パンチの独り言

(2010年3月8日〜3月14日)
(破綻、別格、変動、展開、色眼鏡、木の芽、極秘)



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3月14日(日)−極秘

 約束は、公然とまではいかなくても、関係者が互いに知る程度には、意識されているものだろう。しかし、このところ話題になっているものは、秘密裡に交わされたとされている。という事で、密約なる言葉が用いられているが、どうも、しっくりこない感じがする。広義とは何か、見えてこないからだろう。
 次々に発表される内容には、驚かされる部分も多いが、その一方で、公然の秘密とも言うべきものがある。持ち込みが有ったか無かったか、そんな事は通常の感覚で判断すれば、結論は明白と思われていた事に、頑に否定し続けた姿勢に、不信感は強まるばかりだったが、明らかになったのは、誰かが意図的に嘘をつき続けた事であり、なってみれば、成る程馬鹿げた対応だったとなるだけの事だ。それを改めて追求されると、また矛先をかわそうと、弁明を繰り返す。政の中心から外されてもなお、こんな態度を続けるのは何故か、そちらの方が興味深いのかもしれない。いずれにしても、兵器を積むべき艦船などに、それが積まれていないとしたら、何を意味するのか、ごく単純な話に過ぎず、下らない茶番と片付けられるしかない。本来の興味は、そこにある訳でなく、金銭的な処理がどう行われたか、そちらにあるのではないだろうか。その割には、そちらに話題が向けられる事も無く、ただ漫然と、明白だった事が新たに判ったかのような伝え方がなされるのには、相変わらずの空気が流れるだけだ。どうして、こんな状況になったのか。判断がつかない愚民どもを相手にするだけだから、何でも良いとしているとしたら、とんでもない間違いだろう。確かに、様々な場面で振り回される人々には、判断力の欠片も感じられないが、だから大丈夫という訳ではないのだから。

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3月13日(土)−木の芽

 少しずつ暖かくなり、何となく過ごしやすく感じられるようになる。春を待ち焦がれる気持ちは、あの閉ざされた気分に落ち込まされる冬のせいだと、表現する人が沢山いるが、この季節を迎えると納得させられてしまう。ただ、何故かは分からないが、この後に、別の落ち込みに陥る人がいるから不思議だ。
 浮き浮きした気分というのは、何とも楽しげに聞こえるが、同じ状況を、浮ついた気分としてしまうと、ちょっと様子が違ってくる。同じ漢字を使っても、意味の違いを表せるのは、これまた不思議な気分だ。いずれにしても、それまで抑圧されていたものが、一気に開放されることで、花開く人がいる一方、制御不能に陥り、様々な障害に見舞われる人もいる。そんな季節と表現すると、折角の明るい気分が害されたと思われるかも知れないが、現実に起きていることだろう。それを更に増長しているのは、些末なことも含め、こんな気分の浮き沈みを、事細かに伝える連中だろう。臓器の不全など、明らかに病気と判断できるものと違い、精神の抑揚は、正常の範囲とそこからの逸脱を、明確に定めることは難しい。それを知っている人も、無知な人も、どちらもが挙って人々の様を伝えるのだから、困ったものなのだ。素人が口出しすべきことでないことは了解しているつもりだが、生半可な解説が垂れ流されるのを見ると、苦言を呈したくなる。自称も、公称も含め、あらゆる人々が持論を展開する事態は、余りにも危ういものと映る。線引きの難しさは、現状のような放言に結びつくのではなく、もっと慎重な対応へと向かわせるべきであり、その位のことを識者たちは論じるだけで十分なのではないか。

