パンチの独り言

(2010年3月29日〜4月4日)
(新旧、迂遠、曲言、凡君、異変、移ろい、自立)



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4月4日(日)−自立

 地方の時代、という掛け声も、その真意が責任転嫁や回避では情けない。権限委譲と言いつつ、必要な財源を渡さぬという姿勢では、何をかいわんやとなる。その一方で、衰え行く地元の力に、冷めた視線を送る人々の心情は、理解し難いものである。周囲の環境を整える数少ない動物が、こんな状況でよいのか。
 地域活性という言葉は、如何にも魅力的に映るようだが、その実行には様々な障害が立ちはだかる。現状維持なら何とかなるものの、一度下り始めた勢いを、如何にして止めるのか、最大の問題がそこにある。まずは分析という声もしばしば聞かれるが、目的が定まらない中で、何をどう分析するのか、いつも問題となる。反対に、まずは実行と叫ぶ人々もいて、霧の中を走り回るが如く、行き先の見えない行軍が続く。成功事例を引き合いに出し、同じことを繰り返しても、同じ場所には行き着けない。二番煎じと言われようとも、という気持ちは分からなくもないが、一方で、同じ課題を抱えているかさえ不鮮明なままでは、特効薬の効き目も怪しくなるだろう。自分たちが生まれ育った町だからこその愛着も、変革にとっては邪魔になることも多く、ある町の再生は余所者のお陰という声もあった。冷ややかな視線を送る地元民も困ったものだが、熱い視線での思い込みが邪魔をするようでは、それまた困りものとなる。多種多様な見方が集められ、その中から対策を焙り出す作業には、それなりの辛抱も我慢も必要であり、熱意だけでは達成できないものも多い。これまでは上から注がれるものを待ち受けていただけが、自ら滲み出させる必要があるとすれば、さて、何から始めたらよいのか。迷っていても始まらないことだ。

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4月3日(土)−移ろい

 思わぬ形で長持ちした花の命に、振り回された人も多いだろう。所詮、自然の成せる業、思うようにならぬのが当然なのだが、何でも思い通りにと願う愚かな人々には、思惑が外れたことによる被害が降る。全てが経済活動に結びつくと豪語する人々も、人の心の中にまで勘定を持ち込むことの愚かさに気づくのだろうか。
 開花の予想日を外したことを話題にしたのも束の間、その後の経過は気紛れに振り回される結果となった。予想とか予測とか、人々はその成否に一喜一憂するようだが、それ程のものなのかと首を傾げたくなる。的中させようが、外そうが、自然の移ろいは、そんなことはお構いなしに流れ続け、儲け話を逃した人々が騒いだとて、何の影響も受けない。自然を制御しようという夢を描く人もいるようで、そんな話はもう何十年も聞かされ続けてきたが、依然として実現しそうにもない。それを悲しむべきかと言えば、とんでもないことで、無駄な努力を積み重ねた上に、制御という名の下の、破壊を繰り返すことになるくらいなら、ただ成り行き任せに過ごした方が、ずっと良いのではないか。ここでも経済活動なる言葉が、切り札のように使われるが、その意味するところを考えてみれば、私利私欲の塊が見えてくるだけだ。自らの生息環境を都合良く変化させるのは、我々とビーバーくらいなものと、説明する人もいるようだが、それとて、自分の周囲だけのことで、自然の変化の振幅を局地的に小さくしようとするだけである。制御という言葉には、人間の関わりが大きく表れており、それ自体が自らの目標となる部分もあるのだろうが、単なる思い上がりとみることもできる。ただ、自然の移ろいを愉しむだけで、十分だと思えないのが不思議だ。

