パンチの独り言

(2010年3月15日〜3月21日)
(価値、援助、追従、至便、空費、絶滅、思考)



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3月21日(日)−思考

 何故、と思うことは沢山ある。その度に、原因や理由を考え、答えを導き出そうと苦闘する。それがごく当たり前のことでも、改めて考え直してみると、それまで持っていた答えが違ってくるような気がする。こんな状況は、不安を招くだけだし、無意味と思う人もいるが、現実には、こんな段階を経て、人は成長する。
 考えることこそ、人間の特権と述べた人は沢山いるが、他の動物が、どんな思考を持っているのか分からないのに、そんなことを言うのはおかしい。ただ、考えることの大切さを、論じようとする気持ちから、こんな表現が出てきたと思えば、何となく理解できる気がする。成長の過程で、指示を守ることを第一とされ、それに固執する回路が固定してしまった人の場合、この部分で苦労することが多いようだ。自由という状態には、様々な付帯条件がつくとする話も、躊躇するきっかけを与える。それまでの束縛された状態から、解き放たれたとしても、すぐに何処へ向かえばいいのか、思いつかない人も多い。そんな中で、不安定な精神状態に陥り、出口の見えない迷路に迷い込んだ気持ちを抱く。道案内の必要性を説く人もいるが、ここでもまた縛りを与えるのでは、本当の自由は得られないだろう。節目節目の変化に、自らが対応できなくなることは、しばしば起きることには違いないが、それを恐れていては、次の段階は望めない。言葉にすると、いとも簡単なことのように見えるが、人による違いの方が大きいようだ。うまく波に乗れれば何のことはないのに、一度海中に沈んでしまうと、浮かび上がる機会が得られない。だが、そんなことを悩んでいても、何もできないから、さっさと進めることの方が大切なのだろう。

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3月20日(土)−絶滅

 Sushiがいつの間にか世界中に溢れ、和食の代表と見なされているようだが、その国に育った人間から見れば、余りに特殊な状況にしか見えない。しかし、飽食の時代と言われるだけに、豊かな国では、その結果として表面化した肥満の問題が、続出している。その中で、恰も健康に良さそうに見えるのだろう。
 と言っても、自分たちが見たこともないものを、その範疇に入れられるのを眺めると、違和感だけが残る。ただ、これはどの国にとっても事情は同じで、似非民族料理なるものは、世界中に広がるばかりだ。味覚の違いが、それぞれの料理の手法の違いに現れるだけに、本来の形は、その国でしか受け容れられない、のはごく当たり前だろう。各自の工夫によって変化したものには、元の姿を感じさせるものは微塵もなく、悲壮感さえ漂う。それを進化と呼ぶ人もいるが、全てを同じ枠に入れるのには無理があるだろう。そんな料理に欠かせないものが、資源保護の名の下に、厳しい制限をかけられる事態となった。これまで同様の理不尽で、利己的な提案は、今回に限り、多くの反対に遭い、否決された。いつものように、根拠のない馬鹿騒ぎをした人々は、この結果に安堵したとされるが、その成行には異常さが目立った。30を超える国が賛成に回るという読みは、20という結果から大きく外れたのだが、根拠の薄弱さを露呈した。その上、この国の要人たちが毎度繰り返す調査の誤りが、今回も表面化したのではないか。報道は、否決のみを伝え、その背景に言及しないが、多くの関心を持った人々には、頼りなさが感じられたのではないか。こんな連中とあんな連中が、馬鹿騒ぎを繰り返し、そのツケを国民に払わせることになれば、愚の骨頂となる。少なくとも、裏工作の詳報より、騒ぎの原因である票読みの誤りを追い続けるべきだろう。

