言葉巧みに近づき、相手の心を揺さぶって、金品を奪い去る。詐欺の手口の一つだが、こんな行動から、頭の良い人間の代表のように扱われる。しかし、一部の凶悪な犯罪者を除き、最近話題になる大多数の雑魚共は、頭脳明晰とは思えぬ状況にある。手引を踏襲し、ただ同じことを繰り返す人間に、頭は要らない。
様々な詐欺の手口が紹介され、その巧みさに注目が集まるようだが、実態は果たしてどんなものか。単純な手口で、孫を装うだけでは無理と気づくと、別人が登場して、公権力の代表を偽装する。三文芝居さながらの状況だが、やっとのことで騙されることに気づく人々には、十分ということなのだろう。それを恰も手の込んだ行為のように取り上げるのは、判断力の欠如より、人間の欲深さやさもしさの表れを強調するだけに思える。孫を守る行為のどこに欲があるのかと、訝る向きもあろうが、寄付には目もくれず、家族を大切にするのは、何かしらの意識があってのことではないか。一方、資産運用なる言葉が飛び交い、残しても意味のないものを殖やす行為に腐心する人々は、抜け駆け的な儲け話に弱い。そんなところにつけ込む連中は、腐肉に群がる禿鷹の如く、次々にその数を増し、なけなしの資金を貪り食うこととなる。如何にも芝居がかった言動や行動にも、金に目の眩んだ人々は、疑いを挟まず、簡単に騙される。そんな場面で、特別な知識や知能は不要であり、決まり切った台詞を繰り返すだけでよい。そんな手引に表れた言葉には、この手の人々の非常識が如実に表れるのだ。高い確立で、と書いてある文書に、何の疑いももたず従うのを見ると、どこにも知能犯など存在しないことが知れる。そんな連中に騙されては、情けないと思うべきでは。
欺瞞に満ちた行動を糾弾する話は多い。しかし、その一方で、組織の一員が正直を理由に、全体の意向を無視した行動に出ることは、大した批判を受けない。誠実かどうかは、人間として重要なことに違いないのだが、秘密を守ることがそれより上に来ることはないのか。馬鹿が付くほどの人々を見ると、ふと思ってしまう。
騙す行為そのものは、社会秩序から考えれば、攻撃の対象となることは当然だろう。しかし、秩序を守るために、口を噤まねばならないこともある。時には、両者相立たずとなることがあり、究極の選択となる場合もある。ただ、それ程重要でない場合でも、秘密を守れず、次々に漏らし続ける人がいて、信頼は失われる。誠実と信頼は、本来両立しそうなものだが、こういう人間は、範疇に入ってこないようだ。オフレコを振り翳し、情報に飢える人々に、秘密を暴露するのは、どちらが悪質か、考えることもないだろう。仮定の話だからとか、常識として理解できる範囲であるからとか、それぞれに理由は様々な形で飾り付けられる。しかし、本人の頭の中の判断においては、おそらく螺子が一つか二つ抜け落ちているのではないか。抜け駆けとか造反とか反乱とか、立場によって表現は異なるが、こんな言葉がつけられた時、全体の秩序は脇に押しやられる。個人主義においてこんな事は当たり前、と思う人々は、本質を見抜けぬ愚者と呼ばれることこそが当然だろう。自由主義の国では、個人は尊重されるが、それが秩序を乱した途端に、全ての権利を失うこととなる。何が優先されるかの順序を理解することなく、自由という言葉に酔う人々には、こんな感覚の欠如が著しい。そんな連中が、色々なことを決めるとなれば、心配は募るばかりだ。
自主自立が大切と言われるが、実態はどうだろう。人の目や行動ばかり気にしたり、世の中の流れに遅れないようにと思ったり、そんな人の数は依然として多い。世論調査の結果はその最たるものであり、調査の度に大きくぶれる動きには、自分なりの判断より、世の中の動向ばかりを気にする世情が現れている。
