そんな中で、被害者にされた人間には、抑えきれない気持ちが残るのも無理は無い。ただ、問題が表面化してから、その解決に向けての責任は、誰が負うべきか難しい。今後の問題解決なのだから、現時点でその責任を負う立場の人が、というのは正論に見えるが、そこに至った問題を山積みしていった人々の責任は、どんなものだろう。その事を間近に見ていながら、そんな方向に議論を進めようとしない人々には、責任が無いのだろうか。国にしろ、企業にしろ、問題が表面化した時に、それなりの立場にいる人に対して、視線が向けられるのはやむを得ないとしても、皆が前任者への批判を口にしない事には、不思議な感覚しか残らない。底に落ち込んでしまう原因を作った人々が、いつの間にか表舞台から降り、こんな時に知らぬ存ぜぬの顔を作るのを見ると、こういう人々の心に大きな欠陥があるように思える。確かに、昔の話をしても仕方ないし、今の時点で力を持たぬ人に責任の負わせようは無い。しかし、二度とその地位に戻らぬ人ならまだしも、その可能性を残した人々に対しては、厳しい批判を向けても良いのではないか。
何か大きな仕事をするにしても、単独で実現するのと、他人の助けを必要とするのでは、そこでの流れには大きな違いを生じる。一人でできるものならば、自分の考えをそのまま反映させ、外との関わりを考えるくらいで話が進む。しかし、内部に複数がいる場合、その間で調整を図る必要があり、単純にはいかない。
共同して仕事の実現に向けての働きかけをする事は、互いの理解を必要とするだけでなく、その力量を見極める事も重要となる。助け合うにしても、他の人が何をすべきかを判断しなければ、無駄が多くなるばかりで、時には軋轢を産む事となる。活用と言えば、ごく単純な事のように見えるけれども、適材適所の判断を誤れば、逆効果となるばかりで、不満ばかりが表面化する事となる。その際には、実際に何かをなす人の役割も重要だが、それ以上に、そういう人々の間をつなげる役割を負う人の存在が肝心となる。こういった人々は、表に出る事は少なく、評価も得られない事が多いから、評価主義の中では、不当な扱いを受ける事も少なくない。ここでの問題は、評価の対象の選別にもあるが、それ以前の問題として、何が推進させたのかの見極めの無さがある。表に立つか裏に留まるかは、個人の判断によるところも大きいが、本人の役割分担に対する考え方が、重要となるのだろう。そんな中で、評価が適切でない事となれば、裏に回った人が次の機会を得る事は無くなる。その原因は、本人の主張の強さにあるとも見えるが、現実には、それを評価する人間の判断の方が遥かに大きい。もし、こんな状況が長く続くならば、自分を前に出すだけの人間が残り、全体を見渡して、その調整を図る人の存在は消えざるを得ない。これが正しい道かと言えば、それは無いと答えるべきなのだろう。
資格とは、ある業務をする上で必要な知識や技術を持つ人々に与えられるものであり、場合によっては、それを保有しない人にはその業務に携われないという制限が加えられる。その為、資格を取得することが最低条件となり、それが第一と扱われることも多い。運転免許はその代表格だが、保有人口が多すぎて、あまり意識されない。
一方、国家試験などの合格率が低い為に、保有する人の数が少ないものも数多くある。こちらは、資格がそれなりの地位に結びつくこともあり、就職の為の重要な要素と見なされる。ところが、それが必ずしも、その人の能力と直接結びつかないものもあり、何故、そんな資格が存在するのか、首を傾げたくなるものがある。自由化との関係もあり、資格の導入がその後押しをすることもあるのだが、結果が期待とはかけ離れ、当初の目論見が大きく外れてしまう。その典型は、おそらく天気予報に関する資格ではないだろうか。気象予報士は、突然導入された資格といった感があるが、合格率の問題など、元々報道との関係が深いことから、大きく取り上げられることが多い。その為、特殊な能力が必要との見方もあるが、その一方で、毎日各局から流される情報からは、独自性が見えてこず、能力の差は全く目立たない。おそらく、単一の情報源に依存し、それに従うことが唯一の選択肢となっており、独自などという言葉の当てはまる余地はないのだろう。もし、そうなら、資格の必要性は無く、その存在は意味を成さない。導入当初の話題では、海の向こうの種々雑多な予報の状況が取り上げられていたが、結果は、正反対と言わざるを得ず、計画倒れの様相を呈している。お上第一とする国民性との見方もあるが、どうだろう。別の要因があると思うのだが、それが何か、まだ見えてこない。
障害者に対する優しさが、不十分である場合が多い。健常者には理解しにくい面が多く、その乖離がこの問題を生じているのだろう。優しさという表現が必ずしも、問題を正確に捉えるものとはなっていない事は、多くの人が意識しているにも拘らず、何となく使い続けられているのは、何故なのだろうか、不思議だ。
強弱でものを言うと、色々な問題を招くものだが、優しさという考え方には、そんな意図があるように思う。弱い者には誰が当てはまるのか、答えは人それぞれであり、一概に決めつける事はできない。ただ、障害者はその第一候補であり、最優先される対象だろう。その一方、年少者や目下の人間をその対象に含める人もいる。未熟という意味で、弱いと見られる事が当然のように思えるが、そこには障害を持つ人々とは全く違った立場がある。手を差し延べるにしても、それを機会に、更なる上を目指す事がある訳で、そこに留まる事は考えられていない。にも拘らず、特別扱いを当然と見る若者が増えているのは、かなり大きな問題を孕んでいる。未熟と見なすだけでなく、それに見合うような形で、その後の成長を妨げるような配慮は、全くの間違いであり、本来ならば、毅然とした態度で拒絶すべきものだろう。ところが、現実には、そういった扱いを受け入れ、それに甘える心理が働くのは何故なのか。本来、若年層が様々な事に不満を抱き、反発を繰り返すのは当たり前の事だった筈だが、最近は、そんな考え方に疑問を抱く人が増えている。楽な生き方を最優先させ、人の手を借りる事を当然と思い、自立の道を自ら閉ざす人々にとって、社会がそんな状況を作ったとする言い訳があるようだが、とんでもない事と言えるのではないか。
