パンチの独り言

(2010年4月5日〜4月11日)
(捌け口、改竄、安閑、迎合、卑近、虚勢、必須)



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4月11日(日)−必須

 教え育む筈が、どうも怪しいとなり、右往左往した末に、更なる深みに落ち込む。そんなことが繰り返された挙げ句、先祖返りを決断したらしい。ああいう場所で、平等の意味を取り違えること自体が、理解に苦しむことだが、皆をそれなりにという思いが、間違った方向に向かい、荒廃を招くこととなった。
 全員を到達させるためには、目標を低く設定する必要がある、という当然とも思える考え方は、その実、全くの間違いだったと反省するのだろうか。簡単なことを教え込み、それができるまで、強制するのが教育だと、言いだした本人は思っていなかっただろう。しかし、結果として、そんな状況が生まれ、個性を伸ばすという掛け声は、遠吠えに過ぎないこととなった。金太郎飴と揶揄されるしくみは、こうして全国に広がり、無知蒙昧を量産することとなる。現場からの悲鳴は、違った形で届いたのだろうが、本質の所では、それぞれの才能を見極め育む役割が、すっかり忘れ去られることとなった。要するに、簡単なことだから、全員を理解させるように、という考え方が大失敗の端緒であり、猛省をする必要があるのに、関係者は方針変更だけを訴える。何が肝心かを考えることなく、以前と違うことを言うことで、改革を成したとするわけだ。既に、現場の荒廃は進んでおり、今さら、どんな手立てを講じようとも、という声も聞かれるが、そこまで腐敗が進んでいるとは思えない。何しろ、自分の考え無しに行動する人間が、子供達の前に立っているのだ。きちんとした方針を示せば、その通り動くだけで、大した苦もなく実行に移せる。こんな考えを甘いと言うかどうかは、人それぞれの考え方だろう。だが、根本の考え方を変えさせる努力よりは、この程度で留めておく方が、効果を上げるのかも知れない。

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4月10日(土)−虚勢

 謙虚という言葉はその対象を失ったのだろうか。辞書によれば、「自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持ちがあること。」とある。自信を失った若者の態度は、その範疇に含まれる筈がなく、実力の伴わない人間の不遜な態度は、論外となる。年齢に関係なく、丁度良いところが居ないと思えてくる。
 特に、この傾向が強く表れているのが、若年層だろう。自信がなくても、自らを何とか大きく見せようと、無理を承知で挑む人を見かけることはなくなり、覇気の感じられない、素直と言うより、大人しい人間が増えた。その一方で、ごく一部に過ぎないものの、何の根拠もなく、自信を振り翳す人間が居る。こちらは、何やら攻撃的な傾向が強く、周囲との協調性に欠けた行動が目立つ。本人の心の中には、認められることが当然との思いが溢れているから、不当な扱いに始終腹を立てることとなる。しかし、何をやらせても失敗ばかりし、それを他人の責任にする態度には、同調する人もいない。孤立するばかりとなり、自暴自棄となることに、組織や社会の責任を問う人もいるが、的外れも甚だしい。主観しか存在しない人間にとって、自らの存在をどう考えるかは、たった一つの答えしか見えてこない。そんな中で、何やら態度が変わることがあるか、殆ど期待できないだろう。懇切丁寧に教えようとする人がいるけれど、まず伝わることはない。当人の心の中にある、拒絶する態度が消えない限り、外からの働き掛けは届かないからだ。気づきの大切さは、こういう場面では余り認識されず、つい一から十まで教えようとするが、現実には受け止め方に変化を起こすしかないのである。その意味では、舌足らずの言葉を繰り返すことになり、当人の抵抗は強まるばかりとなる。