自己主張を重視する一方で、団体行動を強制する環境では、自分を保つことは難しいのかも知れない。しかし、両者を極端に表現するから、そんな困難に見舞われるわけで、それぞれを巧みにこなしさせすれば、大した苦労はないのではないだろうか。言葉で表現するのは容易だが、実行に移そうとすると、躊躇ばかりが先に立つ、という人も多いだろう。だが、他人と違った行動をしたからといって、それのみで糾弾されることもないだろうし、村八分のような事も現代社会では起きない。にも拘わらず、他人の目を気にする心情では、目立つことを極力避ける傾向が高まる。同調することは難しくないが、異論を唱えることには抵抗を覚える、という行動様式も、現実には、自分がそんな目に遭わされたら、といった思いから出ているのかも知れない。つまり、自分が何かを主張した際に、反対されたら嫌な気持ちになるので、他人にもそうしないようにする、といった考え方だ。これを、協調性と表現される行動と同等と見なす人もいるが、実際にはまったく違った心理から起きることであり、正しい方には向かえない。正誤の違いを明確にし、問題点を整理するための議論では、このような偽物の協調は、後々の破滅に繋がるだけである。その辺りの感覚を、早いうちに磨いておかないと、困った人間になるだけなのだが、そうできなかった人が社会に溢れていることを、今の状況は表しているようだ。
情報の洪水が問題視されている。種々雑多な情報が次々に流され、玉石混淆の状態では、何に頼れば分からなくなる。取捨選択の重要性を説く人もいるが、その暇を与えないほどの量の流れに、為す術もないという声もある。どちらが正しいかを論じるのは無意味で、各人にとって重要なのは、何をすべきかを知ることだ。
量の多少を問題にし、その増加によって混乱が起きたとする話には、多くの人が賛同しているようだ。だが、人それぞれが一時に接することのできる情報量は、限られているのではないだろうか。殆どの情報は、目か耳から入ってくるものだが、一度に見ることのできる情報も、一度に聞くことのできる情報も、余程の天才でない限り、大した量にはならない。目よりも耳の方が、多種類の情報を一度に採り入れることができる筈だが、聖徳太子の話があるくらいで、普通の人にはできない芸当である。こんな見方をすると、選択できない最大の原因を、量の過多とする考え方は疑わしくなる。そんな指摘をすると、次には、別の考え方を押し付ける人がいる。それは、情報の変化の速度が問題、とするものだ。一度に見られる情報量には制限があるが、それがコマ送りのように、次々に展開し、流れていくとしたら、現代社会ではその速度が、昔とは比べものにならないほど、増しているという論理だ。これに賛成する人もいるだろうが、子供達の行動と比べると、その確かさがぐらつく。子供は総じて気紛れであり、次々に興味の対象を変える。その速度たるや、大人から見れば、かなりのものと映るだろう。ここで肝心なことは、能動か受動かの違いであり、それが処理能力の限界を決めていることだろう。これを無理矢理導けば、取捨選択の能力の欠如は、能動性の問題ということになるのでは。
親が暇になったから、何でも手取り足取り、などと指摘する声もある反面、躾や常識を身につけていない子供の数は、依然として多い。それでも、成長するにつれ、徐々に身につけようとする気が出てきたものだが、最近はとんと姿を見せない。だから、社会全体で手取り足取り、とする思考回路は、当然の産物なのか。
世の中には、そんな仕組みが次々と導入され、人集めの切り札と扱われることさえある。しかし、実際には不要なものも多いだろう。全てを一から十まで教えることが、唯一の手法と信じる人々には、ごく当然の成り行きだが、結果を見る限り、失敗ばかりが目につく。受け身に慣れきった連中は、口を開けて待つだけになるからだ。自発性という言葉に、矢鱈に注目が集まるのも、こんな愚行の副作用の故だろう。同じように、傾向と対策が安定した社会では、重要な手法と見なされる。できないのだから、できるように、という考え方も、そこから来るわけだが、これが異常な行動を引き起こすから、驚かされる。重労働の職には、豊かな環境で育った若者は、見向きもしないことから、外国人の参入を促す動きが、様々な職種で起きている。今話題になっているのは、この中でも資格取得が条件となるもので、数年前から始まった制度では、多くの外国人が参加してきたが、一部で危惧された通り、ほんの一握りの人間しか、初めての試験に合格できなかった。試験の難しさは、その内容にあるのではなく、そこで使われる言語にあると指摘する人々は、様々な対策を提案するが、中には、折角来てもらったのだから、合格できるように、という意味不明の主張がある。制度策定過程での不備を、こんな所で繕われては、何のための制度か分からぬし、粗製濫造のきっかけともなる。始めの話も実は同じで、質の低下を招くだけなのだ。