空気が読めない、などと揶揄する輩に、叱責を飛ばしたくなる人もいるだろう。空気と、彼らが称しているのは、自分たちの尺度で見た話であり、常識から大きく逸脱することが多いからだ。この手の話が取り上げられるようになった時、その対象となる世代は個人主義を叩き込まれた人々で、同調を排除する姿勢が目立つ。
自分の見方をとり続ける態度は、一見、しっかりとした考え方の表れと思える。しかし、その後の展開を見れば、他の選択肢を持たない狭量さが露出し、考え方と呼べる代物が存在しないことに、愕然とさせられる。世代による違いなのか、それとも若さ故か、を見極めることは難しいが、自分を中心に据えた見方しか身に付けていない人々には、別の見方を取り込む余地はないようだ。到達度を見極める際にも、こんな心理が表に出て、満足という言葉がついて出る。自己のみの満足が、他人をも含めたものでないことは、その結果を眺めれば容易に理解できるが、それにしても、こんな考え方しかできない連中を、どう処したらいいものか。様々な組織で問題視されるのは、当然のことに違いない。本人たちの至らなさは、それぞれの責任とすることは当然だが、それだけでは片付かないところもある。つまり、そのような逸脱を容認してきた人々の責任、である。親などの家族の問題も少なくないが、このところの世の中の流れを見つめるに、周囲で接してきた人々全てに、それぞれの責任があるように思える。見て見ぬふりもさることながら、その役目を負うべき人々が、的確な指摘より、馬鹿の一つ覚えの如くの、褒め言葉の連発を優先させたことは、こんな空気を形成させるに、大いに役立ったのではないか。ただ、そんな環境下でも、別の形が育つことからも、ただ他人のせいにすることは、正しくない。先のことを含め、自己責任は確実にある。
仕組みのない国から見れば、邪魔としか映らない制度がある。始めはそんな状況だったものが、いつの間にか、尻馬に乗る勢いで、便乗することが増えるのはどういうことか。問題が生じてみると、制度自体に欠陥があるとしか見えない。しかし、妨害とも映る無理強いをしておいて、今度は欠陥では何ともはやである。
現代社会では権利を保護することは重要と言われる。折角新しい仕組みを考え出しても、追随する連中に儲けをさらわれては、何にもならないということだ。現代と言われるが、先進国ではかなり古くから採り入れられた仕組みで、その意味では十分な検討がなされたものと信じられている。しかし、現実には欠陥だらけのものであり、仕組みそのものでは十分な対策が講じられていないから、運用上で適切に扱うしかない。ところが、商売妨害と断言していた国では、逆手にとる手続きが横行し、運用における無思慮に便乗した身勝手な行為が問題となっている。国内的には、何の問題も生じないのは、元々自分たちの利益しか考えない連中には、当然のことだろう。しかし、本来の目的を打ち消された外国勢にとっては、自分で蒔いた種とはいえ、詰めの甘さを指摘された気分なのではないだろうか。発明とか命名とか、個人の能力から導き出されたものについては、個人の利益を守ることは確かに大切だろうが、それが全てに及ぶとした途端に、大きな矛盾が生じる。発明の先取権争いも、様々な問題を生じているが、遙かに大きなものは、商標に関することだろう。名付けの重要性を論じることは難しいが、名が売れた時にその権利を守ることが大切と、整備された制度なのだろうが、ここでの大きな矛盾は、固有名詞の扱いにある。あるものを指す言葉に、権利主張が可能かどうか、通常の感覚で十分に理解できる筈だが、現時点の問題はまったく違うようだ。
迷信と聞くと、如何にも古くさい感じがするが、現代社会にも満ち溢れている。験担ぎをその一つに持ち込むと、反論が出てくるに違いないが、心理的な効果以外には、何の意味も持たないものが多い。ある事柄を迷信と断定する人々を納得させるには、科学的な根拠や証拠が必要であり、それ無しでは切り捨てられる。
そんな風潮の中、いつまでも根拠のない話が生き残るのには、何か理由があるに違いない。信じる対象を欲しがる人や拠り所を求める人には、根も葉もない話でも、自分に都合が良ければ十分となるのだろう。心理の力を侮るなかれ、といったところだろうか。中でも、四半世紀前くらいからずっと話題の中心にあるのが、血液型に関する話だろう。性格との結びつきから、誰もが一度は自分のことを調べるように、この国では強く信じられている相関である。ただ、科学的な根拠は全くなく、他の国々では見向きもされないことから、不思議な現象の一つと考えられている。ここで対象となる血液型は、単に細胞の外側に出ている砂糖の一種の違いによるものであり、脳や心との関係など、導き出せる筈もない。にも拘わらず、これ程の注目を浴び続けるのは、何か特別な訳があるのだろうか。極端な性格は、人間性を失いかねないだけに、そんな人は殆ど存在しない。その手の本に著されている内容も、誰にでも当てはまりそうな部分が多く、共通性が高いことが特徴だろう。そんな中で論じられていることは、人間一般に該当し、例外を見出すことは難しい。そんな背景がある中に、何やら信じやすい「性格」の人々が、話題に出すだけのことか。もう一つの理由は、何事にも原因を求めるという感覚の強さがある。不思議なものだが、自分の人生でなく、別の理由があれば安心するというのだ。何とも、迷信らしい話には違いない。