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4月2日(金)−異変

 朝の虹は珍しいな、と思いながら、車を走らせていると、急な暖かさに驚いたように綻び始めた桜が、薄紅を曇り空に散らしていた。ここまでなら、思わぬ変化と言っても、麗らかな春といった感だが、回転灯がその気分を壊す。道路は水浸しで、ふと覗いてみたら、店の中もその通り、夜半の火事だったのか。
 これだけなら、何かの拍子で燃えたのか、と思うくらいで済むのだが、その店は、暫く前にも丸焦げとなっていた。以前から、若者達が店の前で屯し、閑散とした町並みとは、異質の風景を描き出していたところは、客の姿を見たことはなく、若者が手持ち無沙汰にする姿が目立っていた。そういう場所は、都会ではしばしば見かけるものの、地方都市では珍しい存在であり、どうやって生活しているのかと、訝しむ気持ちも起きる。だが、それよりも重大に思えるのは、ここ数年の間に二度も火を出したことにあり、警察が調べに来るのもそんなところからかと思えてしまう。現実はどんなことかは分からない。しかし、衣服を売る店では、火の気があるはずもなく、閉めた後には閑散とした店内が、外から見える状態では、放火などといった犯罪も考えにくい。確かに、人通りは少なく、目撃した人もいないのだろうが、一体全体、どこから出火したというのだろう。一度痛い目に遭えば、普通は更なる用心を心掛けるものなのに、こんなことが繰り返されるのには、何か別の理由があるのではないか、と疑いたくもなるものだ。いずれにしても、前回同様、暫くの間は悲惨な姿を曝すことになり、町の風景にも傷を残すこととなる。また再建するつもりなのか、はたまた、立ち去るのか。現時点では何も見えてこず、見守るだけのことだ。

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4月1日(木)−凡君

 拙い説明に怒りを覚えたことはあるだろうか。感情の起伏の激しさにもよるだろうが、本来説明すべき立場の人間が、訳の分からぬ戯言を並べるのを見ると、気を静めるのに四苦八苦する。国の活動で言えば、一時話題になった仕分けはその最たるものだったが、一般の仕事でもそんなことはしばしば起きるようだ。
 上に立つ人間は、威厳を示すだけでなく、それに見合うだけの能力を発揮せねばならない。しかし、持ち回りといった形が通例となる部分では、そこに伴われるべき能力が、すっかり消し飛んでしまう例もまま見受けられる。立案者が別にあったとしても、それを実行する責任者たる人間は、その内容を熟知するのが当然であり、その能力がない人間には、その立場に居座る資格はない。ところが、世の中にはそんなことが当たり前のように存在しており、此処彼処でそんな茶番が演じられることとなる。本来なら、これ一つで組織としての機能が停止する筈だが、人間の社会はそれ程単純ではなく、あれこれ工夫するうちに、何とはなしに物事が進むこととなる。だからといって、その程度のことは大した影響を及ぼさない、と結論づけてはいけない。それが組織の腐敗を進め、気がついた時には既に手遅れ、という事態になるからだ。保守的な考え方からすれば、平穏無事に何事も進めばいいと思われるが、腐った蜜柑を箱に放置すれば、どんなことが起きるのか、自明なことだろう。保身に走る人々が、組織内の大半を占める状況では、中々解決の糸口も見つからないが、それでは消滅の危機を漫然と待つだけとなる。自分がいる間だけで、と思う人も多く、そこにも大きな問題があるが、いずれにしても、他の人の話でなく、自分の話として考えれば、自ずと結論が出てくるのである。

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3月31日(水)−曲言

 責任が強調されるようになったのは、それが意識されなくなったからだろう。自由を謳歌する風潮が強まるにつれ、身勝手な行動が目立つようになり、対抗する表現として「責任」なるものが意識されるようになった。逆にいえば、世間的には意識の外に追い遣られ、言葉だけでなく、全ての意味で無視されたのだろう。
 社会の揺れ動きに関しては、行ったり来たりのものばかりで、一点に留まるものもなければ、一方向に動き続けるものもない。そんな定めからか、自由の程度に関しても、いつの頃からか制動がかかり始め、無制限な許容は消え失せてしまった。それと時を同じくして、責任の重要性が強調され、以前にも増して、厳しい追及がなされるようになり、標的になれば、避けがたいものとして捉えられるようになった。ところが、その傾向が増し始めると、またぞろ、変な動きが強まる。責任と評して、身勝手な言動を繰り返したり、無責任とも思える「責任」が横行し始めたのだ。確かに、人それぞれ、組織それぞれに、様々な責任が負わされており、その範囲内での活動を余儀なくされる。だからといって、全ての動きに制限がかかる訳ではないから、範囲内での自由を楽しむべきと思うが、どうも違った方に向かう人がいるらしい。議論の場では、様々な立場からの発言があり、そこから総合的な結論が導き出されるが、全ての事柄が議論の対象となる訳ではないから、ものによっては、一方的な言説が流布されることも多い。そこに責任が伴っていれば、偏向したものでも構わぬ、という考えがあるからか、十分な検討なしに流されるものもあり、そこから悪影響が生じることも多い。時効に伴い、動きが制限された途端に、裁かれない情報を流すという行為には、何か異常な雰囲気が漂うが、これが説明責任とでも言うのだろうか。