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4月9日(金)−卑近

 分かり易いことが重要と見る風潮が強まり続けている。つい最近発表された名称も、そんな思いが込められているように映る。しかし、平易とは安っぽい事なりと言われた時代もあった。今回の名前にも、そんな印象を受けた人がいるだろう。易しいという言葉に含まれる意味が、酷く偏ってしまったからなのだろうか。
 そういう話がある一方で、難しい内容を更に分かりにくく話す人々がいる。漢字を並べ、恰もそれ自体が重要な意味を持つかの如く、次々と発せられる言葉には、難しさだけが込められ、軽々しく使うことによる弊害には、一切気づいていない。あれほど工夫して、誰にでも分かるようにと、捻り出された名称も、その思うところや理念なるものが出てきた途端に、霧の中に誘われるのだろう。いつ頃からか、一瞬で理解できることが、名称や掛け声において重要となり、まるで広告業界の如くの動きが起きた。注意を惹きつける為の手法や、好意を誘う方法が紹介され、そこにあるべき本質が脇に寄せられた。その結果、今起きているようなことが繰り返され、分かり易いという半面、実感できない状況ばかりが生まれる。言葉の重みは、そんな一言にだけあるのではなく、そこに至る過程や説明にこそ、込められるべきなのではないか。詐欺行為を繰り返す人々の才能を羨む人もいるが、詐欺師にはある特徴があり、騙されやすい人の見分け方や、彼らの心理を操る術がそれにあたる。そんな中で、言葉の意味の取り違えも要素の一つであり、引き込む手順ともなる。今回のものが、そんな騙しの一つとは言わないが、本当の実力を見せる為の手段として、平易な言葉遣いをとったのだとしたら、年寄りの時代錯誤となるのではないか。希代の詐欺師と呼ばれるかも知れない政治家と一緒になってはいけないと思う。

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4月8日(木)−迎合

 子供の数が減り続け、解決の糸口が見出せない。抜本的な対策として講じられたばらまきも、揶揄する声ばかりが大きくなり、その効果の程を確かめる気さえ見えてこない。老人達を支えるべき若者が居なくては、社会の維持が難しいということだが、将来性の無さを強調するだけでは、今を愉しみたい人には何も届かない。
 人手不足が訴えられる一方で、就職浪人の話が取り沙汰されるのは、何とも不可思議な状況だが、現状はまさにこんな具合である。それぞれに主張があり、都合があるのだろうが、社会全体として考えると、余りの無責任に呆れるばかりとなる。教え育むことの意味は、既に忘れ去られ、安易な選択を繰り返させることで、腐敗の一途を辿ってきただけに、今更、何が効果を上げると言うのか。その一方で、活路を見出そうと、外に目を向ける人々が目立ち始めた。定員を埋められない大学は、既に、人買いの如く、掻き集めることに躍起だったが、質の低下を嘆く大学も、別の形での勧誘に力を注ぐ。しかし、一部の国で実行されている、札びらで頬を叩く手法に勝てるはずもなく、自らの格の高ささえ通用しない時代は、まさに欲望渦巻く世界なのだろう。一方、鎖国政策などと揶揄される、企業の外国人雇用の実態にも、かなり手厳しい批判が相次ぐ。世界進出を機に、共通言語の導入を突きつけられ、四苦八苦する企業も多いが、この国を支える中小の組織には、その余力もない。雇用される側にばかり要求が偏ったことの是正、とする見方もあるのだろうが、果たして将来を見据えた上での判断か、疑わしいものだろう。大学も企業も、何やら擦り寄る姿勢ばかりが取り上げられるが、何が本質かを考えること無しに、一時の欲に走るのでは、この事態を打開することは難しい。

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4月7日(水)−安閑

 無難に生きることを第一とすれば、特別なことをせずに暮らすのが一番だろう。目立つこともせず、指示に従い、文句も並べず、平穏を願いつつ毎日を過ごす。読む人によっては、此処まで来た時点で腹に据えかねる、といった感覚に囚われるのかも知れない。しかし、現代社会ではごく当たり前と思われていることなのだ。
 幾ら平均化された社会だと言っても、全ての人間がこんな考え方をする筈もない。しかし、割合は確実に増えていると聞くし、それを憂う人々の数も増えているように見える。だが、こんな状況がどれ程深刻なのか、それについては答えを持つ人はいない。どうなるか、という質問に答える術はないのである。その逆に、事態を打開することを強く主張する人からは、かなり乱暴とも思える手立てが提案される。閉塞感に満ちた社会では、こういった極論が罷り通ることもあり、数年前なら実現したかも知れない。しかし、それが起きた後での混乱を経験した人たちは、革新より保守という考え方の転換を意識し、出鱈目な思いつきより、僅かずつであっても変化を促す動きを歓迎するようになった。ただ、ここでも全ての人が思考力を高めた訳でなく、目の前の餌に飛び付く性質を、学習によって変貌させることができず、再び奈落の底に向かおうとする人がいる。自業自得と片付けるのも一つだろうが、その悪影響が伝搬することを考えると、この辺りで歯止めをかける必要がありそうだ。労働力の不足と能力の低下が取り沙汰されているけれど、全体論で見極めるものかどうか、これまで多くの人間の平均値の高さによって支えられてきた国だけに、この辺りの判断は難しい。しかし、ここで焦ってしまっては元も子もない。じっくり構えた形での方策こそが、こんな時に最も役に立つことを肝に銘ずるべきだろう。