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3月19日(金)−空費

 行き場を失った人々が街に溢れていると言われる。真偽のほどは分からぬが、昔なら、それぞれの責任とされたものが、社会全体の問題と捉えられ、種々の方策が講じられる。当事者たちにとって重要であることは確かだが、果たして、それまでの経緯を不問に付し、救済へと繋げるべきか、容易ならざる課題だろう。
 ぎりぎりの崖っぷちに立って、初めて動き出す人々には、そこからの展開を期待するべきであり、安易に手を差し延べるのは、控えたいところだ。一方、時間をかけたにも拘わらず、手に入らなかった人たちには、何かしらの救済があっても良いのかもしれない。ただ、社会全体でこの問題を考えるならば、その場合にも、時間切れを迎えてからではなく、それ以前の問題として扱うべきだろう。進学や就職といった節目にあたり、行き場を見出せなかった人々には、僅かな選択肢しか残されていない。そこまでの努力が報われなかったとするには、余りに悲惨な事例もあるだろう。中でも、最近の就職前線に関しては、全体の雰囲気だけでなく、手順や時間のかけ方に疑問を抱かざるを得ない。進学の目的が就職にあること自体に首を傾げたくなる部分も多く、当事者たちの考え方に異論を唱えたくなるが、それとは別に、現在の求人状況や人を求める手法には、根本的な問題があるように見える。社会の流れという一言で片付ける向きもあるが、如何にも消極的な意見であり、自らの思慮の無さを暴露するだけだろう。卒業を控え、次の段階への移行を模索するはずの活動が、その到達点が見えない時期に始まるのは、明らかに間違っている。時間をかけて慎重にとの姿勢も、漫然とした時間経過のみがあるだけで、本質を見失っている。こんなに無駄な時間を互いに過ごすのであれば、さっさと見通しをつけることが、健全な道に繋がるのではないか。

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3月18日(木)−至便

 情報の氾濫は常に、通信産業の隆盛を伴う。対面式の交換から、何かしらの手段を通してのものへと変換してから、それを扱う業界は発展を続けてきた。新しいものを作り出し、それを実用化することで、利便性が向上すれば、更なる参入が期待でき、規模が増す。その繰り返しが続いてきたのだろう。
 その一方で、古い仕組みは捨て去られる訳だから、関わる企業自体も変化を取り込み続けねばならない。新技術の採用も、投資が伴うだけに安易に取り組むべきでなく、また、古い仕組みの廃止についても、利用者の切り捨てに繋がっては、長続きはしない。そんな中で、一つの仕組みへの拘りから、経営状況の悪化へと繋がり、ついには更正法の適用を迎えたところもあるが、その後の展開は利用者数からしても、注目されるだろう。それと並行して、各社の競争の激化は高まるばかりだが、旧公社だったところは、様々な意味で課題を突きつけられているようだ。特に有線の情報供給では、設備投資に莫大な資金が必要で、従前からの施設を持つ強みを発揮する利点に思われたのが、様々な規制により、正反対の経過を辿ることになり、後手に回らされた感がある。経済活動として当然と言われても、現時点の施策には異論も多く、首を傾げたくなる論点もある。通信回路を高速道路と見なせば、それを利用する大量輸送機関が、利用者の利益と称して、通行料の大幅な値下げを要求するようなものだろう。こうなれば、道路建設にかかった経費は、永遠に回収できることはなく、一般の利用者の利益は後回しにされる。こんな比較は馬鹿げたものかも知れないが、強ち間違いとも言えないだろう。利用者優先の考え方が、最善であるとするのも、一般には受け容れやすいが、再生となるようでは、おかしな気もしてくる。競争の対象がずれているようだ。

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3月17日(水)−追従

 将来へ向けての計画とか構想とか、そんな掛け声が飛び交った時期もあった。最近はそれ程でもないところを見ると、本来の姿が露わになったようだ。夢を語るなどと言われることも多いが、将来の展望は、その人の力を測る上に重要な要素となる。見通しのある人でなければ、強固なものが築けないからだ。
 そんなところから考えると、こんな風潮に変化したのは、実力のない人々が出鱈目に動き回り、勝手気儘な思いつきをばら撒いたからだろう。彼らの責任も重大だが、一方で、そんな連中の実力を見抜けず、後を任せた人々の責任もかなり重い。結果として、十分な気配りを施した基盤作りは木っ端微塵となり、荒れ果てた畑を観るような気分にさせられる。一度耕作放棄をした土地は、簡単には回復しないと言われるが、即席的な施肥では長期間の展望は開けないだろう。一時的な豊作に巡り合えても、実のある収穫は見込めない。特に、将来計画において、最も重要となる長期に渡るものが、そこには期待できないのだ。近視眼的な考え方に固まった人々に、期待すること自体が土台無理なのであって、彼らには退席を促すことが必要だろう。特に、上の世代に媚びることが、処世術と信じてきた人々には、人の上に立つ力は備わっていない。そこからすれば、さっさと世代交代し、新たな道を模索する必要がある。これは、多くの組織に当てはまる話であり、将来への見込みを高める為には、重要な決断なのだろう。しかし、媚びを売ってきた人々は、それだけでは飽きたらず、ここから先も居座る姿勢を示しているらしい。どんな手立てがあるのか、その姿はまだ霞んでいるように思えるが、そろそろ手当たり次第でも良いから、動き始める必要がありそうだ。