叱るのを止めた時、気持ちが晴れた人ばかりではなかったろう。書棚には「褒める」を鍵とした背表紙が並び、子供の人格を尊重する意見が、大勢を占めることとなった。自尊心なる言葉を、年端もいかぬ子供達に当てはめる識者が、大仰な言葉を並べ、それまでの育て方の間違いを指摘した。その後の展開はどうか。
今更手遅れ、というのが彼らの常套句だが、如何に早く自立心を築くかが重要とする意見には、理論武装の跡は窺えても、実績の積み重ねは見えてこない。しかし、依然として、子供の虐待が続く世の中では、彼らの意見の方が力を持つ。躾と称する暴力行為が鎮まらぬ限り、一方的な意見をも聞かざるを得ない。しかし、これらの暴力行為を繰り返す世代を、もう一度分析して欲しいと思う。彼らの育った時代は、まさに、虐めが盛んになり、褒めることの重要性が説かれたのである。その結果として、自分中心に考え、信じるところを強引に進めることが、最優先される人格が形成された。その時流に乗らなかった人は、結局は沢山居たわけで、その被害を受けずに済んだからこそ、今でもまともな子育てが実践される。しかし、識者達の主張に耳を傾け、それに従った人は、結果としてろくでもない人間を世に出すこととなった。だが、マッチポンプの流れは、依然として留まるところを知らない。自ら産み出した異常な人間共が、再生産を繰り返すのを、冷ややかな視線で捉えた上で、彼らの欠陥を指摘する。ところが、そこに大きな落とし穴があるわけだ。子供達に理解を示す人々には、極端な考え方をする人が含まれており、彼らの考え方には、明らかな欠陥が存在する。しかし、悩みを抱えた人にとって、救いの手は有り難いものと映る。その結果は、こんなものと、承知しておく必要があるのだろう。
教えることは押しつけではない。そんな思いから、子供達の自意識を尊重する動きがあった。自分の選択の範囲で、将来の道を決めさせようとする考え方は、一見正しいものに見える。しかし、何の判断基準も持ち合わせていない人間にとって、自由とは無ということになる。慌てて強制すれば、それまでの努力こそが無となる。
机上の空論を展開する人々にとって、理論化は唯一の武器となる。如何にも、と後から考えれば思えるようなものでも、その場では綻びも見せず、推し進められることとなる。しかし、人それぞれの多様性を無視した形の試みは、次々に欠陥を露呈してしまう。これでは、というわけで、再び押しつけの仕組みが優勢となり、何もかも指示通りに動くことを第一とする。学校という箱に閉じ込められ、他の選択肢を見出せない人間には、それこそが安心に繋がり、人によってはそこに留まろうという思いに囚われるようだ。だが、種々雑多な人間が蠢く社会では、他人任せの方式は通用しない。この大きな溝に惑う人たちで、今や社会は溢れている。だが、一度動き出した仕組みは、簡単には引き戻せない。社会への飛躍の最終段階である大学でさえ、常識や作法を教え込もうとする始末。どこに行っても通用する絶対的な手法があるなら、このやり方は正しいと言えるのだろうが、如何せん、そんなものはどこにも存在しない。社会が一つの規則に縛られていた「東側」と呼ばれた仕組みでさえ、その限界に到達し、崩壊してしまった。そんな社会では、決まり切った行動規範こそが、最重要と見なされていたのだろうが、それを育むはずの組織自体が崩れ去るのは、そんな考え方が間違いだと示している。適応は、自らが起こすものであり、その道筋を示すのは、強制に過ぎないのでは。