卒業証書を貰い、何処かに仕舞い込んだまま忘れている人も多いだろう。何の役に立つのかと、不思議がる人もいるようだが、以前は、法人化した組織に職を得た時に、その複製の提出を命じられたこともあったと聞く。詐称を疑うというより、確認だけのことなのだろうが、大きなものの複製に困ったらしい。
卒業は立派な資格であり、その有無に左右されることも数多ある。だからこそか、迷惑メールのある割合は、何の努力もなく手に入れられる大学などの卒業資格を、大っぴらに宣伝するものだ。金で手に入らないものはないと豪語した馬鹿者は、今はどこで何をしているやら、こんな世情だけに有り難がる人もいるだろう。まさにそれを具現化した商売だが、一方で、その価値を認めぬ人も多い。ピラミッドの研究で名を馳せた人は、その手の機関からの博士号を受けたとして、槍玉に挙げられたが、当人は正式な論文を提出したと、説明していた。問題はその努力にあるのでなく、価値判断が正当かにあり、その認証が疑われる理由となる。その意味では、こういう称号を就職に使えば、価値の有無が明確になることもある。逆に、正式な大学から得た称号と雖も、そこでの能力評価が正確でなければ、無意味なものとなる。要するに、本人の能力こそが第一の指標であり、資格はそれを量る一つに過ぎない訳だ。にも拘わらず、こんな商売が横行するのは、何でも金で解決しようとする人間の無能さ、倫理観の欠如の表れだろう。非合法な手段で手に入れた資格は、何の抗力も持たないだけでなく、所持する人間の品性をも下落させるものなのだ。ただ、一方で、努力さえすれば得られる資格というものも、そろそろ考えねばならぬ対象となりつつある。いずれにしても、自分の力を正当に評価される努力こそが、肝要なのではないか。
真相の究明、この言葉が意味するところは何だろう。事実を明らかにするという意味だけでなく、その背景にあるものにも光を当てるという意味が含まれているように、最近の報道から感じられる。ただ、知りたい人にとっての必要性とは異なり、例えば、人を裁く場合などは、本来ならば事実のみで十分に思える。
当事者達にとっては、様々なことにまで思いが及び、全てを明らかにしたくなる気持ちがあり、理解できないことではない。しかし、法の裁きという観点からすると、そこまでの必要があるのか、疑問に思うところだ。例えば、凶悪事件が起こる度に、動機を解明するとの指針が示される。不思議に思えるのは、猟奇的な事件ほど、そんな声が大きくなることであり、異常な人間の異常な本性を知ることが、どれ程重要なのか、理解に苦しむ。狂気の沙汰と片付ける代わりに、そこに至った異常な経緯を知ることが、何を解決するというのか。社会問題として、という声に対しても、特異な例がどれ程の意味を持つのか、異論を唱えたくなる。証拠となる物件があって初めて、事実が明らかになる訳で、物証のない事件では、確定的なことは論じられない。だが、凶悪犯を放置できないという考えから、物証に乏しくとも、自白さえあればということとなり、冤罪も含め、様々な問題が生じてきた。この大元の原因と思われるのが、動機などの必要性ではないか。殺人という犯罪は殺意がなければ成立しないとする論理も、理解できないわけではないが、単なる逃げ口上に使われるのを見ると、苛立ちが募るばかりだ。事件の状況や証拠を全て揃えれば、どんな種類のもので、誰が犯人かは明らかになる筈である。こんな簡単なことに気づかぬのは、何故なのか。その真相にこそ、興味が惹かれる。
議論の進行を妨げる方法は数多ある。牛歩などというのは、頭の悪いものであり、結果が変わらないところから、無意味とも思える。一方、原則論というか、核心を突くような話題に導き、論点をずらす方法は、高等戦術と言われる。一見無意味に思えて、無視できないだけに、それに無駄な時間が費やされるからだ。