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3月16日(火)−援助

 不幸な境遇にある人を見ると、助けたくなる気持ちが起きる。そんな話は、昔はごく普通に聞かれたが、最近はどうだろう。ちょっと様子が違ってきたように思う人も多く、自分が助ける立場だった筈が、助けられるべきと思う人が増えたような気がする。不幸という言葉も、色々な使い方がされ、そこにも変化が起きた。
 助けるという行為に、特別な事は必要ないと思うのだが、その辺りの事情にも変化が起きているのではないか。不幸だから助ける、助けられる、といった考え方が、どれほどの意味を持つのかは不明だが、気の持ちようとも思える指標だけを頼りに、何かを考えようとするのはどうかと思う。人間関係とは、基本的には弱い者と強い者の関わりではなく、単純に、人間同士の関わりに過ぎない。にも拘らず、強弱でものを考えたり、幸不幸でものを判断するのは、とても単純に見えるらしいのだ。人間がそれほど単純かどうか、簡単に判断がつくとも思えないが、そうやって単純化する事が最優先されるようだ。難しい話には参加できないが、簡単な話ならばできそうだと、そんな考えを持つのだろうか。すぐには理解できる筈の無い事だろうが、何かがずれているように思える。答えは見えていないけれども、間違った方に向かっている事だけは確かだろう。だが、現実社会では、依然としてこんな事が繰り返されている。不幸の競い合いは無駄としか思えないし、それを基準にして、助けられるべき人を決めるなどというのは、何とも理解し難い話だろう。では、どうしたら良いのだろう。すぐに答えを出すよりも、暫く様子を見る事の方が重要だろうか。だが、どうすべきか、考え続けるしか無いのだろう。何処かに解答が落ちているかもしれないと。

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3月15日(月)−価値

 情報の重要性が議論されている。誰よりも早く手に入れる事も重要だが、特殊な情報を手に入れる手段が取沙汰される事も多い。一方で、情報の価値を測る話はあまり取り上げられないのは何故か。どんなに早く手に入れても、それがガセネタだったら無意味だし、場合によっては、損失を被る事となるのだ。
 価値を見極める能力は、本来最も重要と見なされるべきなのに、こんな状況にあるのは、何処かで歪曲されている証拠ではないか。そんな見方をすると、ふと目につくのは、情報の源となるべき組織が絡んでいる姿である。つまり、流した情報の価値を見極められては、自らの立場が無くなるという事で、それが起きないように謀っているわけだ。操作という言葉は、こういう人々にとって、最も指摘されたくないものであり、そうならないように、あらゆる形での取り組みがなされている。これは逆に見れば、操作を気づかれないようにしたり、操作を目立たなくする事をさし、何層にも塗り重ねられたもののように思える。正義という言葉が強く意識された時代とは異なり、それとは別の基準で情報が流される為に、意図的な誘いが見え隠れする。判断力が十分に備わっていれば、それ自体は何の意味も持たない筈が、このところの変化からすると、どうにも歯止めの利かない暴走が続く事になる。何故こんな状況に陥ったのか、要するに、判断しようとしない人の数が増え、それに乗っかる形で好き勝手な事をする人々が、私利私欲に走る事となっただけなのだろう。制動がかかれば、何かしら別の動きが出てくるだろうが、現状はそんな気配もない。この状況が病的に見えるのは、この国に限った事でなく、遥か海の向こうでも同様の事が起きているからであり、深刻な状態というしか無いのだろう。

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