パンチの独り言

(2010年3月1日〜3月7日)
(帰依、戒心、不変、放言、荷担、無恥、予言)



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3月7日(日)−予言

 予め知ることができたら、何がしたいかと問われる人間の物語は、色々な国で読まれている。様々なことを思い描き、それぞれについて、予知能力によって何が得られるのかを想像する。おそらく、そこまでならどんな人間でも考えが及ぶ。しかし、いざとなって、そんな力を得てしまうと、それが邪魔になるという。
 そんな所から、物語は終局を迎えるのだが、一度も力を持ったことのない子供にとっては、何故、素晴らしい能力を拒絶したのか、理解できないこととなる。何もかも、自分の未来に起こることが、見えてしまった時、果たして、自分に何ができるのかと、主人公が思い至った道筋には、簡単には理解できないものがある訳だ。無知な子供だけでなく、十分な知識を持つはずの大人までもが、予知に魅力を感じ、夢を実現しようと励む。そんな状況が現代社会にはある。色々な分野で、様々な人々がその夢を果たそうと、日夜努力を続ける。その一方で、夢は夢でしかなく、実現しないものと決めつけ、その時々に起きたことへの対応の重要性を主張する人もいる。どちらが正しいという答えはおそらくなく、どちらもが努力を続けることに意味があるのだろう。しかし、それが水泡に帰した時、何が残るのかについては、かなり大きな違いがありそうだ。現時点でも、様々な予報や予想が巷に溢れている。それに振り回される人もいれば、何か起きてからと構える人もいる。どちらが正しい選択かは、その時点では見えてこないが、その後の展開を後になって眺めれば、結果だけは見えてくる。実際には、それぞれの人間が毎度同じ判断を下すとは限らず、時と場合により変化することも多い。命に関わることならば、多分それが生き残りの決断となるのだろう。

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3月6日(土)−無恥

 人前で萎縮するのは、恥をかくことを恐れるからだと言われる。思い切って自分の最善を尽くすことを優先させれば、結果は自ずとついてくるとも言われる。ある意味では、実態を現しているとも言えるが、最善と恥は全く別のものであり、始めに何を考えに置くかにより、結果が大きく違ってくるということだろう。
 積極的な行動が見られず、消極的な姿勢ばかりが目立っていた時代には、国民性の表れとして、厳しい意見が出されていた。その後の展開は、大きく舵を切ったように思われるが、その結果として、どうもおかしな具合になったように感じるのは、単にこちらが新しい雰囲気に慣れないせいだろうか。人前での積極的な行動は、ある時期からしばしば見受けられるようになったが、その一方で、恥をさらすといった感覚の消失も目立ち始めた。意地をはるとか、依怙地になるというと、余り良い印象を与えないものだが、見方によっては、自分の考えを貫く為の手順であり、それを無くして、何でも有りの状態に落ち着くのは、不安定で筋の通らない行動を誘発する。積極的ということと、こんな話は同じ筈がないのだが、時を同じくして目立ち始めたところから、何か共通点があるように思える。そんな中に見えてくるのは、恥という感覚ではないだろうか。恥の文化とまで呼ばれたものが、最近はそんな雰囲気は微塵も感じられない。自らの恥をさらすことに、何の抵抗も覚えず、人前で準備の整わぬ行動をさらす。一見、思い切った決断に思えることも、十分な準備の下になされないと、単なる見通しの甘さとなる。そんな行動があらゆる所で見られるようになったのは、何かきっかけがあるように思えてならない。規範を失った行動には、責任も何も感じられないものだ。