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3月12日(金)−色眼鏡

 話の筋が見えないと、苛立ちが募り、ついには怒りを爆発させる。そんな行動に出たことはないだろうか。こんな時、人は話し手の責任と考え、彼らの無能ぶりを叱りつけている気になる。しかし、逆の立場に立たされたらどうだろう。自分の考えを巡らし、順序立てて話しているのに、怒りを買ったとしたら。
 叱りつける人間が糾弾されると、一気に悩みの淵に落ち込むと言われる。筋立てに厳しいだけに、自らの欠陥にも対応しなければと思うからだろう。ところが、分かり易さは、必ずしも話し手だけの責任ではないのだ。聴き手の問題は、大きく取り上げられることがないだけに、論理構築の話題となれば、送り手に全責任があるとされる。そこについてはその通りだと思うが、それを受ける側の準備不足の可能性は排除できない。大多数の聴き手が頷くのに、一部だけが苛立つという様子には、受け取る側の論理なるものが大きく影響する。それでも、ほんの一部の人間が重要人物となれば、無視することもできず、頭を下げる場面も出るだろう。だが、本当の問題は、重要な立場の人間が、普段から思惑に満ちた言動や行動を繰り返していることにあり、それをその場の話し手に当てはめることで、行間や裏ばかりを読むことから、却って混乱を来すこととなる。こう書けばすぐに判ることだが、責任は全て受け手にあり、そんな連中が罵倒する姿は、悲惨な状況を現すこととなる。こんな時、論理の有無を取り上げる姿勢には、自らが歪曲したものとすり替える態度が見え隠れし、何とも情けない。経験の浅い、若い人々には、こんな連中の横暴さは見えず、先輩の配慮としなければならないことから、更なる萎縮を招く。暴君の悲惨さは、その組織の悲劇に繋がるだけに、他人事としてはならない。

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3月11日(木)−展開

 思いつきを戒める言葉は沢山ある。先輩から、もっと論理的に話せとか、考えろと言われた経験を持つ人も多いだろう。その一方で、どうして良いのか答えが見えずに、立ち往生を繰り返す人は少なくない。論理とは何か、どうすれば、他の人々に分かり易い展開が繰り広げられるのか、さっぱり見えてこないからだ。
 一つ一つの話を積み上げ、全体として筋の通るものにする、という手順は、如何にも理解し易く見える。しかし、全体を始めから考えなければならないとしたら、多くの人は、手に余るほどの数の要素を、どう組み合わせて良いのか、戸惑うのではないだろうか。論理をひけらかす人々は、自らの思考順序を見渡すことが殆どない。ただ、結果として出てきたものを、そこに至る道筋から考えたように思い込むことで、展開の妙を語るだけのことだ。全ての人がそうだとは言わないが、大多数の人は、思いつきの積み重ねを、糸で繋ぐ作業をしているだけのことで、始めから論理を構築している訳ではない。しかし、結果として出てきた話の筋は、一本の幹からなるように見えるから、如何にもそれを中心として、全体を構築したかのように見せられるのだ。これを、そんな経験のない人々が見ると、恰も天才的な展開力により、積み上げてきたように思える。その為、自分がその任に当たる段になると、どこから手をつけたらいいのか、途方に暮れることとなる。同じとは言わないが、これは、外国語を話す時の作業と似ている。話したいことを整理し、母語とは異なる構文に変換し、それを数回頭の中で繰り返し練習した上で、相手に向かって音声を発する。こんなことをすれば、会話は成立せず、頭の悪さばかりが目立つ訳で、本来は、母語と同様に、話しながら築き上げるしかない。論理も現実には同じ手順で築かれ、結論に向けて閉じるよう施す。

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3月10日(水)−変動

 季節の変わり目、気温の上下に戸惑うことが多い。数字は絶対的なものの筈だが、変化に体がついてこないのは、総体的な感覚が優先されるからだろう。同じ気温でも、激しく上下する時のものと、安定したものでは、感覚的に大きく異なるのは、生き物の体が絶対でなく、相対を指標とするからなのだろう。
 そう考えると、気温の数値を明示するより、前日と比べて暖かいか寒いか、ということだけを示してくれた方が、実は有り難いのかも知れない。非科学的などと批判する人もいるが、絶対的な数値のみが科学だ、などと思う人の方が、余程科学の何たるかを知らない、と言うべきなのではないだろうか。そんなことを考えながら、この季節特有の予報に目を向けると、そこにも、何とも不思議な指標が提示されていた。かなりの人が罹患している、この季節特有の症状と言えば、ある花粉に対する過剰反応のことだが、その飛散量を知らせることが、天気予報の中で行われている。量と言えば、科学的には数値で知らすべきものだが、どこを見ても、そんなものは提供されていない。多い少ないという表現に、更に非常にといった言葉が加えられるくらいで、何がどの位といった絶対的なものは示されない。各地で行われている調査では、飛散量とは花粉の個数を表すものだが、それを敢えて使っていないのは何故だろうか。おそらく、個人の感覚によるものである以上、感覚的に理解し易い大小表現を使ったのだろう。これはこれで、気温とは異なるが、却って分かり易い伝え方と言えるのかも知れない。しかし、その一方で、毎年の飛散予報で発表される、年としての大小との関係は、見えなくなる。体の反応が絶対量によることはそこから見えるが、普段は相対量で伝えられるとなると、さて、何が反応を引き起こすのか、分からなくなるような気がする。