戦略や戦術なるものは、勝利を得る為に必要不可欠であり、事前に練っておく必要があると言われる。しかし、その一方で、術に溺れると言われることから、練りに練られたものでも、気づかぬ欠陥を突かれ、墓穴を掘ることも多い。議論の場においても、同様のことが当てはまり、それぞれが工夫を凝らした進行手順が入り乱れて、議論を戦わせることとなる。こういった遣り取りは、常に対等であるべきものとされるが、現実は程遠く、様々な妨害の矢が飛ばされる。本質論はその一つであり、外せないものに見えるだけに、つい誘い込まれることとなる。しかし、現実には、議論の中では本質かどうかが問題なのではなく、どんな結論に至るかが重要なのであり、そこから再び本質の議論に戻ることは可能である。乗せる為の戦術だからこそ、乗ってやることは必要だが、そのまま迷路に誘い込まれる必要はない。重要であることの認識を示した上で、現時点での議論の対象とは異なることを告げ、後回しにすることで、十分に対応可能なのである。特段珍しい手法を必要とする訳ではなく、ただ単に、道筋を外さないようにすればよく、そう考えると単純な手順に過ぎない。ところが、これを実行できる人は意外に少なく、つい巻き込まれてしまうことが多い。これは、本質そのものへの拘りが、各人に備わっていることを利用するからで、観点の転換が必要なのだ。
旅立ちの季節、贈る言葉が各地で飛び交っている。人生の節目は、男と女の違いがあるもの、それ程多くはなく、こんな機会もそうあるものではない。ただ、職業や立場によっては、そんな機会に臨席することが多く、同じような挨拶に辟易となることもしばしばとなる。若者の成長を願う割に、自らの成長の見えない言葉に。
同じ場所にいても、送る相手は毎年変わる。だから、同じ言葉を繰り返しても、構う筈がないし、意義深いものなら、繰り返すべきという意見もある。だが、と思うのは、こちらの穿った見方の故かも知れぬが、話す相手の見識でなく、話す自身の見識が試されているとしたら、どうだろう。同じ立場から同じ言葉が聞こえるのでは、今更、耳を傾ける意味はなく、何処かから流れてくるものを眺めるだけでよい。芸の無さと表現してしまうと、下品な響きがあるかも知れないが、わざわざ壇上に上がって、年寄りの冷や水を繰り返すのなら、そろそろ退陣の準備が必要だろう。門出を祝うのに、一つの形式しかないとしたら、それは顔のない人々を相手にする気分ではないか。それぞれと、様々な形で接してきたとしたら、そこにこみ上げる気持ちに違いが生じるのが当然であり、浮かぶ言葉にも変化が起きる。引き出しの多寡が話題となることも多いが、人に何かを授ける立場の人間が、馬鹿の一つ覚えのような言葉を繰り返すのは、今まさに、取り沙汰されている荒廃の表れと見える。それを恐れてか、各地の長がつく人々の挨拶の多くは、時事を盛り込んだものが多く、それと目の前の人間達の繋がりを作ることが、彼らの役割の一つとなる。別に、一世一代の大舞台でもないが、目の前で送られる人々にとっては、それぞれが一度限りの門出なのだから。
活字離れの深刻さが話題になり始めてから、もう随分と時が経った。低下の一途だったものが、底に届いた訳だから、安定と映るほどなのかも知れない。しかし、それに携わる業界にとっては、明るい話題は零となる。その割には、日頃からその方面からの話が流れるのは何故か、不思議な気がしてこないか。
そんな中で、創業以来の記念の年を祝った会があった。賑やかな会は、集まった人々の多彩な顔ぶれに、驚くばかりだったものの、その実、この業界に関係する人の多さの方が、更なる驚きとなって襲ってきた。言論に関わる仕事であれば、様々な考えに溢れ、それに触れることは参考になる筈だが、どうも、そう行かないのが昨今の大きな問題だろうか。それにしても、なぜこんな事態に陥ったのかを考えると、彼らの頭の中には、何も考えなくなった人々の顔が浮かぶらしい。ウダウダご託を並べるだけの、したり顔の連中が、その実、自分から何も動き出さないことへの、不満というか、文句が、別の所から出ている訳だ。では、どうすれば、自発的な動きが導き出せるのか、結局、その席では答えは導き出されなかった。働き掛けは幾らでもできるが、ここまでの出版界を眺めても、それが無駄なことがはっきりしている。何十年も商売が続けられるのは、ほんの一握りの人たちが支えてくれているだけで、それを拡大する手立ては、未だに見えてこない。そんな気持ちが、話し手の中にも広がっていたのではないだろうか。まあ、所詮は評論家であり、実質のある話をできる人間ではないのは、会場にいる人々も百も承知だったのだろうが、それにしても、この事態、どうしたものか。