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3月5日(金)−荷担

 極楽蜻蛉などと呼んでは怒りを買うだろうが、浮世離れしていることは確かだという認識が一般的だった、学者という人種が、最近は随分と世間擦れしてきたようだ。唯我独尊という空気は消し飛び、競争を生き抜く力を身に付けた者だけが、注目を浴び、好きな研究に打ち込める。要するに、金次第という訳だ。
 そういう連中の研究水準の程は、一般庶民には量る手段もないから、注目度が唯一の尺度となる。しかし、世間の注目は、結局のところ、情報を握る人々が決める訳で、彼らの趣向に合致するかどうかが大きな要因となる。となれば、このところの世情からして、如何に恐怖を煽るかが重要な要素の一つとなる。感染症の騒ぎはどこに行ったのか、既に記憶の隅にさえないようで、今マスクをする人々の関心は、花粉の飛散量だけにある。その方面の研究者に注目が集まった時、感染力や毒性の増大を話題にする研究者たちが、躍起になって自らの存在を誇示していた。騒ぎが収まると潮が引くように、熱は急速に冷めてしまった。マスコミにとって、個々の研究の重要性は枠外のことであり、要するに、大衆が恐怖心から関心を持つかどうかが重要となる。一方、恐れの程度が低いものなら、今一度警告を発するべきとの判断がなされたのは、天変地異の話題の方だろう。予測より低い潮位変化に、批判が集まりかけたのに対し、一部の研究者は被害拡大の可能性を主張し始めた。これの取り上げ方が、感染症のものとそっくりに見えるのは、やはり同様の思惑からではないか。しかし、こんなことで世論を誘導し、研究の重要性を主張することは、殆ど無意味に近いことだろう。重要性を判断するのは、庶民の感情でなく、その研究の質だけなのだろうから。

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3月4日(木)−放言

 言いたい放題を繰り返す。一般の社会なら、注意されるか、無視されるようになるだけのことだが、電脳社会と呼ばれる世界では、そんなものでも何処か端っこに仕舞っておかれる。多くの人の目を集めることもないが、無視によって潰される心配はない。何しろ、発言する本人が誰の言葉も理解できないからだ。
 ここも言いたい放題になっていることは確かだろう。常識などと書き連ねても、それぞれの世界でのことを押し付けるだけのことで、身勝手なものと言われたら言い返す言葉はない。それにしても、こんな環境は何か新しいものを産み出すのだろうか。利己的な解釈を誰から咎められることもなく展開できる場は、特殊な能力を持った人が生きる為に不可欠なものかも知れないが、今この世界に蠢いている人々の大部分は、特別な能力もなく、自分を活かせる場を見つけられず、無為に過ごしているだけであり、こんな場所がなければ、ただ悶々とした暮らしをするだけしかない。それが、発言の場を与えられ、得々とそれを披露する気になる。それだけでも、本人の精神状態は改善されるとする向きもある。しかし、これが更なる異常性を培う土壌となるとしたら、それは歓迎すべきことだろうか。何が良くて何が悪いか、一概に決めつけることは難しいが、急速に変化する世の中で、こんな展開が暫くの間続いた結果、そろそろどんなことが起きているのか、検証する時期が来ているのかも知れない。自称評論家の人々は、こんな場を歓迎し、使い続けているが、誰からも注目されることはない。人の声を聞く耳を持たぬ人が増えた結果、実世界でも同じような行動が目立つようになった。そこに関連があるかどうかは分からないが、怪しい展開であることは確かだろう。

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3月3日(水)−不変

 攻守ところを変えて、面白い試合ならばいいが、まるで消化試合の様相では、注意を向ける必要もない。更に、状況を悪化させているのは、実況中継の馬鹿らしさであり、状況を報告する人間の目の悪さだけでなく、解説をする人間の頭の悪さばかりが目立つ。何がどう変わろうが、同じ言葉を繰り返す意味で。
 これは何も試合観戦の場面でなく、永田町と呼ばれるある特定地域で展開される、国の重要な仕事の話である。驚くべきは、攻撃と守備の立場が変わっても、互いに相手と同じ演技を繰り返すことで、何の工夫もない。それどころか、自分たちの立場が再び変わることが気になるからか、互いに弱点を攻撃できないという、試合ならばどうしたことかと思える雰囲気さえ漂う。舞台に上がっている人々の低能ぶりは、これまでに何度も曝されたものだけに、今更驚くに値しないのだが、その解説を行う人が、同じ言葉を繰り返すのを見ると、この国が抱える問題が露わになった感じがしてくる。そんな人間を、重要な仕事に就ける組織の問題も大きいが、ここまでその程度の人間の話に耳を傾けてきた人々は、更に重い病に冒されている気がしてくる。こんな場面で、芸達者かどうかを見極める必要はない。それより、事実を事実として捉え、それを冷静に分析する目と頭を持っているかどうかが、遙かに重要となる。しかし、主役と脇役が交代したとしても、台本がそのままであり、ト書きまでが同じままとなれば、そんな芝居を観る意味はないだろう。金の関わり、権力の誇示、そんな話題も、演じる人間が変わろうとも、何の変化も窺えない。どんなに工夫を凝らしても、大きな変化を生じることが難しいのは明らかだが、ここまでその気のない芝居を演じられたのでは、立ち去る人がいたとしても不思議はないのだ。