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3月9日(火)−別格

 戦に敗れた後、神として崇められた自らの存在を、人間としての存在を確認したこととなっているが、いずれにしても、特殊の存在であることは変わりがなく、象徴となったにしても、ある区別に依る所となる。その意味では、特別な存在の人々がいるという意識は、常にあると言うべきなのかも知れない。
 庶民と同等にすべきかは、決まったものではないが、濃くなった血を薄めようとする意図は、婚姻関係に影響を与えてきた。その結果は、見えている訳ではないから、何とも言えない状況にある。しかし、開かれた存在になったのは、事実だろう。突然こんな話を始めると、訝る人がいるかも知れない。だが、このところ流れている話には、こんな取り上げ方をせざるを得ないほどの気分にさせられる。大衆化なる表現を、こんな場面で用いることが適切でないことは、承知しているつもりだが、そんな思いを抱いてしまう位、不思議な雰囲気が漂う。そういう気質が遺伝するものかは解らないが、母娘の間で、ある方向を持った話題を共有することには、頷く人も多いだろう。だから、という訳でもないが、こんな些細なことを大袈裟に取り上げるのだとしたら、特別な存在は、もう特別でも何でもないものになっているのではないか。昔から、色々な形で表現されてきたように、人間の行動は共通な部分もあるが、互いに異なる部分の方が遙かに多い。それをどう取り扱うかは、言葉の使い方にも現れてくるものだが、最近は、それより絶対的な存在となる病名に、話題が任されてしまったようだ。すくすくと育ってくれればいいと願う親は、ごく普通の存在だが、あの世界の人々がそれだけを願うのでは、困る人もいるだろう。庶民と区別がつかないようなら、特別視の必要はなくなるだけなのだが。

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3月8日(月)−破綻

 生活に困窮する人の数が増えているという。社会制度を利用する世帯の数も、それに従い増えており、問題化するとの指摘もある。その一方で、機会均等の維持は重要な課題と扱われ、たとえ個人的な理由でも、失うことは社会として避けるべきと言われる。一本筋が通っているように見える考え方だが、何処かおかしく見える。
 国全体が貧しかった頃、教育は最低限しか保証されておらず、義務となってからも、その後のことは自由選択となっていた。その時代には、各家庭の財力による選別が厳しく行われ、偶に機会を得る人も、一部の富裕層に支えられる形をとっていた。明治時代の小説には、そんな学生の話を紹介するものも多く、恵まれた人々にも別の悩みがあることを示していた。ある家庭では、末の子供の大学進学を最後の出費とし、卒業と同時に破綻を迎える覚悟を決めていたそうだが、彼は卒業するとすぐに職を見つけ、一家を支える立場となり、破綻を免れたとのことだ。計算高いことは忌み嫌われる部分もあるが、こういう場面では最大限の機会を得る為に、必要不可欠なこととなったのだろう。そんな話を思い出しながら、現状を見渡してみると、あまりに杜撰な考えと仕組みの状況に、呆れ果ててしまう。自らの子供たちの将来に、何の保証もできない親たちと、先の見通しもできない家庭を、無理矢理支えようとする世間に、矛盾を感じるのは卑劣極まることだろうか。社会の中では、一方で自己責任などという無意味な言葉が乱れ飛び、反対側では機会均等という主義主張が掲げられる。これを矛盾と言わずに、何と表現すべきか、他の答えは見当たらない。当事者たちの苦しみは、確かに大きなものに違いないが、分相応という言葉の押しつけが、必ずしも冷たい仕打ちに当たらないことを、理解すべきと思う。

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