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4月6日(火)−改竄

 何かを主張する時に、データを利用する人は多い。自らの考えの確かさを示す為の道具として使うのだ。逆に言えば、データによって客観的な実態が示されることとなる。更に言えば、客観的なものでなければ、データとは呼べないのである。しかし、世の中を見渡してみると、何と杜撰なデータが多いことか。
 本来、数値で示されるデータは客観的なものと見なされる。言葉で示したものは、その解釈により意味が左右されることがあるのに対し、数値にはその余地がないからだ。ここで話題に取り上げるものも、その考えから数値からなるものなのだが、現実には多くのものが、客観とは名ばかりで、恣意的な操作が施されている。例えば、アンケート調査では、多くのものが百分率という割合で示される。それにより多少の比較をする訳だが、一見正当に見えるものでも、質問項目を眺めると、そこに調査主体の思惑が歴然と現れる。言葉で示したもの不確定性が、こういう所で活用される訳だ。更に、その数値を分析したデータにおいても、変動を抽出する場合、その対象を限定することにより、見せたいものと見せたくないものの選別ができる。数字に惑わされやすい人々にとって、その前に施された操作は目に見えず、簡単に騙される結果となる。数値データそのものは、客観的なものに違いないのだが、その表示法、処理法によって、その価値は様々に異なることとなる。受け取る側には思い込みがなく、中立的な立場で判断したとしても、送り手に偏った考えがあり、その上での処理をしていたとしたら、最終判断は中立的とは言えず、ある思惑に左右されたものとなってしまう。データを鵜呑みにする習慣は、人を信じることを基本としているが、もし、こんな事が起きていたとしたら、根本から覆されることになる。

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4月5日(月)−捌け口

 当たり前のこととなり、皆が耳を貸さなくなったことの一つに、不平不満があるだろう。愚痴という形から、要求とも言うべき欲求の塊への変貌は、いつの時代に起きたのか分からない。しかし、現在では誰がそれに応えるべきかが不明確で、愚痴へと戻りつつある。一つ、真面目に対応する人がいるところを除いて。
 不平不満は誰にでもあるものだが、それを表面に出すかは、人それぞれだろう。出す前にやるべきことを考える人もいれば、受ける相手に思いが及ぶ人もいる。お互い様は言い過ぎかも知れないが、社会の仕組みを考える上では、こんな均衡が重要な要素の一つとなる。そんな中で、依然として自分中心で動き続ける人がいて、周囲への悪影響をものともせず、要求を次々と突きつけてくる。その場での遣り取りを眺めると、彼らの中に激しい権利主張があり、それが当然との振る舞いが見えてくる。しかし、これまでの経緯を振り返ってみると、権利だけが突出する状況は、如何にも均衡が崩れ、落ち着きのない流ればかりが目立っている。そんな状況では、損得勘定ばかりが前に出て、しなければ損になるかのような動きまでが、飛び出してくる始末となる。一方的な社会構造であれば、そんな状況を維持することもできない訳ではないが、民主主義なるものが絶対視されるようになってからは、あり得ない状況と見なされる。勝ち負けが重視されたり、格差が取り沙汰されるのも、そんな不均衡を意識させることで、自らの主張を通そうという思惑からだろうが、互いの存在を尊重すべき社会構造では、結局のところ長続きはしない。しかし、こんな環境に慣れ、それが当然と思いながら成長した世代には、常識的なことが理解し難いものとなっている。徐々に気づくのを待つか、はたまた強制するかは、それぞれの組織によるのだろうが。

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