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3月30日(火)−迂遠

 節目を迎えて、将来に不安を抱く人も多い。特に、新たな出発を控えた人には、その直前の気分の変動は、抑えきれないものがあるだろう。だが、こう考えてみてはどうかと思う。節目や変化は、人生のうちに何度も訪れるものであり、全く同じ道を歩み続けることは難しい。それより、変化を乗り切る楽しさを感じるように。
 悩むことが恰も成長に繋がると説く人は多い。しかし、悩まなかったからといって、いつまでも幼いままであり、人としての格が低い訳でもあるまい。闇雲に悩むことを推奨したとしても、進む道は見えてこないものだろうし、そんな無駄を繰り返しても、変化は期待できない。少し考えれば見えそうなことが、これ程明確にならないのは、様々な形で助言を素直に受けてきたから、という解釈もあるが、人の心理がそれを続けることこそが、成長を妨げているのではないだろうか。素直という言葉は、反抗と対極にあるように受け取られるが、必ずしもそうではないだろう。どちらにしても、何の見通しもなく続けることが問題であり、自分なりの判断に基づく決断であれば、結果がどうあっても、経過としては良いと見るべきである。結果ばかりに目を奪われ、そこに至る道筋を評価しないという傾向は、近代社会の主流となりつつあるようだが、それが産み出す悪影響については、余り議論されていない。結果のみが全てという見方は、ある意味では重要となるが、人の行動として考えた場合には、大きく違った見方があるのではないか。通常、人の成長に合わせて、こういった見方の広がりが自然に入ってくる筈なのだが、最近はそれが難しくなっている。賢く生きることばかりに注目が集まり、遠回りすることを避ける風潮が、こんな馬鹿げた考え方の価値を高めているのかも知れない。

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3月29日(月)−新旧

 広告収入に頼る業界は、情報発信の方法の様変わりから、厳しい時代に突入したと伝えられた。効率第一を掲げる人々にとって、投げただけで終わりの仕組みより、こだまが返ってくる仕組みの方が、遙かに効果が上がるという訳だ。新旧交代とも思える動きなのだが、そんなに単純なのかと、訝る空気もある。
 インターネットの普及により、利用者が増加すると共に、情報源の形態も大きく変化した。そこには、依存という言葉も見え隠れするが、それは兎も角として、双方向の仕組みの確立は、一大革命の如く扱われている。ところが、その核となるべき企業が、旧態依然と批判される媒体に広告を掲げている。絶対的優位を誇るのであれば、広告自体も自給自足で事足りるはずが、わざわざ、他の企業が敬遠する媒体に助けを乞うのは、不思議なものに映る。この辺りの動向から見えてくるのは、物事を深く考えることのできない、報道関係の見方の誤りであり、一方的に取り上げる姿勢の問題だろう。煽ることばかりに心を奪われ、それが恰も収入の増加を促すように信じ込んだ業界は、依然として局所のみを捉え、全体の把握を忘れている。肝心の業界は、自らの生きる道を模索することに専心し、馬鹿共の戯言に耳を傾けず、冷静な分析を繰り返しているのだろう。こんな姿を、ここで「馬鹿」と名付けられた業界の人々は、どんな捉え方をしているのか。以前ほど興味は湧いてこない。何故なら、彼らの発する言葉には、一切の責任は伴われず、欺瞞と煽動の塊と化しているからだ。そのことに気づくまでは、この状況は変わり得ず、離れ行く人々を留めることは不可能だろう。視野の広さを誇った時代は遠い昔となり、狭窄が当然となった今は、こんな状態だ。

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