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3月2日(火)−戒心

 予測が外れたことを陳謝する報道が流れた。それに対する人々の反応は予想通りのものだったが、警報において重視しなければならないことが忘れられているように感じる。過剰な警戒は、悪影響を及ぼすとの声もあるが、その殆どは自らの心の中にあることに気づくべきだろう。油断を持ち出す人もいるけれど、どんなに警戒を呼びかけても、それを聞き取る耳と心を持ち合わせねば、無駄となるしかない訳だ。
 先日の新聞書評に、嘗て世界一と言われたビルの崩壊現場での出来事を綴った本が紹介されていた。ビルに入っていたある企業の警備主任が、普段の訓練を無駄とせずに実施し続けた話があったが、その中で紹介されたのが人の心に潜むある考えである。高を括るという表現が当てはまるか分からないが、多くの人々が危機感を持たず、避難さえしなかったことが、どんな心情から来るのかを分析したもののようだが、今回の警報について、書評の載った同じ日に、同じことが起きたのは偶然なのだろうか。県名に都民とくっつけられるほど、感覚がずれていると揶揄される人々は、今回も身勝手な行動を続けたようだし、偶々訪れた観光地で、避難を呼びかけられても無視し続けた客は、地方都市の車で救出されたと報道された。彼らの無知に呆れる人もいるようだが、警報の過剰反応に怒る人々も、同じような人間なのではないか。いずれにしても、警戒心を失った動物は、自らの命を失う羽目に陥るのは、ごく当然の理であり、責任云々を論じる以前の問題だろう。動物の種として生き長らえてきた理由の一つに、こういう心理の存在を挙げる人もいるが、その考えからすれば、聞く耳持たぬ人間は果てるべきとなる。批判を繰り返すより、自らの行動を顧みてはどうか。

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3月1日(月)−帰依

 何を信じるかは人それぞれの判断に任されている。その権利を保障することが、国などの政府には義務と課せられ、介入することは禁じられている。そこまでは理解し易くとも、信仰の対象となるものに与えられる権利を当然と受け容れるかどうかは、安易に決められない。介入することと支援することは同等に扱われるべきだからだ。
 歴史的には、様々な介入がなされ、それによって生じた差別が、深い傷として痕跡を残している。宗教とは、拠り所となるものであり、信者にとっては、大きな力を産み出す助けとなる。常日頃から、信心深く過ごすことで、様々な障害を乗り越えることができれば、更に信仰を高めることに繋がる。本来は、結果次第とするべきものではないが、人間の弱さはこんな所にも表れるのだろう。同じように、信仰の対象が何らかの働き掛けを施せば、それに従うことも稀でなく、常軌を逸した行動が引き起こされることもある。宗教戦争は当然のことだが、民族戦争も背景に宗教の存在があることが多く、その影響力の強さを実感できる。異教徒という言葉も、強い差別を連想させるが、まさにそんなことが現代社会でも起きる。東洋の宗教からは、余り想像がつかないが、同じ源を持つ宗教間での争いは、その始まりからずっと継続しているようだ。大部分の信者にとっては、全く無関係な出来事も、一部の人々にとっては一大事であり、迫害や排除の問題となる。本質的な疑問は、何故拠り所を必要とするのか、という部分に存在するが、腫れ物に触るような状態にあり、議論の対象とはならない。これもまた権利と言えばそれまでだろうが、その影響が社会に及ぶに至ると、介入の必要性に議論が及ぶのも無理もないことか。

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