理知的な言葉遣いに憧れる人は多い。しかし、一つ間違えば、お里が知れることになり、却って逆効果となる。カタカナ語を多用する人は、その一例に過ぎず、その言葉の本来の意味を無視し、自分なりの解釈を加えた使い方をして、誤解を生じることも多い。厳格な用法を守らねばならない訳ではないが、気をつけるべきだ。
宇宙人と評される宰相が、独特の解釈を披露していた。所詮、人並みでないと受け取られているから、大した反響もなかったが、漏れ聞く限り、理知的とは思えぬ身勝手な解釈に思える。政治家に特有とも言われる、次々繰り出される軌道修正は、度々「ブレ」と表現される。それに対して、科学者の端くれとも言われた人物は、「揺らぎ」なる言葉を用いて、自らの変節を弁護した。大衆にとって、結果が全てであり、朝三暮四でなく、朝令暮改の態度が問題視される訳だが、当人にとっては、それらは全て自らの中から湧き出す変化となるらしい。しかし、冷静に眺めれば、そこには雑音も混じった外部からの圧力に、様々な形で影響を受けたものが見えており、とても自発的な変化とは見えない。また、揺らぎがある範囲内に留まる継続的な変化であるのに対し、ブレは制限範囲を持たないものだけに、ここから先の動きを見守るべきと思える。洒落た言葉を使いたがる人々は、その真意を考えることなく、単に響きだけで取り憑かれるだけに、こんな意味不明な言説が繰り返される。どの道、これらの経緯はすぐに忘れ去られる訳だが、場当たり的な対応では、一本筋の通った戦略は期待できない。確かに、明らかに誤った方に暴走する筋では、こんな事態を招いた狂気と同じになるだけだから、少しぐらいのブレは歓迎すべきなのかも知れないが。
休日に観光地に訪れる人は多い。交通手段の選び方によって、感想は異なるのだろうが、観光地内の移動には戸惑うことが多い。公共機関を使っても、自家用車を用いても、渋滞に巻き込まれれば同じこと、時間の浪費と感じる。平日ならば何も起きないのに、訪問者が集中する週末に、毎度同じことが起きる。
問題の原因は様々にあるだろうが、交通集中によるとするのが、適切な解釈だろうか。しかし、毎度お馴染みとなれば、いつまでもこの状態を放置するのも、不思議に思える。閑散とした日に訪れて欲しいと思う地元民もいるのだろうが、人それぞれの都合というものがある。古都として、区切りのいい年を迎えた都市にも、同じ状況が続いている。続くということは、何の対策も講じられていないということであり、地元民も含め、道路を使用する人間たちには、何とも迷惑千万な状態がそこにある。きりのいい年を迎えるにあたり、何かしらの対策が講じられつつあるようだが、手遅れといった感があり、既に様々な催しや誘いの動きが起こされ、訪問者の数は確実に増えつつある。そんな中で、悪名高い交差点は、これまで同様の状態にあり、不慣れな運転者も加わって、更に悲惨な状況になる。交通状況の把握は、市町村の役割というより、警察当局のものとされ、彼らなりの工夫はあるのかも知れないが、殆ど表面に出ておらず、おそらく八方塞がりの状況と、動きも止まっているのではないか。交通量の変化も、平日と週末では大きく異なり、偶に訪れる人のことは、放って置かれるのもやむを得ない、という考えがあるのではないか、と想像したくなるほどだが、おそらく、この状態のまま、この年は過ぎていくのではないかと思える。